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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第六章 奪われた座標

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第七十七話 防波堤

【現実世界・オルタリンクタワー/深部・核の部屋】


核の部屋は、呼吸していた。

赤黒い紋が床の下で脈を打つたび、

鉄骨の軋みと、石のうなりが同時に返ってくる。

上を見上げれば、配線の影。

けれど同じ暗がりに、鎖飾りの黒い輪郭が混ざっている。


――境目が、消えた。

さっきまで「飲み込み合っていた」白と赤は、

いまは一枚の空気になっている。

どちらが現実で、どちらが異世界か、

そんな言い方自体が遅れていた。


床の中央。三本の杭。

右は折れたまま沈黙し、左は光の糸を断たれて息が細い。

真ん中だけが、生き物みたいに赤く強く脈打っていた。引きずり込みの杭。

歓迎するように、嬉しそうに。


黒ローブが、増えた。

壁の“裏”から湧くというより、壁そのものが黒くほどけて人の形になる。

顔は見えない。

見えないのに、視線だけが刺さる――測られている。


「……供給を止める」

アデルが低く言った。

剣を構えた姿勢が、いつもの訓練場より一段重い。


リオの腕輪が熱で赤くなりそうだった。

「杭に喰わせてる。倒しても意味が薄い」


セラがうなずく。

「黒ローブは“栄養”です。術式を運ぶだけ。

杭が生きている限り、いくらでも――」


「なら、杭を折る」

アデルが言い切る。

命令口調はいつも通りなのに、声の奥に震えが混じる。

ここを落とせば、現実が沈む。

防波堤は、もう引けない。


ハレルはバッグの口を押さえた。

薄緑の光――日下部のコアが、弱く脈を打つ。

色は薄緑のまま。けれど、光が薄い。

黒い粒が混ざり、脈が、ときどき途切れかける。


(持ってるのに、遠い)

(……杭の向こうに“器”がある)


サキが息を呑む。目は杭から逸らさない。

掌のスマホが震え、画面に短い文字が滲んだ。


《目を固定しないで》

《線だけ見て》


「……分かってる」

ハレルは自分に言い聞かせるみたいに呟き、

視線を杭の“形”ではなく、床を走る赤い線へ落とした。

血管みたいな線。

黒ローブが触れようとしている線。――供給路。


「リオ」

アデルが短く呼ぶ。

「“線”を剥がせ。黒を、寄せるな。離せ」


「了解」

リオは鎖を走らせた。

黒ローブの影に噛みつく鎖は、

引き寄せるのではなく、床から引き剥がすように絡む。

影が千切れ、黒い布が一瞬だけ“空中に浮く”。

その隙間から赤い光粒がこぼれ、床の線へ吸われかける。


「吸わせるな!」

アデルが踏み込んだ。

剣閃が、床の赤い線を“断つ”。

金属が石を斬る感触のはずなのに、

刃先は膜を切るみたいに滑り、赤い線がぷつりと切れた。


――空気が鳴った。

低い音。

遠くでエレベーターの到着音みたいな乾いたチャイムがして、

同時に塔の鐘の余韻が重なる。

「ここはどこだ」と世界が呻く。


セラが一歩分距離を取り、落ち着いた声で告げた。

「今のが正しい。線を断てば、供給は細ります」


細る。

――でも、止まらない。

黒ローブは無言で、別の線へ手を伸ばす。

影が床を這い、赤い血管を探すみたいに動く。


アデルの瞳が鋭く光った。

「左だ。左杭を折る。真ん中は最後」


「折った反動、来るぞ」

リオが短く言う。

腕輪の熱が痛みに変わる。皮膚の下で金属が生きている。


ハレルは主鍵を握り直した。

熱い。痛いほどじゃない。

だがその熱は、世界を「固定」へ寄せる熱だ。嫌な確信が胸に沈む。


(俺が見たら、進む)

(進めば、向こうの思う通りになる)


それでも、止めるために進むしかない。


サキが小さく、でもはっきり言った。

「お兄ちゃん、線……あっち」


指差した先。

左杭の根元に、まだ生きている赤い線が一本だけ残っている。

細い。見落とすくらい細いのに、脈が強い。

杭の“最後の糸”。


「ありがとう」

ハレルは短く返し、目線をその線に合わせた。

杭そのものは見ない。線だけ。


アデルが剣を引き、息を吐く。

「――断つ」


刃が、最後の線を切った瞬間。

左杭の光が、ふっと弱くなった。

杭が、沈黙しかける。


だが次の拍で、真ん中の杭が赤く跳ねた。

鼓動が早い。

まるで「次はこっちだ」と笑っているみたいに。


黒ローブが、いっせいに動いた。

供給を取り戻そうとする群れ。

壁の裏から増える影。床の線へ伸びる手。


「邪魔だ」

リオの鎖が唸る。

鎖が床を這い、黒ローブの足元を絡め取り、線から引き剥がす。

引き剥がされた影は赤い光粒を撒き散らし、

撒き散らした粒は杭に吸われ――そうとして、アデルの剣で弾かれた。


アデルは、躊躇なく左杭へ踏み込む。

剣先を杭の根元へ突き立てるのではない。

杭の“存在”を断ち切るために、刃を横へ滑らせる。

座標の釘を、折る――そのための角度。


「ハレル。サキ。下がれ」

アデルが命じた。


サキがすぐに半歩退き、ハレルの袖を掴む。

二人の距離が縮まる。

怖さを誤魔化すためじゃない。支えるための距離だ。


「行け」

アデルが言い、剣を振り抜いた。


左杭が――折れた。


折れた瞬間、世界が“跳ね返った”。

タワーの地下の鉄骨が、怒りみたいに軋む。

同時に、塔の石が泣くように軋む。

床の紋が波打ち、赤黒い線が一斉に逆流した。


ハレルの胸元の主鍵が、熱を爆ぜさせる。

視界の端で数字みたいな光粒が舞い、空間が一拍だけ白く裏返った。


サキが歯を食いしばる。

「……っ、来る……!」


セラが落ち着いた声で言う。

「耐えて。今の揺れは、抜けます。――“防波堤”が折れていない限り」


アデルは、揺れの中で剣を立てたまま動かない。

髪の三つ編みが揺れ、外套が風に叩かれる。

それでも足がずれない。

剣士の意地だけじゃない。

ここで踏ん張ることが、現実を守ることだと理解している。


揺れが一段落したとき、床の紋の一部が“開いた”。

中央の杭へ向かう赤い線の束。その横に、細い裂け目。

白い廊下の匂い――

焦げと、冷たい粉の匂いが、そこから吹き上がる。


ハレルのバッグの中で、薄緑が強く脈を打った。

黒い粒が、また増える。

脈が、途切れかける。


(近い)

(……日下部がいる)


リオが裂け目を睨み、短く言った。

「奥がある。……真ん中の杭の先だ」


アデルは剣を下げずに答える。

「行く。真ん中を折る前に、奪われたものを確認する」


セラがうなずき、いつもの距離を保ったまま言った。

「急ぎましょう。杭が生きている限り、黒は増えます。

――そして、誰かがそれを“見ています”」


その言葉の直後、空間のどこかで、

丁寧な拍手みたいな音が一度だけ鳴った。

誰の姿もない。

なのに、確かに。


ハレルは反射で見上げそうになって、噛み殺した。

見れば固定される。

固定されれば、実験が進む。


(……カシウス)


サキが、震えを飲み込んだ声で言う。

「お兄ちゃん。……行こう」


ハレルはうなずいた。

5人は裂け目へ向かって踏み出す。


防波堤の上で、次の波が――もう形になりかけていた。



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