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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第六章 奪われた座標

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第七十五話 縫い目の深部

【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】


走っているのに、足音が二種類する。

金属の乾いた響きと、石畳が噛む鈍い音。

どちらも“本物”の質感で、同時に耳へ入ってくる。


通路の角を曲がるたび、壁の材質が一拍だけ揺れた。

配管が、黒い梁に見える。


非常灯の赤が、魔術杭の紋の赤に重なる。

戻る。戻りきらない。

縫い目の上を走っている――その実感だけが増していく。


サキの呼吸は浅い。けれど、遅れていない。

袖を掴む癖は、いつの間にか消えていた。

代わりに、スマホを握る手に力が籠もっている。

画面は見ない。見なくても、震えは伝わる。


ハレルはバッグを押さえながら走った。

薄緑のカプセルが、体温のない冷たさで掌の裏を刺す。

脈はある。けれど弱い。

黒い粒が、光の内部で“渦”みたいにゆっくり回っている。


(遠いのに、近い)

持っているのに、引っ張られる。

“器”がここにあるはずなのに、

コアだけが、別の場所へ引き寄せられているみたいだ。


「止まらない」

前を行くセラが言った。


振り返らない。こちらを確かめない。

案内役の声は、余計な情緒を削って、道筋だけを残す。


その直後、通路の壁が――歪んだ。

歪みは裂け目ではない。

裂け目の“残り香”みたいに、

白い粒が壁の角から滲み、そこに黒い影が生まれる。


黒ローブ。

一体、二体、三体。

床から立ち上がるというより、壁の裏側から“押し出される”。


アデルが半歩前に出た。

剣先を低くし、刃を見せない角度で構える。

「寄せるな」

短く言って、剣を振る。


斬撃は派手じゃない。

けれど、黒ローブの裾が裂け、裂け目から赤い線が飛び散った。

血じゃない。術式の残光だ。

赤い線は床へ落ち、床の金属と石畳の両方に“同時に”焼き跡を残す。


リオが腕輪に魔力を通した。

鎖の術式が走る。床を這い、黒ローブの足元――

いや、“影”へ噛みつく。

影が揺れ、ローブの輪郭が一瞬だけ薄くなる。


「影が本体か」

ハレルが息の中で言うと、リオが即答した。

「影を縫えば、動きが鈍る。完全には止まらないけど」


サキが一歩引きかけ、止まった。

怖いのに、逃げない。

目は黒ローブより、床の赤線を見ていた。


「……これ、杭の線……?」


セラが、初めてほんの少しだけ顔をこちらへ向けた。

「残っている。だから、まだ“引きずり込み”が生きている」


「じゃあ……切れば」


「切れない。切るには、核に触れる必要があります」


核。

日下部の器のある場所。


黒ローブの一体が、手を掲げた。

何も唱えない。

それでも、通路の空気が沈む。

重力が一拍、増えた。


サキの膝が揺れた。


ハレルが支えようとするより早く、

アデルが横へ滑り、重い空気の“境目”を剣で裂いた。

裂いた瞬間、沈みが軽くなる。空気が戻る。


「剣で、空気を……?」

サキが驚きの声を漏らす。


アデルは答えない。

答える余裕を、戦いに残していない。


リオが鎖をもう一度走らせた。

今度は黒ローブの“手首”ではなく、床の赤い線に絡める。

赤線が引っ張られ、術式がわずかに乱れた。


セラが、その乱れを見逃さない。

「今です」

声が、刃のように短い。


ハレルはサキの肩に手を置いた。

「走る」


「うん」

返事が、きっぱりしている。


四人は、黒ローブの間を“抜けた”。

戦って倒すんじゃない。

縫い目の上でやるべきことは、進むことだ。


通路の先で、空間の温度が変わる。

冷たい金属の匂いが薄れ、代わりに、熱と石の匂いが濃くなる。

同時に、どこかで水滴が落ちる音がした。

現実の配管の水か、異世界の地下水か。区別がつかない。


セラが足を止め、指先で壁をなぞった。

壁の一部に、円い“痕”がある。

機械の凹みみたいでいて、紋章の痕みたいでもある。


「ここ」

セラが言う。

「この向こうに、基礎区画の核があります」


ハレルは息を呑んだ。

バッグの中で薄緑が、一拍、強く脈打つ。

そして――途切れた。

途切れかけて、戻る。

戻った光は、さらに薄い。


サキが小さく呻いた。

「……いや……コアが……」


「大丈夫だ」

ハレルの声は、自分に言い聞かせるみたいに硬い。


リオが壁へ手を伸ばしかけて、止めた。

触れたら固定される。

ここは縫い目だ。触れた瞬間、

境界がこちらを選ぶかもしれない。


アデルが言う。

「壊すなら、一気」


「一気に何を」

サキが聞くと、アデルはわずかに顎を動かした。


「扉。……扉の向こう」


扉。

白い廊下の扉とは違う。

現実の扉でも、異世界の扉でもない。

“縫い目の扉”。


壁の痕が、ゆっくりと光った。

赤じゃない。白でもない。

灰色の光。

現実と異世界の間の、どちらにも属さない色。


その灰色の光に引かれるように、黒ローブたちが、背後で動き始めた。

倒れていない。

止まっていない。

ただ、遅れて追いついてくる。


セラが言う。

「急いでください。追いつかれます」


ハレルは頷き、主鍵に指を掛けた。

熱い。

だが、痛みはまだ耐えられる。

主鍵が熱いのは、怒りじゃない。

“場所が近い”合図だ。


「サキ」


「うん」

サキがスマホを握り直す。画面は見ない。

それでも、彼女の指先が“どこか”を押す動きをした。

まるで、見えないボタンがあるみたいに。


灰色の光が、一拍だけ強くなった。

壁の痕が、線になり、線が“扉の形”を作る。


その瞬間――通路の奥で、何かが鳴った。

カチ、と。

機械のロック音。

同時に、杭が軋む音。

二つが重なり、同じ音として届く。


(開く)

ハレルの直感が叫ぶ。


◆ ◆ ◆


【現実世界・倉庫区画/簡易保管室】


木崎は、照明の薄い倉庫で一人、立っていた。

倉庫の床は冷たい。

だが、冷たさの中に、さっきから微妙な“ざらつき”が混じる。


壁の隅が、一拍だけ白くなる。

白い粒が、落ちる。

落ちた粒は、空中で消える。


(……滲んでる)

木崎は舌打ちした。

「こっちまで来んなよ」


棚の奥。

布で包んだケースがある。

ユナのコア。

触らない。動かさない。

“錨”として、そこに置く。


木崎はスマホを取り出し、城ヶ峰の連絡先を開いた。

呼び出し音が鳴る前に、倉庫の外で、誰かの足音がした。


軽い足音じゃない。

複数。

そして、妙に揃っている。


木崎は、呼吸を一つ整える。

「……来たか」


◆ ◆ ◆


【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】


灰色の扉が、輪郭だけでそこにある。

触れるのが怖い。

触れないと進めない。


ハレルは、サキを見る。

サキも、ハレルを見る。

言葉はいらない。歩幅だけ合わせる。


リオが鎖を構えた。

アデルが剣を上げた。

セラが扉の横に立つ。触れない距離で。


背後で黒ローブの気配が膨らむ。

影が濃くなる。

“観測”が迫ってくる。


ハレルは主鍵を握り、扉へ手を伸ばした。

その瞬間、薄緑のコアが――弱く、確かに脈を打った。


(……日下部)

(もう少しだ)


扉の灰色が、白と赤を吸い込んでいく。

そして、ゆっくり開き始めた。


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