第七十四話 重なった世界
【中間層・白い廊下】
切れ目の向こうは、白じゃなかった。
白が“ほどける”みたいに裂けて、その裂け目の奥から、
金属の匂いが滲み出してくる。
機械油と、埃と、冷えた空調の匂い。
現実の匂いだ。
ハレルは、踏み込む足を一拍だけ止めた。
止めたせいで、床の白がきしんだ。
音が遅れて追いかけてくる。
(止まるな)
さっきの文字が胸に残っている。
サキが袖を掴む。
指が震えているのに、力は抜けない。
「……お兄ちゃん、ここ……」
「歩幅、合わせろ」
声は低く。
命令じゃない。確認だ。
二人で、同時に息を吸う。
同時に吐く。
足を出す。
裂け目を越えた瞬間、白い廊下の“空気”が変わった。
軽かったはずの白が、急に重くなる。
まるで、濡れた布を肩に掛けられたみたいに、全身にまとわりつく。
胸元の主鍵が、痛いほど熱を増した。
熱は一点に集中して、鼓動と同じ周期で脈打つ。
その脈に合わせて、バッグの中の薄緑が――沈んだ。
(……また)
薄緑の光が薄くなる。
黒い粒が、混ざるというより“寄る”。
脈が一瞬、途切れかけて――戻る。
戻るけど、波形が崩れている。
サキが唇を噛み、スマホを見下ろさずに言った。
「……いま、コアが……痛そう」
「感じるのか」
「分かんない。でも……胸が、きゅってなる」
ハレルは、答えないまま拳を握った。
感情で確定させたら負ける。
でも、感情を捨てたら――ここまで来た意味が薄れる。
セラが、前で足を止めた。
近づきすぎない距離を保ったまま、白の壁へ手を伸ばす。
白が、薄い膜みたいに揺れて、そこに“輪郭”が浮いた。
扉の形。
だが、扉はない。
輪郭だけがあり、向こう側の光景が薄く滲む。
コンクリの灰色。
配管。
非常灯の赤。
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
見えた瞬間、視界が“反転”した。
白い廊下が、現実の通路へ滲み出る。
通路の壁材が一拍だけ、石畳の灰に見えて――すぐ戻る。
だが戻りきらない。
壁の角に、白い粒が引っかかっている。
数字みたいな光粒が、ゆっくり落ちて、消えた。
ハレルは、息を呑んだ。
白い廊下の中にいるはずなのに、足の裏は金属の冷たさを拾う。
冷たいのに、肩のあたりは妙に暑い。
二つの世界の温度が、身体の中で喧嘩している。
サキが、喉の奥で小さく呻いた。
「……酔う……」
「目、閉じるな」
「閉じない。……閉じたら、置いてかれそう」
その言葉が、ハレルの胸を刺した。
セラが、静かに言う。
「ここが“縫い目”です。いま、解けかけています」
「解けたら、どうなる」
「……重なります」
セラは言い切る。
逃げ道のない言い方だった。
通路の奥――
本来なら何もないはずの空間に、赤黒い線が一瞬だけ走った。
床の金属に“焼き付いた”みたいな線。
次の瞬間には消えるのに、目の奥には残る。
そして、遠くで、鐘の音がした。
あり得ない。
ここは現実の塔の内部だ。
なのに、石の鐘楼みたいな残響が、壁を通って響いた。
ハレルの喉が乾く。
(――来る)
直感が先に走る。
次の瞬間、耳が追いつく。
ゴゥ――と低い振動。
塔の奥から、何かが回っている。
機械の回転じゃない。
世界の継ぎ目が擦れる音。
サキのスマホが震えた。
画面は見ない。見ないまま、文字だけを“感じる”。
短い合図が一つだけ来た。
《いま》
セラが、扉の輪郭へ手を置く。
白い膜が、薄く破れる。
破れた瞬間、向こう側の“赤い熱”が、こちらへ噴き出した。
◆ ◆ ◆
【異世界・オルタ・スパイア/塔内部・基礎区画】
真ん中の杭は、息をしていた。
赤く、強く、脈打つ。
折れた固定杭の残骸を吸うみたいに、
赤線が真ん中へ集まり、紋が膨らむ。
黒ローブは、そこに輪を作って立っていた。
手の動きだけが揃っている。
声はない。祈りでも呪文でもない。
“維持”という作業だけが、淡々と続く。
リオは鎖を走らせながら、歯を食いしばった。
「……間に合え」
呟きは、自分に向けたものだ。
誰かに届かなくていい。
アデルは剣を構え、ローブの動線を切る。
人じゃない。けれど“人の形”をしたものは、切れば止まる。
止まらないなら、止まるまで切るだけだ。
鎖が、真ん中の杭へ噛みついた。
紋が、鎖を焼こうとする。
リオの腕輪が熱を増し、皮膚の下で金属が唸る。
「ノノ、今だ」
イヤーカフが震える。
『うん。今なら、ズレが最大。――抜ける』
ノノの声は焦っていない。焦ったら“確定”になるのを知っている声だ。
アデルが、剣を杭の根元へ差し込んだ。
「一拍で抜く」
「分かった」
リオは鎖を引く。
アデルは剣で“支え”を切る。
黒ローブが一斉に手を伸ばした。杭の紋へ。赤線へ。
遅い。
ほんのわずか遅い。
それだけで十分だった。
真ん中の杭の紋に、亀裂が走る。
亀裂が、赤黒い線を吐き出す。
吐き出された線は空間を舐め、塔全体の“腹”を引き攣らせた。
――世界が、折れた。
基礎区画の壁が透明になる。
透明というより、“別の景色を重ねて映す”。
白い廊下。数字の光粒。
その向こうに――灰色の通路。配管。非常灯。
そして、そこに、ハレルとサキ。
今度は薄くない。
薄いガラス越しじゃない。
同じ空気を吸っている距離感がある。
リオの喉が鳴った。
名前を呼びたい。
だが呼んだら、固定になる。
代わりに、拳を握る。
アデルが、息だけで言った。
「……来た」
「来たな」
リオは短く返した。
黒ローブが、初めて“前へ”出た。
杭を守る動きじゃない。
“反動”をこちらへ向ける動きだ。
真ん中の杭が、折れた。
折れた瞬間、赤い熱が爆ぜる。
爆ぜた熱は、波になる。
波が、二つの世界を同時に叩く。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
衝撃が来た。
床が一拍、沈む。
非常灯が揺れ、壁の配管が鳴る。
なのに、その揺れの中に――石畳のきしむ音が混ざる。
ハレルは咄嗟にサキの肩を掴んだ。
サキが崩れそうになるのを、引き戻す。
サキの目が、驚きで見開かれる。
「……お兄ちゃん、いま、向こうの……!」
「言うな。……言葉で固定する」
それだけ言って、喉の奥で息を止めた。
通路の奥が、歪んだ。
歪みは、裂け目になる。
裂け目から、赤い線が走る。
赤い線が床を焼く。
焼けたはずなのに、焦げた匂いはしない。
代わりに、ガラスを削る冷たい粉の匂いがする。
セラが、一歩だけこちらへ寄った。
寄ったのに、触れない距離。
「来ます。重なります」
その言葉が終わる前に――視界が“二重”になった。
壁の灰色の上に、石の壁が重なる。
床の金属の上に、赤黒い線が走る。
天井の配管の上に、黒い梁が影を落とす。
そして、通路の先に、二つの影が現れた。
剣を持つ長身。
腕輪を嵌めた少年。
リオ。
アデル。
サキが息を止める。
ハレルも、止めた。
止めたのに、胸の中だけが熱い。
(……本当に、同じ場所だ)
(やっと――会えた)
リオの視線がこちらに向く。
目が合った瞬間、胸の主鍵が一拍、強く脈打った。
それは合図じゃない。
“繋がった”という実感だ。
アデルが剣先をずらし、通路の奥を睨む。
「来るぞ」
言葉が、普通に聞こえた。
白い廊下越しじゃない。
同じ空気の振動として届く。
黒ローブが、裂け目の向こうから溢れ始めた。
塔の壁から滲み出るように。
スパイアの床の赤線から立ち上がるように。
二つの世界の“どちらから”とも言えない場所から現れる。
セラが言う。
「今ここは、現実でも異世界でもありません。縫い目の上です」
「じゃあ――」
サキが声を出しかけて、飲み込んだ。
代わりに、ハレルの袖を掴む力を強める。
ハレルはバッグの中を押さえる。
薄緑の光が、また薄くなる。
黒い粒が、増えた。
脈が、途切れかける。
(……急げ)
(器に近づけ)
リオが、こちらへ一歩踏み出した。
その一歩が、現実の床を鳴らし、同時に石畳を鳴らした。
アデルも続く。
二人が来る。
こちらへ、同じ通路の上を。
「ハレル」
リオが名前を呼ぶ。
呼んだのに、固定される怖さより、現実感が勝った。
「待たせたな」
「待ってない」
ハレルは短く返した。返してしまった。
喉が痛くなるくらい、嬉しさが来た。
サキが、リオとアデルを見て、目を揺らす。
怖い。
でも、逃げない。
アデルがサキを一瞬だけ見て、頷く。
「守る」
短い言葉。余計な説明がない。
それだけで、サキの肩が少し落ちた。
黒ローブが、数を増す。
そして、その背後――
通路の奥の奥で、何かが“動く”気配がした。
機械の音。
いや、機械じゃない。
“器”が移動する時の、空間の擦れる音。
セラが、息を少しだけ強く吐いた。
「……日下部の器は、この先です」
「間に合うか」
ハレルが問うと、セラは視線だけで答えた。
間に合わせるしかない。そういう目だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都/解析室】
結晶板の地図が、白く跳ねた。
数値が一瞬、全部ゼロになる。
次の瞬間、二つの座標が――同じ点を示した。
ノノは、椅子から半分立ち上がっていた。
「……重なった」
声が、かすれる。
かすれたのに、笑えない。
これは“成功”じゃない。現象だ。
イヤーカフに指を当てる。
「リオ、アデル。聞こえる?」
返事は、すぐ来た。
『聞こえる』
『聞こえる』
二人の声が、同じ距離で返る。
ノノは唇を噛む。
「……じゃあ、次。ローブの補助が切れた反動が来る。気をつけて」
言い終えた瞬間、結晶板の端に小さな点が灯った。
薄緑。
遠い薄緑。
それが、黒く濁りかけている。
(コア……)
(間に合え)
ノノは机の上に手をつき、もう一度だけ呟いた。
「……お願いだから、誰も落とさないで」
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・内部】
通路の先が、また揺れた。
赤線が走り、白い粒が降り、非常灯が一拍、明滅する。
その中で、ハレルたちは同じ方向へ走り出した。
ハレルとサキ。
リオとアデル。
セラは少し前を行く。触れない距離で、道だけを示す。
世界は、完全に重なっているわけじゃない。
でも――もう、戻れないほどには重なった。
バッグの中で薄緑が、弱く脈を打つ。
途切れかけて、戻る。
戻りきらない。
(……待ってて、日下部さん)
ハレルは心の中で言った。
言葉にしない。
言葉にしたら、ここで固定される気がした。
通路の奥で、黒ローブが壁から滲む。
その向こうに、“器”の気配がする。
奪われた座標が、すぐそこにある。
ハレルは息を吸い、走る速度を上げた。
サキが並ぶ。
リオが並ぶ。
アデルが半歩前へ出る。
四人は、同じ床を蹴った。
同じ“今”へ向かって。




