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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第五章 器の座標ーコンテイナー・ポントー

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第六十六話 三人目のノイズ


【現実世界・聖環医療研究センター/707号室】


 床の端に生まれた黒い“ひび”が、

 じわり、と音もなく広がった。


 ベッドの足元。

 リノリウムの白が、細い線を境に、

 墨をこぼしたみたいに暗く沈んでいく。


 「……来てるな」

 木崎が低く言う。


 モニターの心電図は乱高下し、

 その裏で脳波のグラフが一度、すっと細くなった。


 (佐伯さんと、村瀬さんのときと……“質”が違う)


 ハレルは、日下部奏一の胸の上にコアをかざしたまま、

 じりじりとした熱を掌でこらえた。

 薄緑の光。

 そこに、別の色が混ざろうとしているのが、感覚でわかる。


 スマホ画面の中で、セラの顔がしかめられる。


 『……ハレルくん、コアのベクトルが二重になってる』


 「二重?」


 『うん。一つはちゃんと“奏一くんの器”を指してる。

   もう一つが、下方向。床の向こう側に“落ちたがってる”』


 床のひびが、ベッドの真下まで伸びた。


 《……三本目の観測線が、勝手に混ざってる》


 ノノの声が、セラ越しに飛び込んでくる。

 《こっちの塔と、そっちの病棟と――

   それから、“名札のないコア”から引かれてる線。

   それが、今まとめて日下部君の器に向いてる!》


 「……レアに盗られたやつ……」

 ハレルの喉が鳴る。


 《そう。あれを、第三の“管理プロセス”として突っ込もうとしてる!

   このまま続けると――》


 言葉の途中で、日下部の体がびくん、と跳ねた。

 モニターの音が、耳障りなまでに高くなる。


 「離せ、ハレル! 一回切る!」

 木崎が叫んだ。


 ハレルは、コアを引き離そうと腕に力を込める。

 だが、ネックレスの主鍵が、カプセルの光と細い糸で繋がれたみたいに、

 ぎち、と抵抗を返してきた。


 (離れない……!)


 「無理に引っ張るな!」

 木崎がハレルの手首を掴み、肩ごと引き寄せた。


 バチッ。


 金属が弾けるような痛み。

 ネックレスの鎖が一瞬だけ白く光り、ハレルの胸元に熱い痛みを走らせた。


 コアが、手から離れてふわりと浮く。

 今度は自分から、日下部の胸の上へと落ちていった。


 「……っ!」


 薄緑の光が、皮膚に沈む。

 同時に、床のひびがぱかりと割れた。


 白い病室の床と、見知らぬ暗い空間が、薄い膜一枚で重なったように見える。

 向こう側には、数字みたいな光の粒と、黒い霧の層。


 《最悪パターン来た……!》

 ノノの声が、ほとんど悲鳴だった。


 《コアの“主体権”が奪われてる!

 日下部君の意識と、盗まれたID-05をまとめて、

   どこか“第三の座標”に持って行こうとしてる!》


 「止められないのか!」

 木崎が吐き捨てる。


 《今、こっちも押し返してる!

   でも、完全に引き戻そうとすると――

   病棟側の座標が一気に崩壊する!》


 ハレルは、ベッドを見た。

 日下部奏一の胸が、大きく上下している。

 表情は苦しそうなのに、瞼は固く閉じたまま。


 「……日下部さん!」

 呼びかけた瞬間。


 目が、開いた。


 真っ黒だった。

 白目がない。

 黒い穴だけが、ハレルたちを映さないままこちらを向く。


 「……座標、確認」


 口元が、誰でもない声で動いた。

 一人分の声量なのに、耳には複数の音程が同時に届く。


 「“器”――安定。

   “観測者”――接続済み。

   あとは、“場”だけだね」


 「お前は……誰だ」

 木崎が、一歩踏み出した。

 声が自然と、刑事だったころの調子になる。


 黒い目が、ゆっくりそちらを向く。

 「ボク?」


 日下部の口から、軽い響きがこぼれる。

 「ボクは、ラベルいらないや。

   “中身の方”が大事でしょ?」


 次の瞬間。

 ベッドごと、床が沈んだ。


 金属フレームが、きしむ音もなく暗闇に飲まれていく。

 シーツ。配線。モニターに繋がるコード。

 全部、黒いひびの向こう側へ滑り落ちていく。


 「待て!」

 木崎がベッドの柵を掴んだ。


 だが、指先が滑る。

 柵の金属が、一瞬にして“向こうの材質”に変わった感触がして――

 手応えそのものが消えた。


 ハレルは、反射的に主鍵を握った。

 (引き戻す――!)


 ネックレスから、細い光が走る。

 黒いひびの縁に、白い杭みたいな模様が瞬時に刻まれた。


 《ダメ! そこまでやると、病棟側の“床”ごと持っていかれる!》

 ノノの叫びが飛び込んできた。

 《703と705の器も巻き込まれる!》


 「……っ」


 (佐伯さんと、村瀬さんまで――)


 ハレルは、ぐっと歯を食いしばり、指を緩めた。


 ひびの中。

 日下部奏一――だったものが、最後にこちらを一瞥した。


 黒い目が、さっと細くなる。

 「うん、いい判断。

   “二人分”は、ちゃんと守ってね」


 多重の声が、愉快そうに笑った。


 ぱしん、と音がした。

 床が閉じた。


 病室の空気が、一気に静かになる。

 モニターは、接続を失って一斉にエラー音を鳴らし始めた。


 ベッドは、なかった。

 日下部奏一の器ごと、跡形もなく消えていた。


 ハレルの足が、勝手に一歩、そこへ踏み出す。

 残っているのは、薄く焦げた円形の痕だけ。


 (守れなかった……)


 胸の奥が、冷たく沈む。

 だが、その沈み込みを押しのけるように、別の感覚が追いついてきた。


 ――703号室と705号室の方角から、微かな“気配”が続いている。


 佐伯蓮。村瀬七海。

 あの二人の器からは、まだ静かな、しかし確かな脈動が感じられた。


 《……ごめん》

 ノノの声が、小さく落ちてくる。

 《こっちも、ぎりぎりまで詰めたけど……

   三人目は、“向こうの条件”が多すぎた》


 「謝るのは、まだ早い」

 木崎が、息を吐く。

 「二人は守れた。

   日下部の件は――」

 言いかけて、飲み込んだ。


 「あとでまとめて、ケリをつける」


 その言葉と同時に、病室全体が、ぐらりと揺れた。


 白い壁の一部が、一瞬だけ石造りの塔の内壁に変わる。

 窓の外には、夜の都心ではなく、黒い丘の稜線がちらりと重なって見えた。


 すぐに戻る。

 だが、空間そのものが“薄くなった”感覚だけは残った。


 《……病棟周辺、しばらく境界めちゃくちゃになる》

 ノノが乾いた声で言う。

 《塔側も同じ。

   これが、“器の座標を無理やり重ねた”代償》


 「後でいい。状況はあとで聞く」

 木崎が短く遮った。

 「今は――ここから生きて出ることを考える」


 廊下の方から、足音が近づいてくる。

 看護師たちの靴音。

 機械のアラームに気づかないはずがない。


 ハレルは、焦げ跡を最後に一瞥してから、主鍵を握りしめた。


 (日下部さん……絶対、取り戻す)


 言葉にはしなかった誓いが、ネックレスの内側で微かに脈を打った。


 ◆ ◆ ◆


【異世界・王都外縁/オルタ・スパイア周辺】


 塔の根元に刻まれた焦げ跡の一つが、ぱきん、と割れた。


 そこから伸びていた黒い線が、空へと伸び――

 すぐに、途中でぷつりと切れる。


 「……今の、“三人目”だな」

 アデルが呟いた。

 左腕の腕輪が、鈍い痛みを返している。


 リオは、右手首を押さえたまま、息を吐く。

 「感じた。

   誰か一人分の“道”が、強引に書き換えられた」


 彼らの周囲では、黒ローブの三人がまだじりじりとにじり寄っていた。

 その背後には、塔にまとわりつく黒い靄。


 ノノの声が、イヤーカフ越しに震えている。

 《703と705は、こっちと病棟側で“ロック”できた。

   でも――707は、完全に“別ルート”へ引き抜かれた》


 「器ごと、か」

 アデルの問いに、ノノは短く息を呑んだあと、肯定した。

 《うん。

   現実側のベッドも一緒に“落ちた”感触があった。

   あれはもう、ただの行方不明じゃ済まない》


 リオは、唇を噛む。

 (日下部さん……)


 黒ローブの一人が、かすれた声で笑った。

 「三つ目は、“こちらの実験場”へ。

   鍵とコアと器が揃った場――

   ボスの本番ステージだ」


 「うるさい」

 アデルの剣先から、白い光の線が走る。

 〈封縫〉の紋が、塔の足元に新たに刻まれた。


 「ここは、渡さない。

   少なくとも、“残り二人分の座標”だけは」


 リオもまた、右手を掲げる。

 「……ハレル」

 小さく名前を呼び、魔術式を組み上げた。

 「こっちは、守り切る。

   そっちは――生きて出ろ」


 塔の周囲で、光と影が再びぶつかり合う。


 ◆ ◆ ◆


【現実世界・聖環医療研究センター/駐車場】


 駐車場のアスファルトの上に、小さな炎の輪がいくつも咲いた。


 車のすぐ横。

 街灯の足元。

 コンクリのひびをなぞるように、赤橙の火が円を描く。


 「動かないで」


 城ヶ峰が静かに言い、サキの肩をぐっと引き寄せた。

 二人は軽バンの影に身を沈める。


 サキは、ただならぬ熱気に喉を鳴らした。

 「な、なに……これ……」

 「普通じゃないものだ」

 城ヶ峰の声も固い。

 「見えるってことは――君も、少し“こっち側”なんだろう」


 炎の輪の中心に、黒い影が立っていた。


 深灰の森で死んだはずの青年の姿。

 だが、胸には異様な光を放つ板が埋め込まれ、目は真っ黒。


 「うん、いい感じ。

   境界、かなりゆるゆるだね」

 “代用サロゲート”は、楽しそうに周囲を眺め回した。

 「ボクの役目は、ノイズ足しと“目印”。

   ――〈焼痕標ブレイズ・マーカー〉」


 指先から、ひとつの火球が滑り落ちる。

 それは車の少し手前で止まり、音もなく地面に貼りついた。


 ジュッ。


 アスファルトが、黒く焼き抜かれていく。

 円形の焦げ跡。

 その縁から、細い黒いひびがじわりと放射状に伸び始めた。


 「やめろ」


 城ヶ峰が思わず前に出る。

 腰のホルスターに手が伸びかけ――しかし、ぎりぎりで止まった。

 (撃ったところで、これが“人間”かどうかも怪しい)


 「君が、木崎さん?」

 “ボク”が、首をかしげる。


 「いや、違う」


 「あれ?ああそうか、木崎さんは中か」


 「では、君は?」


 「だれでもいいだろ、とりあえずお前にとっては”敵”だ」


 「ふーん、木崎さんの同類って感じかな」

  視線が、サキに移る。


 「で、君が――妹ちゃん」


 「……お兄ちゃんの、知り合いなの?」

 サキが震えた声で聞く。


 「知り合い……かなぁ?

   ボクは初めましてだけど、ボスはよく見てるよ。

   “鍵持ちの周辺”はね」


 その時だった。


 駐車場全体が、横に滑ったように揺れた。


 サキの視界に、一瞬だけ“二つ目の景色”が重なる。

 白い病院棟の代わりに、黒い丘と細い塔の影。

 街灯の代わりに、青白い魔術灯。


 「……っ!」


 すぐに戻る。

 だが、足元の感触が違う。

 アスファルトが、石畳のように硬く感じられた。


 “ボク”が、顎を上げた。

 「お、始まったね。

   三人目の座標合わせ」


 胸のプレートが、一度だけ強く光った。

 どこか遠くの方と、何かが繋がった感覚が走る。


 「……うん、取れた取れた。

   “日下部奏一”の器、搬入完了」


 ぽん、と軽く胸を叩く。

 「じゃ、ボクの仕事はここまで。

   あんまり近くにいると、巻き込まれそうだし」


 城ヶ峰が、歯を食いしばる。

 「日下部……だと?」


 問いは、最後まで届かなかった。


 “ボク”の足元の炎の輪が、一気に高さを増す。

 火柱が立ち上がり、その中に黒い影が溶けていく。


 「またね、妹ちゃん。

   ボク、君のお兄ちゃんとも、すぐ会うと思うから」


 多重の声が、炎の中から軽く手を振る。

 次の瞬間、火も影も、焦げ跡だけを残して消えた。


 静寂。


 サキは、膝が笑うのを必死でこらえた。

 「今の……」


 「後で説明してもらう」

 城ヶ峰は、焦げ跡を睨んだまま言った。


 「だがまずは――中の二人を、生きて連れ出す」


 駐車場の遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴り始めていた。


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