第六話 記録の狭間
翌朝。
ハレルは夜明け前から自室で目を覚ましていた。
窓の外の空はまだ青く、眠気よりも不安の方が勝っている。
セラと見た“記録”――リオが犯人ではない証拠。
あの瞬間から、現実の方がかすれて見えた。
制服の胸元で、ネックレスがかすかに冷たい。
――取り調べの時、警備官が見せた“焦げた銀のネックレス”。
リオのものだと告げられたあの記憶が、胸の奥で痛んだ。
(本当に……あれは、リオの物だったのか?)
答えのないまま、家を出る。
朝の通学路。通勤の人々の靴音。
どこか現実の輪郭が薄い。
「雲賀ハレル、だな?」
低い声に足を止めた。
振り返ると、茶色のコートを羽織った男が街灯の下に立っていた。
くたびれたレコーダーを片手に、目だけが妙に鋭い。
――校門の前で見た、あの記者。
「前に学校の前で会ったよな? 覚えてるか。あの時、何かを見てたろ。」
「……あなたは?」
「木崎透。フリーの記者だ。柏木の死を追ってる。」
名刺を差し出す手が、わずかに震えていた。
「お前の顔、忘れなかった。あの時の目、父親そっくりでな。」
ハレルの心臓が跳ねる。
「父を……知っているんですか?」
「知ってるとも。だが“仲が良かった”わけじゃない。」
木崎は苦笑した。
「同じネタを追ってた。真実を掘るってのは、誰かの足を踏むことになる。
あいつは真っ直ぐすぎた。だから、潰された。」
ハレルの喉が締まる。
「……潰された?」
「言葉のあやだよ。」
木崎は煙草に火をつけた。
紫の煙が、朝の冷たい空気に溶けていく。
「忠告しておく。君の父の足跡を辿るな。あいつと同じ目をしてる。」
その言葉だけ残し、木崎は背を向けた。 ハレルの心に、不吉な影が落ちる。
(父と、この事件……やっぱり繋がってる。)
その確信を胸に、校門をくぐった。
昇降口の光、すれ違う生徒の声。
だが世界が、どこか遠くにあるように感じた。
教室のドアを開けると――
そこに、一ノ瀬涼がいた。
心臓が強く打つ。
まるで失われた人間がそこに立っているかのように。
あの異世界で、彼は“リオ”として追われ、 大臣殺害の濡れ衣を着せられた。
もう二度と会えないと思っていた。
「……涼。」
声が震える。
涼がゆっくりと顔を上げた。
あの灰色の瞳が、まっすぐハレルを捉える。
その中に宿るものは――警戒でも、敵意でもなかった。
「……雲賀。」
その一言に、言葉が詰まる。
(話したいことが山ほどある。真犯人のこと、あのネックレスのこと、
なぜ現実に戻れたのか……けれど、どう切り出せばいい?)
ハレルの中で、質問が渦を巻く。
「……元気だったか」
やっと出た言葉がそれだけだった。
涼はわずかに笑う。「まあな。」
その笑みがあまりにも普通で、かえって胸が痛んだ。
あの焦げ跡の残る部屋、血のにおい、 そして取り調べ室の“焦げた銀のネックレス”。
すべてが脳裏をよぎる。
「なあ、雲賀。」
涼の声が静かに落ちた。
「お前、最近……夢を見るだろ。」
「夢……?」 「“あっち”の世界の夢だ。」
空気が止まった。
ハレルは唇を噛む。
「……見た。いや、夢じゃない。
俺は確かに――あっちでお前を見た。」
涼の瞳が細まる。
「やっぱりな。あの日以来、境界が曖昧になってる。」
「境界……?」
「俺たち、向こうと繋がったままなんだよ。」
蛍光灯が一瞬、チカリと明滅した。
その光の隙間に、一瞬だけ“ノイズ”が走る。
机の上のペンが微かに揺れ、
空気が波打った。
誰も気づかない。
だがハレルにはわかる。――“観測の波”が、この現実にも侵入している。
涼が小さく呟いた。
「この世界が……壊れ始めてる。」
ハレルの喉が鳴る。
セラの声が、記憶の奥で響いた。
――“記録が改竄されれば、現実も歪む。”
「リオ……いや、涼。お前、何を見たんだ。
あの現場で……誰が、大臣を――柏木先生を……?」
聞きたいのに、声が震えて出ない。
涼はわずかに目を伏せ、静かに言った。
「いずれ分かる。けど今は――見ない方がいい。」
その言葉の重さに、ハレルの胸が軋んだ。
光の中で、ネックレスがまた微かに光る。
(真実は、すぐそこにある。
けれど――まだ触れられない。)




