第五話 観測者の影
夜の街は、まるで息を潜めていた。
イルダの空に浮かぶ三つの月が、石造りの路地を白く照らす。
その光は冷たく、牢を抜け出したばかりのハレルの頬を差した。
風の中に湿った血と古い紙の臭いが混じっている。
セラの白い服が暗闇の中に淡く揺れた。
「こっちよ。追手は来ないわ。」
その声には、不思議な確信があった。
二人がたどり着いたのは、王都の北端――
古い修道院の跡地だった。
苔むした壁、崩れかけた尖塔。
長年閉ざされた門扉には「禁域」と刻まれた鉄板がぶら下がっている。
「ここは……?」
「“記録の書庫”。かつて、この国の王が作らせた観測者の保管所。」
セラが静かに扉へ手を伸ばす。
金属が鳴り、空気が震えた。
封印の鎖が光となって消える。
中に入ると、世界が一変した。
石の床の上に、無数の立方体の光が浮かんでいる。
それらはゆっくりと回転しながら、淡い青や金の光を放っていた。
風はないのに、髪がわずかに逆立つ。
「……これ、何だ?」
「観測の記録。この世界の“出来事”は、すべて誰かに“見られ”、保存されているの。」
セラの声が光の中に溶けた。
ハレルは一歩近づき、指先で立方体に触れた。
表面は冷たいが、奥から微かな鼓動のようなものが伝わってくる。
光が反応し、視界に映像が流れ込んだ。
――暗い廊下。血に濡れた床。
大臣アルディアの部屋。
リオ――いや、一ノ瀬涼によく似た青年が立っている。
だが、その手には武器はない。
彼の前で、大臣が崩れ落ちる。
そして、背後から“何か”が閃く。
刃のような光。人の形をした影。
「……違う。リオが刺したんじゃない。」
ハレルの声に、セラが頷く。
「これは塔に上書きされた“再現データ”よ。
“本当の現場”は、もっと下――記録庁の本棟、地下保管層にある」
ハレルは喉を鳴らす。
「やっぱり、ここ(塔)は偽装……」
セラは壁面のノイズを指差した。
「切断痕がある。犯行直前と直後だけを“見せる場面”に編集されてる。
背後の影の輪郭マスク……“誰か”の姿が意図的に消されてる」
(犯人を隠すための編集……誰が、何のために)
ハレルの喉がひりついた。
「誰かって……?」
「……この世界を“観測”してきた者たち。
あなたの家系の――ある人物も、その記録を追っていた。」
ハレルの心臓が跳ねる。
「……それ、まさか……父のことを知ってるのか?」
セラは少しだけ目を伏せた。
「今は話せない。けれど、いずれあなたが“見る”時が来るわ。」
その一言に、ハレルの胸の奥がざらついた。
何かを知っている。だが今は、まだその“扉”を開けられない――
そう言われているようだった。
光の立方体の一つがふわりと浮かび上がる。
セラがそれに触れると、空気がひび割れた。
「見て――」
その瞬間、ハレルの視界が弾けた。
重力が消え、世界が反転する。
光の粒が形を変え、床も空も見えなくなった。
次の瞬間――
そこは「教室」だった。
午前の光。窓際の席。
黒板に書かれた数式、遠くで聞こえるチャイム。
机に頬を伏せて眠る、一ノ瀬涼。
同じ教室で、別の生徒たちが静かにノートを取っている。
(……これは、過去の映像?) だが違う。
目の前の涼が、突然ゆっくりと顔を上げた。
そして、まっすぐハレルの方を――
いや、“視ている者”の方を見た。
ぞくりと、背筋が冷えた。
視線が交わる。
(俺が……見えている?)
セラの声が耳の奥に響く。
「これは、“数日前”の現実の記録。
あなたが眠っていた間の出来事。
あなたの視界は、今、涼の記録を通して世界を見ているの。」
涼の目の奥に、何かがあった。
恐れでも、罪悪感でもない。
それは“知っている者の目”。
真実を、すでに見た者の目だった。
「セラ……これは、夢なのか?」
「夢ではない。あなたの意識が、“観測の層”を越えたの。」
涼が立ち上がる。
その瞬間、映像がノイズを走らせ、画面が波打つように歪んだ。
背後の窓の外―― そこに、異世界イルダの塔が一瞬、重なって見えた。
現実と異世界の境界が、崩れかけている。
ハレルは息を呑み、唇をかすかに動かした。
「セラ……俺は、確かめる。
この“二つの世界”で起きたことの真実を。」
少年の灰色の瞳に、光が宿る。
恐怖ではない。
観測者としての覚醒の光。
セラがわずかに微笑んだ。
「ようやく、あなたの“視界”が開いたのね。」
その言葉を最後に、世界がふたたび光に包まれた。
教室の景色が溶け、静寂が訪れる。
――観測とは、記録された真実を見ること。
だが、真実が誰かに書き換えられたのなら。
その“影”を暴く者こそ、観測者。
ハレルは目を開いた。
手の中には、いつの間にか“青く光る立方体”があった。
そこには、“リオ”の視界がまだかすかに脈打っていた。
「リオ……君は、何を見た?」
問いは夜に溶け、イルダの塔の鐘が静かに鳴った。




