第三話 囚われの観測者
夕陽が傾き、王都イルダの石畳が赤く燃えていた。
セラは言葉少なに、迷路のような路地を迷いなく進む。
屋根の上を渡る風は乾いていて、どこか金属の匂いが混じっている。
「この先に、“それ”がある。」
振り返った彼女の青い瞳に、灯りが小さく映った。
丘を見上げれば、白い塔――行政庁が夕闇の輪郭を切り取っている。
大臣アルディアが倒れた、と号外が告げた場所。
「入れるのか」 「“観測”の隙間からなら。」
意味を問う前に、セラは門の陰に身を寄せた。
正門の前には銀の鎧の衛兵が四人。封蝋の札には「王国警備局 管轄下」。
人払いの札の周囲に、微細な光の粒が漂っている――境界だ。
セラが低く囁く。
「声を出さないで。呼吸は浅く。」
彼女の指先が空気に触れると、透明な薄膜がさざ波を立てた。
波紋の縁をなぞるように、二人は門柱と塀の間の狭い影へ滑り込む。
衛兵の視線は確かにこちらを掃いているのに、焦点が合わない。
(見られているのに、見えていない……“視界の死角”を作った?)
中庭は静まり返っていた。
沈む陽に押し出されるように夜が迫り、噴水の水面だけが薄く光を返す。
セラは迷わず西翼の廊下へ。重い扉に触れた指先で、鍵内部の金属音が“書き換えられ”、閂が外れる。
「ここだ。」
塔の中へ足を踏み入れる。
床は磨かれたように滑らかで、血の痕も争った形跡もない。
――だが、壁に走る光の筋が、皮膚の裏を撫でるように微かに揺れていた。
「これは……記録投影?」
近づくと、光は瞬き、廊下の一部が一瞬だけ過去の像を映した。
黒い影が倒れ、誰かが駆け寄る――しかし、すぐにノイズで掻き消える。
(これは“事件の再現”だ。実際の現場じゃない……)
掲示板の紙は風に揺れているのに、破れ目はひとつも増えていない。
床の足跡も、全て同じ形で繰り返されている。
「データがループしてる……」
その瞬間、廊下の壁に淡く文字列が浮かんだ。
《再生層:行政庁塔/事件当夜/仮想モード》
ハレルは息を呑んだ。
ここは“現場”ではない――事件を再現するために上書きされた“仮想記録層”。
(本物の殺害現場は……別の場所にある)
光の筋が足元を照らす。
その先で、扉の縁に刻まれた焼け焦げのような痕跡がわずかに光った。
「……このデータは、誰かが“創った”」
「誰か来る。」
セラが顔を上げた。
遠くの曲がり角で、鎧の金具が打ち鳴らされる。
低い怒号。
セラは壁側の陰にハレルを押し込む。
「ここはもう長く持たない。観測の隙間が閉じる。」
足音が近づく――四、いや六。
光が差した瞬間、セラが囁く。「動かないで。今は“見えない”。」
衛兵が廊下を横切り、途中で足を止めた。
「……また誰か入った形跡があるぞ。」
鋭い嗅覚。
ハレルは息を詰める。(見えていない。けれど、痕跡は消せない)
そのとき――
「待て。そこにいるのは誰だ!」
背後。 別動の衛兵が、ふいに“こちら側”を真っ直ぐ見た。
セラが一瞬、眉をひそめる。
「……観測耐性がある。」
ハレルの胸が跳ねた。
次の瞬間、鋼の靴音が一斉にこちらへ殺到する。
セラが袖を掴み、反対側の廊下へ駆け出した。
角をひとつ、ふたつ。
背後で剣の柄が抜かれる音、短い号令、金属が石を擦る高い音。
「出口は?」
「東側の非常扉。でも――」
曲がり角の向こう、衛兵がすでに包囲していた。
彼らの視線がハレルの胸元をとらえ、鋭く細まる。
「貴様、その制服……大魔導士リオと同じだな!」
喉が凍えた。
――致命的な一致。
(“リオの仲間”と決めつけるには十分)
「俺は違う! 説明を――」
伸びてきた手甲が肩を掴む。
セラが一歩踏み出しかけたのを、ハレルはわずかに首を振って制した。
(ここで彼女の“異常”を見られるのは悪手だ。俺は、話して時間を稼ぐ)
「ここは“殺害現場”じゃない。偽装だ。俺はそれを確かめに来た。」
先頭の隊長格が一瞬だけ眉を上げる。
(今だ。迷いの針を動かせ)
「この現場は――“見せるため”に組まれた舞台だ。」
小さな動揺が隊列を駆け抜けた。
だが刀身の先は、なおこちらを向く。
「現場を荒らしたのか!」
「荒らしてなど――」
言い終える前に、背に重い衝撃。
別の兵が押し倒し、手枷が鳴った。
セラが一歩踏み出す。衛兵の数が一斉に彼女へ向き、殺気が跳ね上がる。
「動くなッ!」
石の床に頬が触れ、砂の味がする。
腕を後ろにねじ上げられ、金属が皮膚に食い込んだ。
セラが視線だけで合図する。『今は、耐えて』
ハレルは小さくうなずいた。
ここで彼女を“異常な存在”として確定させたくない。
(僕は観測する側だ。語るのは、後でいい)
「リオの仲間、拘束!」
「王国警備局へ移送する!」
立ち上がらされ、視界が揺れた。
鏡の奥で、セラだけが静かにこちらを見返していた。
口の形が、音にならない囁きを作る。
――記録は、消えない。
その意味を咀嚼する前に、頭巾が被せられた。
世界の光が奪われ、音だけが遠のいていく。
連行の足音。鎧のぶつかる乾いた音。
胸の奥で、推理の断片がまだ熱を保っていた。
被害者は別の場所で倒れ、ここで“見せられた”。
(リオ――君はどこで、何を見た)
覆面の向こう、夜風の匂いがかすかにした。
そして、階段を降りる感触。
暗い底へと連れていかれる最中、ハレルは心の中で静かに線を結ぶ。
偽装。
――“誰かの手”が、記録に触れている。
僕は必ず、そこに指を置く。
その約束だけを握りしめ、闇へ沈んだ。




