第二話 観測者たち
翌朝、学校の空気は、雨の残り香のように重かった。
昇降口を抜けた瞬間、誰かのひそひそ声が耳に届く。
「……本当に死んだの?」「ニュースでやってた」「心不全って言ってたけど……」
誰もが顔を寄せ合い、噂を囁き合っている。
教室の扉を開けると、湿った曇り空の光が差し込んでいた。
黒板の前には副担任の佐久間が立ち、手にした紙を握りしめている。
ハレルが席についた瞬間、いつもの朝のざわめきが嘘のように消えた。
「……昨日のニュース、みんなも見たと思うが――柏木先生が亡くなられた。」
その声に、教室の空気が凍った。
誰もが言葉を失い、沈黙だけが広がっていく。
「死因は急性の心不全だそうだ。……警察の発表では、事件性はないらしい。」
黒板の上の蛍光灯が小さく瞬いた。
誰かの嗚咽が空気を震わせる。
女子の一人が呟く。「この前まで普通に授業してたのに……」
「最近ずっと休んでたよね」「体調悪そうだったし」
その声の奥に、不安と恐れが混じっていた。
ハレルは窓の外を見た。
灰色の空の向こうで、カラスが一羽、旋回している。
――その顔は、柏木先生そのものだった。
異世界で見た“号外”の中の大臣アルディア。
夢だと片づけるには、現実の死があまりにも早すぎた。
視線を右にやる。
一ノ瀬涼の席が、今日も空いていた。
机の上は何も置かれていない。ノートも、筆記具すらも。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。
ハレルの胸の奥に、鈍い痛みが走った。
――暗殺犯リオ。
異世界の号外に載っていたその名と顔が、どうしても涼と重なって見えた。
放課後。
昇降口の外は、まだ地面が濡れていた。
靴の裏が濡れたコンクリートを踏む音が、静かな校庭に響く。
校門の前には、ひとりの男が立っていた。
スーツの上から安物のレインコートを羽織り、手にはICレコーダーを持っている。
どう見ても、フリーの記者だ。
「ねえ君、柏木先生のこと、何か知ってる? 最近変わった様子とか――」
通りがかった生徒たちは顔を伏せ、足早に立ち去っていく。
記者は焦れたように息を吐いた。
「柏木先生、生前首筋に何か“アザ”のようなもの、見たことない?」
突然聞かれた生徒が、戸惑いながら首を横に振る。
「い、いえ……分かりません」
「そう……やっぱり誰も気づいてないか」
記者は小さくメモを取り、空を仰いだ。
その目は疲れ切っているのに、どこか確信めいていた。
ハレルは少し離れた場所から、それを見ていた。
――アザ?
なぜそんなことを聞く?
心不全で死んだ人の“首筋”に、いったい何の関係があるというのか。
胸の奥に、説明のつかないざわめきが広がる。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
画面を見ると、昨夜ダウンロードした《クロスワールド・ゲート》のアイコンが、
自動的に起動していた。
「……なんで、勝手に――」
音もなく、アプリの画面が黒く染まる。
液晶の中心に白い円が現れ、ぐるぐると回転し始めた。
それはまるで、何かを“探している”かのように。
次の瞬間、ネックレスが震え、微かな電子音が耳を打った。
ピィ――。
ハレルは反射的にスマホを握る。
指先から光が溢れ、視界が溶けた。
――まるで、誰かに呼ばれるように。
風が止み、音が遠のいた。
重力が裏返り、世界が白に塗りつぶされていく。
■
光が収まったとき、目の前には再びあの街があった。
石畳に夕陽が差し込み、濡れた道が黄金色に輝いている。
パンの香りと焦げた油の匂い。
露店の呼び声と、遠くの鐘の音が重なり、世界がゆっくりと動いていた。
ハレルは深呼吸した。
体が重く、足元の感覚が確かに現実のものだった。
「……戻ってきたのか。」
呟きが、冷たい風に溶けた。
頭上を見上げると、夕焼けに照らされた雲が、まるで燃えているように見える。
その光景に、現実感が少しずつ失われていく。
と、背後から風が吹いた。
ハレルが振り向く。
――そこに、少女がいた。
銀灰色の髪が風に揺れ、青い瞳が静かに光を宿している。
白い服の裾が、雨上がりの風にひらめいた。
彼女はゆっくりと近づき、まっすぐにハレルを見つめた。
「……あなた、観測者ね。」
その一言が、世界の中心に落ちたような気がした。
「な、何を……?」
ハレルが言葉を探す間に、少女はほんの少しだけ首を傾げた。
「名前はセラ。ここでは、案内人をしているの。」
声は澄んでいて、どこか機械的でもあった。
それでいて、不思議と冷たくはなかった。
ハレルの胸の奥がざわめく。
この少女――どこかで、見たような気がする。
セラは視線を上げ、曇天の向こうを見つめた。
「あなたが現れた瞬間、この世界が揺れた。
“観測者”が入った記録は、決して消せない。」
「観測者……?」
その言葉が何を意味するのか分からない。
だが、彼女の表情は本気だった。
セラはわずかに微笑み、背を向けた。
「来て。あなたに見せたいものがある。」
そう言って歩き出す。
ハレルは躊躇いながらも、その後を追った。
遠くでまた、鐘が鳴る。
その音が、異世界の空気を震わせていた。
――“観測者”。
その言葉の意味を、ハレルはまだ知らなかった。




