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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十二章 光影反転編

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第百七十三話 俯瞰する影

第十二章 光影反転編


第173話 俯瞰する影



【どこでもない層/薄い演算空間】


黒い空間に、白い線だけが浮かんでいた。


床はない。

壁もない。

けれど、その場には確かに“配置”がある。


現実側。

異世界側。

学園。

駅周辺。

王都イルダ。

湾岸の導線。

それぞれの位置と流れが、

細い光と影の束になって、立体の盤面みたいに静かに漂っていた。


その中心に、パイソンが立っている。


細身の体。

無駄のない立ち姿。

整いすぎた輪郭。

目の奥を流れる文字列は静かで、乱れがない。

感情がないわけではない。

ただ、感情より先に盤面を見る側の顔だった。


白い配置図の向こう側で、影が二つ戻ってくる。


一つは異世界側から。

肩幅のある、荒っぽい輪郭。

黒い影をまとい、皮膚の下に文字列が脈打つ。


ジャバ。


もう一つは現実側から。

黒と赤錆色の混じる髪。

深い隈。

静かなのに不気味な、痩せた輪郭。


ラスト。


二人とも、完全に押し切った顔ではない。

だが、崩された顔でもない。

一度引いた者の顔だった。


ジャバが先に口を開く。


「ちっ」

「王都の連中、思ったより粘るな」


ラストは少し遅れて、ぼそりと落とした。


「……棟は落ちた」

「でも……持って、抜かれた」


最後の方は影に埋もれて聞き取りづらい。


パイソンは、配置図から目を離さない。


「報告としては十分です」


ジャバが鼻を鳴らす。

「十分?」


「はい」

パイソンは淡々と答えた。

「王都は守らせた。

現実側は導線を変えさせた。

どちらも、こちらが触れたことで予定を早めている」


ラストが、前髪の奥からわずかに顔を上げる。


「……読まれた」

「でも……全部じゃない」


「ええ」

パイソンは頷いた。

「向こうも一手拾った。

こちらも一手拾った。

そういう段階です」


ジャバが肩を鳴らした。


「で、次は?」


パイソンはそこで初めて、白い配置図の上に浮かぶ三つの光を見た。


主鍵。

副鍵。

副鍵。


まだ細い。

だが、前より確実に噛み合い始めている光だ。


「敵は、次へ進みます」

パイソンが静かに言う。

「進まざるを得ない」

「止まれば、その間にこちらが削れる。

進めば、盤面が動く」


ジャバが笑った。

「どっちでも面倒ってわけか」


「そうです」

パイソンは答える。

「こちらが今やるべきことは、“勝ち急ぐこと”ではありません」

「次の手を選ばせることです」


ラストが、ぼそりと呟く。


「……光が強いほど」

「影も、濃く見える」


パイソンの目が、ほんのわずかに細くなる。


「いい表現です」


配置図の上で、学園と駅周辺、それに現実側の対応点の白い線が、少しだけ前より近く見えた。

まだ何かが起きたわけではない。

だが、盤面はもう静止していない。


パイソンは、その全体を見渡したまま言う。


「今は引きなさい」

「王都も現実側も、一度息を整えさせる」

「安心させる必要はありません。

ですが、“次へ進める”と思わせる方が有利です」


ジャバが眉をひそめる。

「攻め切らなくていいのか」


「今は」

パイソンが言う。

「押し込みすぎるより、選ばせる方が価値がある」


ラストは何も言わない。

ただ、目の奥の文字列がわずかに濃く流れた。


「それぞれ一度退いてください」

パイソンが続ける。

「盤面が次の形になるまで」


ジャバが肩をすくめる。

「了解だ。

でも、次はもっと派手にやるぞ」


ラストは、ぼそりと落とす。


「……次は」

「もっと、近くで見える」


その言葉だけが、静かな空間に少し長く残った。


パイソンは最後まで表情を崩さなかった。


「ええ」

「次は、もう少し面白くなります」


白い配置図の上で、三つの光が細く揺れる。

それを包むように、黒い影がゆっくりと輪郭を変えた。


だがまだ、何かが始まったわけではない。

始まる前の静けさがあるだけだった。


◆ ◆ ◆


【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】


資材ヤードの空気は、さっきまでより少しだけ軽くなっていた。


保管棟は半壊した。

ラストは姿を見せた。

それでも中枢ログは守った。

そして今は、少なくとも目の前に建物が落ちてくる状況ではない。


その事実だけで、人は少し呼吸を思い出せる。


発電機の回転音。

点滅する灯。

交差して引き直されたケーブル。

樹脂ケースの並んだ足元。

全部が、さっきまでの混乱よりは“整って”見えた。


城ヶ峰が全体を見ながら言う。


「負傷者確認」

「導線班はこの形を維持」

「ログ班は続けろ」

「次に動くまでの間に、分かったことを固定する」


日下部は頷き、端末を開いた。

佐伯と村瀬がその横につく。

木崎はカメラを下ろさないまま、遠くの警官列を見ている。


「……今は来てないな」

木崎が言う。


「来てないだけだ」

城ヶ峰が短く返す。

「消えたわけじゃない」


「分かってる」

木崎は答えた。

「でも、一旦は引いた」


それは大きかった。


完全に振り切ったとは言えない。

だが、少なくとも今この瞬間、ラストは正面から迫ってはいない。

そのぶんだけ、こちらに“やるべきこと”へ集中する時間がある。


日下部が画面を見たまま口を開く。


「今のうちに整理します」

「残支点候補は一つに絞れてる」

「補助層三層の意味も見えた」

「固定点の条件も、かなりはっきりした」


村瀬が小さく言う。

「……ここまで来たんだね」


佐伯も頷く。

「まだ終わってないけど、手探りじゃなくなってる」


木崎は、その言葉を聞いてほんの少しだけ笑った。


「そうだな」

「ようやく、“やること”の形が見えてきた」


その時、少し離れた場所で若い警官が二人、崩れた機材を片づけていた。

動きは普通だ。

どちらも疲れている顔だ。

どちらが敵でもおかしくないし、どちらも敵ではないかもしれない。


その曖昧さは残ったままだ。


だが、それでも今は前よりましだった。

“見えないまま壊されるだけ”の段階ではなくなったからだ。


城ヶ峰が低く言う。


「次に必要なのは、条件を揃えることだ」

「戦うかどうかはそのあとでいい」


木崎は窓の外を見たまま答える。


「いや」

「次もたぶん、戦うってより逃がさないように来るぞ」


その声音には、断定に近いものがあった。


誰も反論しない。

ラストは倒しに来る敵というより、

導線と設備と足場そのものを削って、こちらに選ばせない敵だ。

なら、次もまた別の形で来る。


それでも今は、一度引いた。

なら、その短い隙でできることをやるしかない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】


王都の北西も、ようやく一度だけ息をついていた。


影獣はまだ完全には消えていない。

黒い影も、崩れた石壁も、そのままだ。

だが、さっきまでみたいに“押し潰され続ける”感じは薄れていた。


猪型の残影は後ろへ引き、

狼型も結界の縁から距離を取っている。

牛型に似た黒い塊は、崩れた石壁の向こうで低く蠢いているだけだった。


そして、そこにジャバの姿はない。


さっきまで崩れた石壁の上にいたはずの黒い影の男は、もう見えなかった。

撤退したのか。

別の場所へ移ったのか。

それとも、まだどこかでこちらを見ているのか。


分からない。


ただ、残された獣影たちの気配だけが、北西区画の奥にまだ濃く残っている。


アデルは前線の結界を保ったまま、ゆっくり息を吐いた。


ヴェルニが横で言う。

「……引いたな」


「一旦はな」

アデルが答える。


「一旦は、か」

ヴェルニが苦く笑う。

「便利な言葉だな」


王都軍兵たちも、槍を構えたまま少しだけ肩の力を抜いていた。

完全な休息ではない。

だが、前列を下げ、後列と交代させるくらいの隙はある。


治療班はその時間を逃さず、倒れた兵を下がらせ、立てる者へ水を渡し始めた。

イデールの光も、さっきまでより深く傷へ入るようになっている。


イデールが後方から近づき、アデルへ言う。


「学園へ回した光具、向こうで使えているそうよ」


「よかった」

アデルは短く答えた。

「こちらは、どれくらい整えられる」


「長くはないわ」

イデールが言う。

「でも、今なら重傷者を下げ、軽傷者を前列から外せる」


「それで十分」


アデルはすぐに兵たちへ声を飛ばした。


「前列、三歩下がって組み直せ!」

「第二列と交代!」

「槍の折れた者は後ろへ、術師は光杭を補充!」

「休める者は休め。

だが警戒は切るな!」


兵たちが応える。

疲れた声だ。

でも、崩れた声ではない。


ヴェルニは崩れた石壁の奥を見たまま、低く言う。


「また来るな」


「ああ」

アデルは答えた。

「ジャバも、獣影も、これで終わるとは思えない」


「だよな」


「だから今のうちに整える」

アデルは言った。

「次に来た時、また線を作れるように」


それで十分だった。


一度は押し返した。

ジャバも姿を消した。

獣影も下がった。

王都は、わずかながら息をつける。


だが、北西区画の奥にはまだ黒い影が残っている。

それは、戦いが終わったのではなく、次の波が来る前の静けさにすぎなかった。



◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】


学園側でも、ようやく少しだけ空気が落ち着いていた。


ダミエの内箱。

その外側を回る光具の循環。

さらに外の結界杭。

レアの拘束は、最低限“次の揺れが来てもすぐには割れない形”になりつつある。


ダミエは壁際で、ようやく一度だけ肩を落としていた。

まだ休んではいない。

でも、さっきまでの張り詰め方とは違う。


ハレル、サキ、リオもその場に残っている。

ノノの声はイヤーカフの向こうでまだ繋がっていた。


『現実側、一旦距離を取れた』

『王都側も、一旦引かせた』


その言葉に、サキがようやく深く息を吐く。


「……よかった」


本当に、小さな声だった。

けれど、心の底から出た声だと分かった。


リオも窓の外を見ながら言う。

「少しだけ、だな」


「少しでいい」

ダミエが短く返す。

「少しでも整える時間があるなら使う」


レアは、箱の中からそれを見ていた。

相変わらず余裕があるようでいて、完全に余裕というわけでもない。

体の中を走る数列は、朝になってもまだ不規則に明滅している。


「……よかったね」

レアが小さく言った。


サキがそちらを見る。

警戒は緩めない。

けれど、前みたいな反射的な怯えだけでもなくなっていた。


「何が」


「少し休めるんでしょ」

レアが肩を揺らす。

「そういうの、大事だよ」


リオが冷たく言う。

「お前が言うな」


レアは、その言い方に少しだけ笑った。

だがそのあと、声の調子を変えた。


「でも、ずっと静かなままじゃない」


ハレルの目が細くなる。

「……どういう意味だ」


レアはすぐには答えなかった。

箱の外を見て、体育館の光具と結界杭、

それから朝の光が入る窓の方へ目を向ける。


「戻る時って、きれいに見えるから」

「いけそうって思うし、実際ちょっと戻るし」

「でも――」


そこで、言葉を切る。


サキが思わず聞く。

「でも何」


レアはそれ以上を言わなかった。

ただ、少しだけ楽しそうでもあり、

少しだけ本当に知っているようでもある顔で笑った。


「まあ、先に進めば分かるよ」


ハレルは、その言い方にわずかに苛立ちを覚えた。

だが同時に、それ以上を問い詰めても今は言わないだろうことも分かった。


ノノの声がイヤーカフへ入る。


『今は整理を優先して』

『条件が見えた以上、次は準備の段階に入る』


「分かった」

ハレルが答える。


そして、レアからは目を離さずに、小さく言った。


「……向こうも一旦引いた。

だったら今のうちだ」


リオが頷く。

サキも、紙とスマホを持ち直した。


“いけるかもしれない”。

その感覚が、今は確かに少しだけある。

でも、それだけでは終わらない気配も、同じように残っていた。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】


ノノは、端末へ新しい整理を書き込んでいた。


現実側:ラスト一旦後退

王都側:ジャバ一旦圧を緩める

学園側:レア多層拘束ほぼ安定

条件:残支点/補助層三層/固定点/主鍵+副鍵二つ


そこへ、セラが静かに言う。


「少し、盤面が静かになりましたね」


「うん」

ノノが答える。

「でも、嫌な静かさ」


セラも否定しなかった。


「はい」


それ以上は言わない。

ただ、二人とも分かっている。

静かになったから終わりではない。

次の段階へ盤面が移る前の静けさだ。


けれど、それでも今は、この短い静けさが必要だった。


条件を整理するために。

持ち場を立て直すために。

“いけるかもしれない”と思い直すために。


ノノは最後に、画面の上へ新しい見出しを書いた。


「次段階:実行準備」


その文字が、朝の光の中で小さく白く見えた。


◆ ◆ ◆


黒い影は、一度引いた。

ラストもジャバも、今は前へ出ていない。

だから、人々は少しだけ息をつける。


現実側では、ようやく“やるべきこと”が形になった。

王都では、防衛線が一度立て直された。

学園では、レアの箱が次の揺れに耐える形へ近づいている。


全部はまだ遠い。

でも、戻せるかもしれない。

そう思えるだけの材料が、初めて揃い始めていた。


そしてその希望の向こうで、

黒い影はまだ、静かに盤面を見ている。


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