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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十一章 帰還光路編

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第百七十話 傾ぐ棟

第170話 傾ぐ棟



【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟脇・朝】


朝の光が、保管棟の外壁を白く照らしていた。


夜の恐怖は、明るくなれば薄れる。

普通ならそうだ。

だが今は逆だった。


見えるから分かる。

シャッターの下端。

脇の非常階段。

壁面を走る金属配管。

屋根を支える鉄骨の端。

その全部に、鈍い赤茶が広がり始めている。


「……建物そのものを食い始めた」


木崎が低く言った。


もう、手すりや留め具だけではない。

ラストは、臨時保管棟の“骨”へ手をかけている。


城ヶ峰が即座に叫ぶ。

「保管棟から離れろ!」

「外壁沿いは捨てる! 開けた方へ出ろ!」


隊員たちが動く。

発電機はまだ回している。

照明も点滅を保っている。

ケーブルも輪になるように引き直してある。

それで、導線や手元の機材は多少守れていた。


だが、建物の骨組みは違う。


鉄骨。

梁。

接合部。

普段は動かない。

閉じたまま荷重を支え続ける金属だ。

ラストにとっては、一番食いやすい場所だった。


保管棟の外壁が、ぎり、と軋んだ。


誰かが息を呑む。

次の瞬間、シャッター脇の縦柱の塗装が、見る間に赤茶けて膨らんだ。

さっきまで灰色だった鉄が、一気に古びた船みたいな色へ変わる。


「来るぞ!」

木崎が怒鳴る。


その時だった。


警官の列の中から、一人が足を止めた。


ほんの少しだけ、顔が上がる。


制帽の影。

その奥。

黒と赤錆色が混じる髪。

深い隈。

瞳の奥を流れる黒い影と細い文字列。


今度は、誰の目にも分かった。


若い警官ではない。

警官の顔を借りていただけの、別の何かだ。


ラストが、ようやく隠すのをやめた。


彼は制帽を脱がない。

だが、その必要がないくらい、目がもう人間ではなかった。

黒い影が文字列を呑み込み、また吐き出す。

頬の下、首筋、手の甲。

皮膚の下に埋まった基板みたいな板が、うっすらと浮いている。


ラストは、ぼそりと呟いた。


「……動かす」

「光を流す」

「止めない」

「だから……棟ごと、崩す」


最後の方は、朝の空気に溶けるように聞き取りづらかった。


だが意味は十分だった。




【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟脇・朝】


若い警官の一人が、反射的に拳銃を抜いた。


「止まれ!」


ラストは止まらない。

走りもしない。

ただ、静かにこちらへ歩く。


警官が引き金を引く。

乾いた発砲音。


一発。

二発。

弾はラストの肩口と脇をかすめる。

だが、倒れない。

それどころか、ラストが視線を向けた瞬間、警官の拳銃の銃身がじわりと赤茶けた。


「っ……!」


警官が思わず手を放す。

地面へ落ちた拳銃は、硬い音を立てた次の瞬間、握りの根元からぼろりと崩れた。


その光景で、周囲の警官たちの表情が一斉に変わる。


敵の顔が見えた。

だが、見えたことでむしろ恐怖が増す。

普通の制圧では止まらないと分かったからだ。


「下がれ!」

城ヶ峰が怒鳴る。

「正面で止めるな! ログ優先!」


日下部はケースを抱え直し、佐伯と村瀬を見た。


「読みは続ける!」

「止まったら向こうの勝ちだ!」


「分かってる!」

佐伯が答える。


「どこまででもついていく!」

村瀬も声を上げた。


木崎はカメラを構えたまま、ラストから目を離さない。


今までラストは、警官たちの中へ紛れ、見えないまま崩してきた。

だが今は違う。

こちらが“動かし続ける”ことで食いにくくなったぶん、ついに隠れる段階を終えたのだ。


「……痺れ切らしたな」

木崎が低く言う。


ラストは返事をしない。

ただ、歩きながら保管棟へ片手を向けた。


次の瞬間、建物全体が鳴った。


ぎ、ぎぎ……。


鉄骨の軋み。

壁のきしみ。

屋根を支える梁の悲鳴。

それが一度に重なる。


保管棟の上部外壁が、わずかに傾いた。




【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟前・朝】


「建物が来る!」

木崎が叫ぶ。


それは比喩じゃなかった。


保管棟そのものが、支えを失い始めている。

外から見るとほんの少しの傾きだ。

だが、中にいる者、横を通る者には十分すぎる変化だった。


非常階段の接合部が一気に赤茶ける。

上段の踊り場が、ぐらりと外へ傾く。

屋根からぶら下がった排気ダクトが、ねじれた音を立てる。


「ルート替え!」

城ヶ峰が叫んだ。

「棟の正面を切るな、開けた駐車帯へ!」


だが、その駐車帯には停止した搬送カートがまだ残っていた。

ラストはすでにそこも食っている。


車輪が崩れ、台車の骨組みが沈み、進路の中央に金属の残骸が散っている。


「最悪だな!」

木崎が吐き捨てる。


「避けるしかない!」

城ヶ峰が返す。


隊員たちが樹脂ケースを抱えて走る。

発電機を引きずる班。

ケーブルを外しながら持っていく班。

中枢ログを守る日下部たち。

全員がばらばらにならないぎりぎりの形で動いていた。


ラストは、その混乱の外縁を歩いている。


追い詰めるためではない。

逃げ道の先へ先へと歩いて、止まった金属と閉じた構造を順番に食っていく。

まるで、建物と現場そのものを“逃げると崩れる迷路”へ変えているようだった。


「……逃げても」

ラストが呟く。

「支えるものが、崩れる」


その言葉の直後、保管棟の外壁の一部が内側からへこみ、次いで外へ弾けるように崩れた。

鉄骨の破片と壁材が、朝の光の中へ飛び散る。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】


イヤーカフの向こうから、現実側の怒号と破断音が流れ込んできた。


サキの顔色が変わる。

「建物……!」


ノノの声が重なる。


『保管棟の鉄骨を食われてる!』

『ラスト、ついに前へ出た!』


ハレルは思わず窓の外を見た。

見たところで現実側は見えない。

それでも、胸の中で何かが強く引かれる。


リオが低く言う。

「向こう、いよいよ正面だな」


ダミエは結界の外箱を維持したまま、短く言った。

「そっちはそっちで持つしかない」

「今こっちが崩れたら、全部終わる」


その通りだった。

助けに行ける距離じゃない。

今は、向こうが向こうで持ちこたえ、こっちがこっちで線を切らないしかない。


レアは、箱の中からその様子を聞いていた。

そして、小さく笑う。


「……錆の人、前に出たんだ」


ハレルが鋭く見る。

「知ってるのか」


「存在だけ」

レアは肩を揺らした。

「でも、あれは待つ方が得意」

「前に出る時は、相手に“止まらない”を覚えられた時」


サキがイヤーカフを押さえた。

その言葉は、現実側の状況と合っている。

匠のヒントで、木崎たちは“動かし続ける”を選んだ。

だからラストは痺れを切らして前へ出た。


『今の拾った!』

ノノが言う。

『ラストは“止まらない”を覚えられると前に出る!』


ハレルは主鍵を握りしめた。

向こうで何が起きているかは見えない。

でも、向こうも今、敵のやり方を一つずつ剥がしている。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】


王都でも、戦いはまだ続いていた。


アデルは結界の前で、現実側の状況を聞きながら前線を保っている。

ヴェルニの爆風が狼型を押し返し、王都軍兵の槍列が猪型の突進を止める。

崩れた石壁の上では、ジャバが相変わらず楽しそうに笑っていた。


『現実側、ラストが姿を出した』

ノノの声。


アデルの目が細くなる。


「そうか」


『保管棟の鉄骨を食って、棟ごと傾かせてる』

『木崎たちはまだログを持ってるけど、崩壊寸前』


ヴェルニが吠えた。

「本当に好き勝手やりやがるな!」


アデルは短く返す。

「向こうも今、相手の手を見ている」

「こっちは線を切るな」


それで十分だった。

今の王都は、勝ちに行くより持たせる。

現実側は、倒すより逃れながら読む。

両方とも同じだ。

“勝つ形”そのものを敵に合わせて変え始めている。


◆ ◆ ◆


【現実世界・湾岸方面/臨時保管棟前・朝】


保管棟の傾きは、もう誰の目にもはっきりしていた。


右側へ、ほんのわずか。

だが、その“ほんのわずか”が致命的だ。

建物は一度傾き始めると、止まるより先に重さの向きが変わる。


「二分もたない!」

佐伯が叫ぶ。


「一分だ!」

木崎が怒鳴り返す。

「上、見ろ!」


屋根を支えるトラスの一部が、赤茶けながら波打っていた。

普通の錆び方じゃない。

時間を何十年も早送りしたみたいな、荒れた腐食だ。


日下部はケースを抱えたまま走っている。

ノートパソコンはもう片手では打てない。

だが、画面は閉じていない。

佐伯と村瀬が左右から支え、見えるところだけ拾っている。


「まだ読める!」

日下部が叫ぶ。

「この先、支点候補の片方が見えるかもしれない!」


「だったら落とすな!」

城ヶ峰が言う。


その瞬間、保管棟の横壁が大きくきしんだ。


ばき、ばきばき、と連続した音。

外壁パネルが外れ、内部の赤茶けた鉄骨が剥き出しになる。

その姿を見て、全員が直感した。


もう、建物は“崩れる途中”へ入っている。


ラストはその前で、ようやく立ち止まった。


警官の制服のまま。

だが、もはや誰も警官とは思わない。

黒と赤錆色の髪が朝の光を吸い、目の奥の影と文字列が濃くなる。

皮膚の下の基板が、頬から首筋へ浮かび上がる。


彼は保管棟を見上げ、ぼそりと呟いた。


「……止まらない線」

「なら……箱の方を、傾ける」


その言葉と同時に、保管棟の正面柱が一気に赤茶けた。


「伏せろ!」

木崎が叫ぶ。


直後、建物全体が大きく軋んだ。


保管棟が、ゆっくりと、しかし確実にこちら側へ傾き始める。




【現実世界・湾岸方面/崩壊寸前の保管棟前・朝】


もう、逃げるしかなかった。


だが、ただ逃げればいいわけじゃない。

中枢ログを落とせない。

光と循環を切らせない。

そして、ラストに止まった金属の逃げ場を渡せない。


城ヶ峰が咆える。


「ケーブルを前へ回せ!」

「光の輪を切るな!」

「ログ班を中央に入れろ!」


隊員たちが反射で動く。

動いている発電機。

点滅する照明。

引きずられるケーブル。

その全部が、逃げるための仮の導線へ変わる。


ラストは、それを見て初めて少しだけ足を止めた。


完全には止まらない。

だが、迷うような間があった。


木崎の目が鋭くなる。


「……今の見たか」


日下部が荒い息のまま答える。

「交差した光のところで、食い方が鈍った」


まだ確信には遠い。

だが、兆しだ。


その瞬間、保管棟の上部が大きく沈み込んだ。

鉄骨が悲鳴を上げる。

壁が裂ける。

ガラスが割れる。

建物が、ついに崩壊へ踏み込んだ。


朝の光の中、巨大な棟がゆっくりとこちらへ傾いてくる。


誰もが、その影を見上げた。


そして理解した。


次の一手を間違えれば、

ラストではなく、

建物ごとこちらが飲まれる。


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