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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第十一章 帰還光路編

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第百六十一話 中枢ログ

第161話 中枢ログ



【現実世界・湾岸方面/対策本部車両・未明】


車両の中は、まだ眠れる空気ではなかった。


エンジンの低い振動。

端末の電子音。

紙をめくる音。

誰かが短く息を吐く音。

全部が、張りつめた静けさの中でやけに大きく聞こえる。


日下部はノートパソコンの前から動いていなかった。

目は赤い。

だが、画面から視線を切る気配はない。


画面に流れているのは、白い線、円、座標、文字列。

それだけ見れば数字の塊だ。

だが今はもう、そこに意味があると全員が分かっている。


「……もう一回、整理します」


日下部が低く言った。


城ヶ峰、木崎、佐伯、村瀬の視線が、自然に画面へ集まる。


日下部は画面を三つに分けた。


一つ目には、大きな輪のような線。

二つ目には、点と点を繋ぐ細い杭。

三つ目には、中心で少しだけずれた二つの円。


「中枢ログは、ただの証拠じゃありません」

「一番分かりやすく言えば、

 今この世界がどういう順番で重ねられているかを書いた設計図です」


村瀬が小さく息を呑む。

「設計図……」


「はい」

日下部は頷いた。

「どの外周から力を入れて、どの杭で支えて、どこで捻って、どこで固定しているか。

それが順番つきで記録されている」

「だから、これがあれば“どう壊したか”だけじゃなく、“どう戻すか”も見えてくる」


木崎が低く言う。

「つまり、これがないと戻せない」


「正確には、“勘で戻すしかなくなる”です」

日下部が答える。

「でも勘でやったら危ない。

今の二つの世界は、綺麗に重なってるわけじゃない。

無理やり押しつけられてる」

「順番を間違えると、帰るどころか、中間の層へ滑るか、二つごと裂ける可能性がある」


佐伯が、画面の中央を指した。

「この大きい輪が外周ですか」


「そうです」

日下部が答える。

「外から力を流す線」

「その次に、この細い杭で支えてる。

で、最後に中心で捻って固定してる」


城ヶ峰が短く聞く。

「今、読めてる範囲で何が分かった」


日下部はすぐに答えた。


「大きく三つです」


指を立てる。


「一つ。

まだ残っている支点がある。

中継管理棟を半停止させて、局所杭も折った。

でも、まだ細い杭が残ってる」


「二つ。

補助層の安定が必要。

匠さんが残したプログラム層は、今は“細い道”として残ってるだけです。

最後の負荷に耐えられるかはまだ分からない」


「三つ。

主鍵と副鍵二つで反転を実行する場所を決めないといけない。

最後は、どこかで向きを固定し続ける必要がある」


村瀬が不安そうに聞く。

「じゃあ、まだ帰れないんですね」


「まだ無理です」

日下部ははっきり言った。

「でも、前とは違います」

「前は“帰れるかもしれない”でした。

今は、“帰るには何が足りないか”が見えてます」


その違いは大きかった。


木崎は画面ではなく、最深部で撮った写真を見ていた。

カシウス。

観測の穴。

役割の殻。

白い線と石の紋様が重なった中心。


「……取って終わりじゃないどころか、ここからが本番だな」


「はい」

日下部は短く答える。

「中枢ログは、持ってるだけじゃ意味がない。

読んで、足りないものを埋めて、順番を決めて、初めて使える」


その時だった。


車両の外で、金属がきしむような、小さな音がした。


誰かが鉄の箱を擦ったような音。

ほんの一瞬。

けれど、妙に耳に残る。


木崎の目が上がる。


「……今の、聞いたか」


日下部が顔を上げる。

城ヶ峰も視線だけを窓へ向けた。


外では、規制線の周囲を数人の警官が歩いている。

照明。

警察車両。

仮設バリケード。

一見、何もおかしくない。


だが木崎は、無意識にカメラへ手を伸ばしていた。


「何か見えますか」

佐伯が聞く。


「まだ分からん」

木崎は短く答える。

「ただ、嫌な感じがする」


そしてその“嫌な感じ”は、説明できない種類のものだった。


規制線の向こうに立つ警官の一人が、さっきから同じ場所にいる気がする。

いや、違う。

位置は少しずつ変わっている。

でも、動き方が妙に静かすぎる。


普通の警官なら、無線に触る。

周囲を見る。

同僚に声をかける。

少しは人間らしい“間”がある。


だが、その警官にはそれがなかった。


立つ。

歩く。

止まる。

また少し近づく。


それだけだ。


木崎は立ち上がった。

「外見る」


城ヶ峰が短く頷く。

「二人つける」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・未明】


サキのスマホが震えた。


届いた短文を見て、サキが小さく読み上げる。


「……“中枢ログ=重なりの設計図”」

「“残支点あり”」

「“補助層安定必要”」

「“固定点未確定”」


ノノがすぐに頷く。

「うん。こっちの見立ても同じ」

「つまり今あるのは、“帰るための道の地図”」

「でも、地図があっても橋が細かったら渡れないし、

 途中の支点を残したままだと、出口がずれる」


ハレルは主鍵を握ったまま聞いていた。

分かったような、まだ全部は分からないような感覚。

だが、少なくとも今は前よりずっとはっきりしている。


「……戻るって、思ってたよりずっと“作業”なんだな」

ハレルが言う。


セラが静かに頷いた。


「はい」

「願えば戻れるものではありません」

「どこを残し、どこを切り、どこで向きを固定するか。

その順番を間違えないことが大事です」


ヴェルニが壁にもたれたまま言う。

「地味だな」


アデルが即答する。

「地味で結構だ。

雑にやって壊れるよりはずっといい」


リオが腕を組んだまま、低く聞く。

「で、次は何を優先する」


ノノは端末の地図を切り替えた。

王都。

学園。

駅周辺。

その三つが細い線で繋がっている。


「本当なら、次もここでログを読むのが早い」

「でも、今のままだと街の方も動いてる。

それに――」


ノノは少しだけ間を置いた。


「レアを使わないのはもったいない」


その言葉で、空気が変わる。


ハレルが顔を上げる。

リオの目も細くなる。

サキの指がスマホを握り直した。


「……あいつ」

ハレルが言う。


「うん」

ノノが頷く。

「箱の中のあいつ」

「プログラム層の中を通って戻ってきて、しかも今は拘束中。

断片でも持ってる可能性が高い」

「観測の穴、戻れなくなる層、中枢の向き。

たぶん何か知ってる」


セラも、それを否定しなかった。


「敵であることは変わりません」

「でも、情報源でもあります」


アデルが短く決める。


「なら分ける」

「王都は私と術師隊、それにイデール班で回す」

「北西区画の影獣対応もこっちで引き受ける」


「じゃあ俺たちは」

リオが言う。


アデルはまっすぐ見た。


「学園へ戻れ」

「レアから聞き出せるものを聞き出す」

「今の段階では、それが一番早い」


ハレルは頷いた。

サキも、少しだけ不安そうにしながら頷く。


「ノノ」

アデルが言う。

「回線は維持できるか」


「できる」

ノノは即答した。

「だから、それ用にこれも渡す」


彼女が布の上から小さなイヤーカフを三つ取り上げた。

王都側で急造した通信用の補助具だ。

黒く小さいが、内側に細い術紋が刻まれている。


「ハレル」

「サキ」

「リオ」


順に渡す。


「いつもの通り、私と繋ぐ」

「私はここから動かない。

分析と中継を続ける」

「だから何か見えたらすぐ言う。

そっちも見たこと、感じたこと、全部返して」


サキがイヤーカフを見て、小さく息をついた。

「……ほんとに、もう後戻りできない感じだね」


「とっくにできない」

リオが短く言う。


でも、その声音は荒くなかった。

それより先に進む覚悟の声だった。




【異世界・王都イルダ/中央区外れ・未明】


出発前、ハレルたちは短く装備を整えた。


ハレルは胸元の主鍵。

リオは右腕の副鍵。

サキはスマホとイヤーカフ。

セラはノノの端末の方へ戻る準備をしている。


セラがハレルに言った。


「レアは挑発してきます」

「知っていることを全部は話さない」

「でも、今のあなたたちなら、どこを濁したかくらいは見えるはずです」


ハレルは、それに少しだけ間を置いて頷いた。


「……分かった」


本当は、聞きたいことはレアに対してだけじゃない。

父のこと。

補助層のこと。

自分たちがどこまで戻れるのか。

頭の中には山ほどある。


でも今は、一つずつしか取れない。


セラはサキにも目を向ける。


「怖くなったら、画面だけ見ないでください」

「音も、人の顔も、全部合わせて判断して」


「うん」

サキは頷いた。

「分かってる」


リオはイヤーカフを耳につけながら、アデルへ目を向ける。

「王都、持つか」


「持たせる」

アデルは即答した。

「持たせている間に、そっちが聞き出せ」


それで十分だった。




【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・未明】


ハレル、サキ、リオの三人が学園へ向けて出るのを、ノノは端末越しに見送った。


地図の上で、三つの小さな反応が王都から学園へ向かって動き始める。

その横で、北西区画の方はまだ赤くざわついている。

王都軍兵と術師たちが持ちこたえている証拠だ。


セラはその地図を見ながら、ふいに指先を止めた。


「……三つ」


「え?」

ノノが聞き返す。


セラは少しだけ目を細める。

地図そのものに出ているわけではない。

流れの奥にある、感覚に近いものだ。


「濃い影が三つ、動いています」

「ただの影ではない」


ノノが顔を上げる。

「知ってるの?」


セラは短く答えた。


「存在と名前だけ」

「実際に会ったことはありません」


その声は静かだったが、いつもよりわずかに硬い。


「パイソン」

「ジャバ」

「ラスト」


ノノがその名前を繰り返す前に、北西区画の通信がもう一度跳ねた。


『押し返してる! だがまだ終わらない!』

『影獣の動きが妙です!』


アデルの声もすぐ入る。


『ノノ、学園側の回線を切るな』

『こっちは持たせる。

そっちは予定通り進めろ』


ノノは大きく息を吸った。


「了解!」


分析。

中継。

学園。

王都。

全部が同時に動いている。


でも今は、その全部を一度に掴もうとしない方がいい。

やるべき順番を守ること。

それが、今いちばん大事なことだと、もう全員が分かり始めていた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・湾岸方面/対策本部車両の外・未明】


外気は冷たかった。


規制線の赤い光が、湿った路面に細く反射している。

遠くのサイレン。

近くの無線。

人の声。

どれも、いつもの現場の音に聞こえる。


だが木崎は、一歩外へ出たところで足を止めた。


鉄の匂い。

その奥に、湿った赤錆みたいな、古い工場のような匂いが混じっている。


視線を落とす。


対策本部車両の横に置かれていた可搬式ラック。

その脚のボルトの一つが、うっすら赤茶けている。

さっき見た時には、なかった色だ。


しゃがみ込んで指先を近づける。

触れる前に、表面がぽろりと崩れた。


「……早すぎる」


ただの劣化じゃない。

夜露でも、海風でも、ここまではならない。


木崎はゆっくりと顔を上げた。


規制線の向こうでは、数人の警官がそれぞれの持ち場を動いている。

制帽。

制服。

反射ベスト。

誰もが、遠目には普通だ。


だが、どこかおかしい。


一人ではない。

複数の警官の動きの中に、妙に静かな“何か”が混じっている気がする。


普通の警官なら、無線に触る。

周囲を見る。

同僚に声をかける。

疲れていても、人間らしい迷いや癖がある。


けれど今、規制線のあたりにいる誰かは違う。


立つ。

少し動く。

止まる。

また位置を変える。

その動きが静かすぎる。

人のふりをしているのに、人の“間”がない。


木崎は無言でカメラを構えた。


レンズ越しに警官たちを一人ずつ追う。

逆光。

制帽の影。

無線機。

肩章。

だが決め手はない。

誰が異物なのか、まだ断定できない。


その時だった。


規制線の足元のマンホールの縁が、じわりと赤茶ける。

ガードレールの継ぎ目。

仮設バリケードの金具。

照明スタンドの根元。

次々と、赤錆が静かに広がる。


音もなく。

目立ちすぎず。

それでも確実に。


木崎の喉が冷える。


――いる。


まだ顔は分からない。

どの警官かも分からない。

だが、何かが紛れていて、こちらへ近づいている。


「城ヶ峰!」

木崎が振り返って怒鳴る。

「いるぞ! 警官の中に紛れてる!」


城ヶ峰と隊員が車両から出る。

日下部も端末を抱えたまま扉のところまで顔を出した。


「見えたのか」

城ヶ峰が聞く。


「顔はまだ切れない」

木崎が短く答える。

「だが、周りの金属がやられてる。

近づいてきてる」


その直後、仮設ラックの片脚が、ぼきりと折れた。


上に載っていた機材ケースが傾き、隊員が咄嗟に受ける。

だが受けた金属バーも、手の中でざらりと崩れ始める。


「っ……!」


隊員が思わず取り落とす。

バーの断面は、切れたのではなく、古い鉄みたいにぼろぼろになっていた。


日下部が息を呑む。

「速い……!」


木崎は規制線の向こうから目を離さない。


まだ分からない。

だが、規制線の中に紛れて、

騒がず、走らず、

それでもこちらへ“じわじわ近づいてくる何か”がいる。


それが、いちばん気味が悪かった。


城ヶ峰が即座に命じる。

「車両をここに止めるな!」

「金属台車は捨てろ! 樹脂ケース優先!」

「日下部、中枢ログを持て!」


「はい!」


木崎は低く言った。

「顔はまだ分からん。

だが、もう届く距離に来てる」



【現実世界・湾岸方面/移動準備に入った対策班】


対策本部車両は、すぐに移動準備へ入った。


金属設備の多い場所に長く留まれない。

このままでは、車両の固定具も、機材の脚も、出入口の金属部品も先に持たなくなる。


日下部は中枢ログのケースを抱え、端末を開いたまま言う。

「読みながら動きます」

「止まったら、その分だけ向こうに時間を渡す」


佐伯と村瀬が、その左右につく。

木崎は後方の窓から外を見ていた。


規制線の灯りの向こうで、警官たちが動いている。

誰も慌てていない。

誰も不自然に見えない。

だからこそ不気味だった。


さっきまで向こう側にいた警官が、少し位置を変えている。

別の警官がこちらを横切る。

見張りの交代にも見える。

ただの移動にも見える。


だが、そのどれかの中に“いる”。


誰なのかは、まだ切れない。

それでも、距離だけは確実に縮まっている気がした。


そして、その縮まり方が人間らしくない。


急がない。

走らない。

目立たない。

それなのに、気づくと少し近い。


木崎は低く言った。

「……追ってきてる」


城ヶ峰が短く返す。

「見えるか」


「まだだ」

木崎は答える。

「だが、見えないまま近づいてくる」

「それが一番まずい」


車両のステップの金具が、いつの間にか鈍く赤茶けていた。

後方の簡易手すりも、表面がざらついている。

機材ケースを固定していた留め具の一つが、また小さく崩れた。


日下部が画面から目を離さずに言う。

「つまり、相手はもう近くにいるってことですよね」


「たぶんな」

木崎が答える。

「近くにいて、まだ顔を見せてない」


その言葉で、車両の中の空気が一段重くなる。


敵がはっきり見えているなら、対処はできる。

だが今は違う。

警官の群れの中に紛れたまま、こちらの設備と導線だけを静かに腐らせてくる。


どこにいるか分からない。

でも、確実に迫っている。


城ヶ峰が短く命じた。

「動くぞ」

「見えないなら、見えない前提で距離を取る」


木崎は窓の外を見たまま、小さく言う。

「……来てるな」

「じわじわ、こっちに」


現実側では、まだ敵の顔は見えない。

だが、正体不明の何かが警官たちの中に紛れたまま、

確実に木崎たちへ近づいてきている。

その事実だけで、十分に怖かった。


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