第百四十七話 塔の顔
第147話 塔の顔
【現実世界・湾岸再開発区/オルタリンクタワー前・夜】
雨は細くなっていた。
だが、地面はまだ黒く濡れていて、
タワーのガラス壁に街の灯りを歪めて映している。
オルタリンクタワーは、遠くから見ればただの高層複合ビルだった。
いや、ただの、ではない。
湾岸再開発の象徴として売り出された、
未来的で、きれいで、少しだけ鼻につく新しいランドマーク。
その程度の認識なら、首都圏の人間なら誰でも持っている。
低層階はまだ明るい。
ガラス越しに、カフェの照明。
書店の棚。
企業ショールームの大型モニター。
避難が始まっている今でも、完全に閉じてはいない。
閉じれば街の流れが乱れる。
だから、ぎりぎりの形で“日常の顔”だけは残している。
木崎は、少し離れた歩道の端からそのタワーを見上げた。
濡れたフードの縁から、水滴が一つ落ちる。
「……やっぱ、嫌なビルだな」
低層の明るさが、余計にそう見せる。
普通の客が来る。
店員がいる。
警備員が立っている。
その上に、オフィス階。
さらに高層には、クロスゲート・テクノロジーズ本社。
広報、営業、企画、アプリ運営、役員区画。
表向きの“企業の顔”が積み重なった、その下に、地下観測制御層がある。
日常の顔の真下に、世界を書き換える設備がある。
それが、カシウスらしい。
イヤホン越しに、城ヶ峰の声が入る。
『見えるか』
「見えてる」
木崎は短く返した。
「低層はまだ営業灯つけてる。完全封鎖にはしてない」
『一般客は』
「まばらだがいる。あと、社員らしい連中もまだ出入りしてる」
木崎はレンズを覗く。
正面エントランス。
商業フロアの自動ドア。
左手のオフィス用ゲート。
そのさらに奥、関係者専用エレベーター。
受付には本当に普通の顔がある。
疲れた警備員。
残業帰りみたいなスーツの男。
クロスゲート社員証を下げた女。
そして、その中に混ざる、妙に立ち位置の正しい若い警官。
木崎はすぐにシャッターを切った。
だが、今日はそれだけではなかった。
タワーの正面広場。
綺麗に敷かれた石畳。
抽象的な金属オブジェ。
植栽の縁取り。
雨に濡れた床面に、普通ならただの意匠として流してしまう模様がある。
レンズ越しに見ると、その石畳の継ぎ目の一部へ、
ほんのわずかに青白いノイズが走った。
「……なんだ、これ」
木崎はズームを寄せる。
石畳の模様は一見すると、再開発地区によくある幾何学デザインだ。
だが、線の曲がり方が妙だ。
円弧が不自然に正確すぎる。
オブジェの配置も、ベンチや植え込みの位置まで含めて、
何かを囲っているように見える。
さらに別角度から撮る。
雨に濡れた石畳の表面、街灯の反射、その奥の継ぎ目。
そこに、ごく薄く――魔術紋のような線が見えた。
人の目では、まず気づかない。
だが、レンズを通すと、
タワーの外周を囲むように“仕込まれた円”の輪郭が浮く。
「……外周ごと、術式か」
イヤホンの向こうで、城ヶ峰が低く聞き返す。
『何が見えた』
「タワーの敷地だ」
木崎は視線を切らずに答える。
「石畳とオブジェの配置が、ただのデザインじゃない。
外周を囲む円陣が仕込まれてる。
普段は景観にしか見えないが、レンズ越しだとノイズが走る」
一拍、無線の向こうで沈黙。
その重さが、すぐに理解へ変わる。
『……建物の中だけじゃないってことか』
「そういうことだ」
木崎は低く言った。
「タワーそのものじゃなく、敷地ごと中枢を守る殻にしてる」
それが嫌だった。
ビルの地下だけではない。
外から見える“綺麗な再開発の顔”そのものが、もう術式に組み込まれている。
『写真は送れるか』
「もう送ってる」
データ転送の表示を確認しながら、木崎はもう一度タワーを見上げた。
低層の明るさ。
普通の客。
普通の社員。
普通の警備。
そして、その足元に仕込まれた巨大な円。
ただのビルではない。
最初から、街の中に置かれた“囲い”だった。
木崎はタワーの上を見上げる。
高層階の灯りはまばらだ。
だが、消えてはいない。
クロスゲート本社の社員たちが、まだ中にいる可能性は高い。
全員がカシウス側ではない。
むしろ大半は、普通に働いていただけの人間かもしれない。
その普通の人間を盾にしているのか。
それとも、本当に上の方までまだ“日常”を保っているのか。
そこが嫌だった。
『外から見た印象は』
木崎はすぐ答える。
「下は街のビル。上は会社。本部も本当にある。……だが、地下は別だ」
一拍。
「顔が多すぎる」
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー周辺/車内】
対策本部車両の中で、日下部は断面図を開いていた。
その横で、佐伯蓮と村瀬七海が、それぞれ別の資料を見ている。
城ヶ峰が呼んだ時、二人は迷わなかったわけではない。
だが、迷ってもここへ来た。
自分たちが見た白い施設の記憶が、今ここで一番役立つからだ。
日下部が画面を指す。
「ここが低層の一般利用区画。商業フロア」
「ここが中層オフィス。一般テナントとクロスゲートの表向き部署」
「高層がクロスゲート本社。役員区画とセキュリティ階」
さらに指が下りる。
「で、問題はここから下です」
画面の地下深層。
円形に広がる白い区画。
観測制御層。
複数の基盤塔。
中継線。
それぞれを束ねる中心。
村瀬が画面を見ながら、ぽつりと言う。
「上の普通さと、下の白さが繋がらない」
「だから気づきにくいんですね」
佐伯も頷いた。
「社員も本当にいる。店員もいる。客もいる」
「でも、その下は“人がいる施設”じゃなくて“処理する施設”なんだ」
城ヶ峰が、静かに息を吐いた。
「だから外から崩さない。上を巻き込めば終わる」
日下部が別窓を開く。
内部配線図に、もう一本の対応線が重なった。
異世界側のオルタ・スパイア。
「座標対応は、ほぼここです」
「オルタリンクタワー地下観測制御層の中心と、
オルタ・スパイア最深部――観測核の間」
城ヶ峰が短く言う。
「向こうへ送れ。もっと具体的に」
日下部が頷く。
サキのスマホへ送るため、言葉を削る。
――《オルタリンクタワー 低層商業 中層オフィス 高層本社》
――《地下最深部 観測制御層》
――《人も社員も残存可能性》
――《中枢は地下》
送信。
《LINK / STABLE》
の表示が、今度は一拍も揺れなかった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・夜】
体育館の中は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
毛布にくるまる生徒。
疲れきって座り込む先生。
名前を呼んで人数を再確認する声。
不安は消えない。
だが、悲鳴だけの場所ではなくなっている。
その中央で、レアはまだ結界の中にいた。
膝をつき、全身を走る数列を不快そうに見ている。
片方の黒い目の端から、薄い影がにじむ。
完全には止まっていない。
だが、飛び出せる状態でもない。
ダミエが低く言った。
「……保つ」
その声に、さっきより確かな重みがあった。
サキのスマホが震える。
届いた現実側の情報が表示される。
《オルタリンクタワー 低層商業 中層オフィス 高層本社》
《地下最深部 観測制御層》
《人も社員も残存可能性》
《中枢は地下》
ハレルが画面を読み、少しだけ眉を寄せる。
「普通のビル、なんだな」
「しかも、働いてる人もまだいる」
サキが言う。
「……嫌だね」
リオは結界の向こうのレアを見たまま、低く言った。
「嫌だけど、だからこそ厄介だ」
「ただの敵のアジトじゃない」
ノノの声がイヤーカフ越しに返る。
『うん。クロスゲート本社もちゃんと入ってる。
広報、営業、企画、アプリ運営、役員区画。
表向きの会社として、本当に機能してた場所』
ハレルは主鍵を握る。
会社。
店。
人。
そういうものの上に、観測制御層がある。
「……カシウスは、こういう場所を使うんだな」
「秩序の顔」
ダミエが短く言った。
「……守る顔の下に、傷を置く」
その表現が、妙に腑に落ちた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/北区・オルタ・スパイア遠景・夜】
雨に濡れた王都の中央で、オルタ・スパイアは細く高く立っていた。
夜の中でも分かる尖塔。
頂部は雲に滲み、下部は王都の灯りに浮かぶ。
住民たちにとっては、昔からそこにある塔だ。
星を読み、結界を整え、王都の記録を守る塔。
イデールが街路の向こうにその姿を見て、小さく目を細めた。
「……あそこまで行くのねえ」
ノノの声が通信に乗る。
『表向きは観測塔。
星位観測、結界補正、記録保管。
王都の術師や結界班、それに一部の警備局しか内部を全部知らない』
『でも最深部は違う。
石造りの観測核の間。
王都の大結界や転移座標の基準点に関わってる』
イデールの隣で、術師の一人が小さく呟く。
「王都を守る塔、のはずなのに」
「守る塔だからこそよお」
イデールが答える。
「守りの中心は、奪われたら一番困るもの」
雨の筋の向こうに立つ尖塔は、ただの建物ではなかった。
王都の骨に近い。
その最下層に行くということは、王都の中枢へ降りるということでもある。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・夜】
ノノは、今度はもっと具体的に説明した。
『オルタ・スパイアの上層は、観測塔として普通に使われてる。
星を読む部屋、記録保管庫、結界制御室。
王都にとっては“守りの塔”』
『でも最深部は、観測核の間。
巨大な石室で、古い魔術紋と座標環がある。
そこがオルタリンクタワー地下観測制御層と重なってる可能性が高い』
サキがその説明を聞いて、小さく息を吐く。
「向こうはビルで、こっちは塔か」
「見た目は違う」
ハレルが言う。
「でも、一番深いところはたぶん同じだ」
リオも頷く。
「上に“普通の顔”があって、下に中枢がある。
……向こうもこっちも、同じ作りだな」
ダミエは結界を維持したまま、低く言う。
「……塔は王都の守り」
「だから、簡単には入れない」
その言葉に、教頭が少しだけ顔を上げた。
今まで黙って聞いていたが、ようやく口を開く。
「雲賀くん」
「その塔へ行くのは、君たちだけか」
ハレルはすぐには答えなかった。
体育館。
駅。
イルダ。
全部がまだ危うい。
だから、全員で突っ込めるわけではない。
リオが先に言った。
「全員じゃない。
でも、行くべき人間は行く」
その言葉に、教頭は頷いた。
納得したわけではない。
だが、今はそれしかないと分かる顔だった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・オルタリンクタワー前・夜】
木崎はレンズ越しに、タワーの入口を見続けていた。
低層階の灯り。
残っている客。
慌ただしく動く社員。
制服の警備員。
そして、ときどき規制線の位置を直す若い警官。
肉眼では、本当にただのビルだ。
だがレンズ越しだと、その輪郭の端々に青白いノイズが残る。
この建物だけ、街の中で別の位相に半歩ずれているみたいに見える。
「……こっちはタワー」
木崎が呟く。
「向こうは塔」
イヤホンの向こうで、城ヶ峰が低く返す。
『見た目が違うだけで、中枢は同じということだろう』
木崎は短く笑った。
「最悪だな」
だが、その最悪さこそ本命の証拠だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・夜】
結界の中で、レアがまた笑った。
掠れた声。
でも、その内容だけは妙にはっきりしている。
「……あそこに行くんだ」
「じゃあ、今より“混ざったもの”を見る」
ハレルはその言葉を、今は受け流した。
脅しなのか、見たものを言っているのか、まだ分からない。
でも、もう行く場所は決まっている。
オルタリンクタワー地下観測制御層。
オルタ・スパイア最深部、観測核の間。
普通の顔の下にある中枢。
守りの塔の底にある傷口。
サキのスマホには、回線がまだ安定して残っている。
《LINK / STABLE》
細い。
でも、切れない。
ハレルは主鍵を握った。
次は、あの塔へ向かう。




