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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第九章 基盤侵蝕編

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第百三十二話 光の防壁

第132話 光の防壁


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/西区・朝】


朝の市場通りは、開かない店が増えていた。


いつもなら果物や焼き菓子の匂いが混ざる時間だ。

だが今日は違う。

閉じられた木戸。半分だけ開いた窓。

道の端で怯えた顔をしている人々。

静かすぎる街の空気が、かえって不安を煽っていた。


その通りを、イデール=エピがゆっくり歩く。

後ろに治療班。

さらに少し離れて、結界杭を運ぶ補助兵たち。


イデールは相変わらずのんびりした足取りだった。

けれど目だけは眠そうではない。

通りの影、屋根の下、路地の折れ目――暗い場所を順に見ている。


「ここ、少し暗いわねえ」

ゆっくりした口調で言って、足を止めた。


通りの角。

朝日が届かない、荷車の陰。

そこから、ぴょん、と小さな黒いものが飛び出した。


猫の形。

だが毛並みではなく、煤の塊。

尻尾の先に青白い文字列がちらついている。


住民の女が悲鳴を上げる。

「ひっ……!」


猫影は地を蹴り、今度は屋根の下の別の影へ潜る。

一匹ではない。

二匹、三匹。

市場の影と影を繋ぐように、黒いものが跳ねていく。


イデールは小さく息を吸い、両手を前へ出した。

「〈光癒・第三級〉――『やさしい灯を、通りいっぱいに』」


白い光が、霧みたいに広がった。


強い閃光ではない。

目を焼く光ではない。

けれど、通り全体を“明るい場所”に変える種類の光だった。


猫影たちが、一斉に縮む。

跳ねる勢いを失い、屋根の陰へ引き返そうとする。

だが、引き返した先にも、治療班の術師たちが光を灯していた。


「〈光癒・第二級〉――『灯れ、祓いの光』!」

「右の路地、明るく!」

「屋根の下、消さないで!」


イデールの班は戦っているというより、

街そのものに“朝”を塗り直しているようだった。


住民たちは、その光景を息を呑んで見ていた。

剣を振るうより分かりやすい。

黒いものが、光を嫌がって縮む。

それだけで「逃げ方」が見える。


だが、通りの奥で、別の悲鳴が上がる。


「兵士が……!」


イデールが顔を向ける。

白い外套を着た兵士が一人、壁にもたれていた。

立っている。

だが様子がおかしい。


目が真っ黒だった。


「離れてえ」

イデールがいつもより少しだけ強い声を出す。

住民たちが散る。

兵士は、苦しそうに息をしながら、それでも剣を抜こうとしていた。


「……戻れ」

近くの守備兵が叫ぶ。

「お前、何を――」


黒い目の兵士が、低く笑った。

「警備は、予定どおり進める」


次の瞬間、剣を横薙ぎに振るう。


守備兵が飛び退く。

壁が浅く裂ける。

煤の熱が石を焦がした。


イデールの顔から笑みが消えた。

「……だめねえ、それ」


両手を重ねる。

今度の光は、さっきより細く、鋭い。


「〈光癒・第四級〉――『ほどいて、返して』」


槍のような白い光が、黒眼の兵士の胸元へ真っ直ぐ飛ぶ。

命を裂く光ではない。

中に絡みついたものを“ほどく”ための光。


兵士の体が大きく仰け反る。

真っ黒な目の縁に、一瞬だけ人間の色が戻りかける。

その隙に、後ろの術師二人が光の帯を重ねた。


「〈縛光・第二級〉――『留まれ』!」

「〈光癒・第二級〉――『灯れ』!」


黒い兵士は膝をつき、剣を落とした。

完全には戻らない。

だが、暴れる勢いは削れる。


イデールは息を整えながら、近くの班員へ言う。

「縛って。暗いところに置いちゃだめ」

「朝日の入る部屋へ」


のんびりした声なのに、指示は正確だった。

治療班が動く。

住民たちも、初めて“逃げる以外の行動”を見て、少しずつ息を戻し始める。


けれど、通りの先では、まだ暗い路地がある。

まだ猫影がいる。

そして今の兵士が、一人目とは限らない。


イデールは白い光の名残を指先に残したまま、低く言った。

「……全然、足りないわねえ」


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館・午前】


体育館では、子どもたちが少しずつ声を取り戻し始めていた。

泣いている子はまだいる。

でも、ただ泣くだけではなく、先生に聞く子が増えている。


「トイレは?」

「水、もう一本ありますか」

「窓際にいていい?」


質問が出るのは、まだ“日常”を捨てていない証拠だった。


ハレルは、その空気に少しだけ救われながらも、胸の奥の重さは消えない。

サキのスマホを覗く。

地図の点は、駅だけではなく、輪の縁にまだいくつも散っていた。


サキが小声で言う。

「……これ、さっきより増えてる気がする」

「増えてる」

ハレルは短く答えた。

言った瞬間、胃がきしむ。


教頭が近づいてくる。

目の下に疲れが溜まっている。

けれど声は崩れていない。


「駅の人たち……どうなってる」

ハレルは一瞬だけ迷い、それでも言った。

「持ちこたえてます。アデルさんたちが入って、光の当たる場所へ人を集めてる」

「でも、危ないのは変わってないです」


教頭は頷いた。

そして、少しだけ声を落とす。

「もし他にも人がいるなら……ここだけ助かっても駄目なんだな」


ハレルは返事をしなかった。

できなかった。


その代わり、ノノの声がイヤーカフ越しに入る。


『学園、聞こえる?』

『イルダ西区、イデール先輩が押し返してる。光癒、やっぱり効く』

『でも、兵士の定着が出た。紋章の件、もう“噂”じゃない』


ハレルの喉が乾く。

「兵士も……」

『うん。人の形のまま、中身が別になり始めてる』

ノノの声は速い。けれど少しだけ低い。

『だから、もう“影を避ける”だけじゃ足りない』


その一言が、体育館の空気を変える。

先生たちも、意味は分からなくても重さだけは感じた顔をした。


ダミエがフードの奥で目を細め、短く言った。

「……穴、もう一度見る」

床の縫い目に視線を落とす。

今は静かだ。

だが、静かなものほど怖い。


ハレルは体育館の窓越しに外を見る。

朝の光はまだある。

けれど雲も出始めていた。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した駅周辺/ホーム・午前】


駅では、人の位置が少しずつ整理され始めていた。


駅員が声を張る。

「ガラス屋根の下、前へ詰めてください!」

「ホーム端には寄らないで!」


リオはホームの中央に立ち、黒眼のサラリーマンから目を離さない。

ヴェルニは外の森の方を見ている。

同行の術師は、光癒の詠唱をいつでも重ねられるよう、息を整えていた。


黒眼のサラリーマンは、朝日の帯の中で微笑んでいる。

普通の会社員の姿なのに、目だけが空洞みたいに黒い。


「本日の運行は――」

言葉が途中で切れる。

治療光が当たる。

煤の輪郭が縮む。

だが、消えない。


駅員の一人が掠れた声を漏らす。

「……人、ですよね……?」

誰も即答しない。


その時、停車したままの車両の奥でガラスが割れた。

人々が一斉にそちらを見る。


窓の内側。

制服姿の男子学生が立っていた。

顔がよく見えない。

いや、見えているのに、目だけが真っ黒で、脳が“見ない”ようにしている。


学生は静かに言った。

「遅刻します」

次の瞬間、非常用ハンマーを持ち上げ、車内の座席へ叩きつける。


「やめろ!」

リオが叫ぶ。

車掌が飛び出しかけるのを、ヴェルニが腕で止めた。


「行くな。今行ったら巻き込まれる」

ヴェルニの声は低い。

軽口が消えると、余計に重い。


車内の学生は、ハンマーをまた振り上げる。

「遅刻します」

「遅刻します」

同じ言葉を繰り返しながら、どんどん力が強くなる。


同行の術師が詠唱する。

「〈光癒・第二級〉――『灯れ、祓いの光』!」


光が車窓越しに当たる。

学生の影がぶれる。

だが、その向こう――車両の奥にも、別の黒い輪郭が動いた。


リオの背中が冷える。

一体じゃない。


外壁がまた震える。

森の縁の巨大影が、位置を変えたのだ。

狼とも熊ともつかない四足の塊。

さらに、その奥で、馬や牛に近い影まで揺れている。


ヴェルニが吐き捨てる。

「駅ってのは、こんなに守りにくかったかよ」


アデルの声が通信で入る。

『無理に車両へ踏み込むな。外から光を通して、人を出せる場所だけ開ける』

『中を全部制圧しようとするな。崩れない線を作る』


リオは短く答えた。

「了解」

その“了解”の重さは、前よりずっと増していた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・湾岸東区/旧技術検証棟・地下前】


金属扉の前に、城ヶ峰たちは立っていた。


湾岸の空気は湿っている。

だがこの建物の前だけ、乾いた白い粉の匂いが強い。

日下部が嫌そうに眉を寄せる。

「……近い」


旧技術検証棟は、外から見ればただの古い研究施設だ。

看板も剥がれ、使用停止の札も残っている。

だが、電源の熱だけが消えていない。


佐伯と村瀬の記憶。

潮の匂い。

白い床。

二重扉。


全部が、ここに繋がっている。


城ヶ峰は短く命じた。

「入る」

「撮る、記録する、触らない。順番を間違えるな」


隊員たちが頷く。

日下部はノートパソコンを抱え直した。


その時、木崎から画像がまた届く。

一般人の静止画。ドラレコ。

同じ若い警官が、短時間で複数地点に写っている。

位置が正確すぎる。

流れを知りすぎている。


城ヶ峰は画像を見て、端末を閉じた。

「……秩序の導線を歩いてる」

言葉にすると、余計に気味が悪い。


地下へ続く扉を開く。

白い冷気が、細い隙間から漏れた。

病院の白ではない。

“匂いのない白”に見せかけた、機械と塩の混ざった匂い。


日下部が小さく息を呑む。

「……ここだ」


地下へ降りる階段の下は、音が違った。

低い機械音。

ずっと鳴っている何か。

生き物の呼吸ではなく、稼働中の施設の呼吸。


城ヶ峰は一段ずつ降りながら、短く言った。

「この先で、輪の杭を一つ抜く」

「そのために来た」


誰も返事をしない。

返事をしている余裕がない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/西区・午前】


イデールの光は、街のあちこちに残っていた。

市場通り、細い路地、屋根の下。

大きな結界ではない。

でも、住民が“どこへ逃げればいいか”を見失わない程度には明るい。


治療班の術師たちが、疲れた顔で光を繋いでいる。

イデールはその中央で、ゆっくりと歩き続けていた。


「だいじょうぶ、焦らないでえ」

のんびりした声。

けれど、足は止まらない。


通りの端で、黒眼の兵士が縛られていた。

暴れはしない。

だが、時々、普通の声で言う。


「警備は、予定どおり進めます」

「たすけて」

「進めます」


その声に、住民の顔がまた青くなる。


イデールは兵士の前にしゃがみ、少しだけ眉を下げた。

「まだ、中に残ってるのねえ」


返事はない。

だが、完全に空っぽでもない。

そこが一番つらい。


治療班の一人が駆けてくる。

「北通りにも、もう一体!」

イデールは立ち上がる。

柔らかい声のまま言う。


「行きましょう」

「街を暗くしちゃだめ」


その言い方が、今のイルダでは一番正しかった。


◆ ◆ ◆


【現実世界・都内/路上】


木崎は、送られてくる記録と自分の足を止めなかった。


一般人の動画。

ドラレコ。

店の防犯カメラ。

報道用の写真。

それらを繋ぐと、少しずつ“若い警官”の位置が浮かび上がる。


駅前。

商業ビル脇。

バス乗り場。

避難所前。

どれも、人の流れの中心。


「……誘導してる」


木崎は低く呟く。

人を助ける顔で、人を動かしている。

その先に、何があるのかはまだ見えない。

でも、偶然ではない。


スマホが震えた。

城ヶ峰から短い連絡。


――《旧技術検証棟へ入る。動きがあれば流せ》


木崎はすぐ返信した。

《了解。こっちは“記録の地図”を作る》


その時、交差点の向こうで、

信号待ちの車列の間から、巨大な黒い影がぬっと首を出した。

馬とも牛とも言い切れない。

四足の影。

輪郭の端に青白い文字列がちらついている。


人々がまた悲鳴を上げる。

木崎は走りながらシャッターを切った。


世界は、まだ広がっている。

止まっていない。


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