第百三十話 定着体
第九章 基盤侵蝕編
第130話 定着体
◆ ◆ ◆
【現実世界・都内/交差点】
朝の光はある。
信号もある。
横断歩道も、コンビニも、バス停もある。
なのに、人だけが“いつもの朝”じゃなかった。
交差点の真ん中で、スーツ姿の男が立ち止まっている。
年は三十代くらい。
片手にビジネスバッグ。もう片方の手は、だらりと下がっている。
「大丈夫ですか?」
通勤途中らしい女性が、恐る恐る声をかけた。
男が、ゆっくり振り向く。
目が、真っ黒だった。
白目がない。
表情はある。口元も動く。
でも“中”だけが、人間じゃない。
男は、ひどく丁寧な声で言った。
「ご心配ありがとうございます」
次の瞬間、バッグの中から金属のペーパーナイフを抜き、
女性へ真っ直ぐ振り下ろした。
悲鳴が裂ける。
女性は反射で身を引き、刃は肩口をかすめた。
男は笑っていない。怒ってもいない。
ただ、会社の会議で資料をめくるみたいな手つきで、二撃目を入れようとする。
「やめろ!」
警官が飛び込む。
さすまたが男の胴を押さえる。
別の警官がテイザー銃を構え、震える声で叫ぶ。
「動くな! そのまま――」
男は、黒い目のまま穏やかに言った。
「本日の業務は、予定どおり進行します」
放電。
男の身体が跳ねる。
だが、倒れない。
普通の人間なら膝から崩れるはずの電流を受けて、
男はただ一歩だけよろめき、すぐに立て直した。
そして、今度は警官の喉元を狙って突っ込む。
「っ、抑えろ!」
人々が逃げる。
転ぶ。
誰かが泣く。
信号機の青だけが、いつも通りの顔で点っていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・都内/立体駐車場屋上】
風が強い。
手すりの向こうに、街がある。
ビルも道路も見える。
遠くでサイレンが鳴り続けている。
若い女が、屋上の縁に立っていた。
OL風の服装。ヒール。乱れた髪。
足先が、もう半分外に出ている。
「危ない! そこから下がって!」
警官が叫ぶ。
女性相談員らしい職員が、ゆっくり手を前へ出す。
「大丈夫です。話を聞かせてください」
女が振り向く。
目が黒い。
頬には、涙の跡だけが人間らしく残っていた。
「今日、寒くないですか」
女は普通に言う。
次の瞬間、声が裏返る。
「たすけて」
また戻る。
「終業時刻が守れません」
「たすけて」
「私、落ちますね」
足が、前に出る。
「確保――!」
警官が飛び込む。
女の腕を掴む。
細い腕なのに、引く力が強すぎる。
まるで“落ちることだけ”に全身が作り替えられているみたいに。
別の職員も加わり、三人がかりで引き戻す。
女は暴れない。叫ばない。
ただ、事務的な口調で言い続ける。
「危険です」
「転落します」
「たすけて」
「危険です」
その声が、屋上の朝を冷やしていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・郊外/住宅地の路地】
路地の奥で、エンジン音が唸った。
軽ワゴンが、バックも切り返しもせず、真正面から民家の塀へ突っ込む。
コンクリートが砕け、植木鉢が跳ねる。
中から男が出てくる。
笑ってはいない。
怒鳴ってもいない。
黒い目のまま、男は車のボンネットを何度も拳で叩いた。
「修正します」
「修正します」
「修正します」
言葉は同じ。
叩く力だけが、どんどん強くなる。
近所の住民が窓越しに見て、カーテンを閉める。
子どもが泣く。
通報の音声だけが、冷静に状況を確認している。
◆ ◆ ◆
【現実世界・臨時指揮車両/車内】
城ヶ峰の前で、無線が途切れなかった。
「都内交差点、黒眼個体一名、刃物所持」
「郊外住宅地、車両突入、破壊衝動型」
「立体駐車場、自殺企図型、確保中」
「通常の確保手順、効果不十分」
報告の質が変わっていた。
“取り憑き疑い”ではない。
“人が壊れた”とも少し違う。
日下部がノートパソコンの画面を睨んだまま、掠れた声で言う。
「……もう“擬態”じゃない」
「中に入って、固定され始めてる」
城ヶ峰が短く聞く。
「定着か」
日下部は唇を噛んで頷く。
「多分。影が人の体を“使ってる”段階を超えてる」
「人格の上に被ってるんじゃなくて、奥へ沈んでる」
その言葉は重かった。
つまり、時間が経つほど“元に戻らない”可能性が高い。
城ヶ峰はすぐに無線へ流す。
「以後、黒眼個体を“定着体”として扱え」
「通常拘束より、まず周囲の避難を優先」
「刃物、車両、高所、自傷行動に注意しろ」
「撃つな。巻き込むな。止めるなら複数で行け」
車内の空気がさらに張る。
その時、木崎から画像が届いた。
交差点。
駐車場。
住宅地。
どの写真にも、“黒い目の人間”が写っている。
木崎から短いメッセージ。
――《もう影じゃねえ。中身が入れ替わってる》
日下部が画面を見て、低く言った。
「……カシウスの狙い、そのままです」
「コアを抜いて、別のものを定着させる。人の形のまま、中身を作り替える」
城ヶ峰は目を閉じない。
閉じたら、現実が一歩早く進む気がした。
「木崎に回線を」
「それと佐伯と村瀬にも。……この段階で、あいつらの感覚が要る」
◆ ◆ ◆
【現実世界・都内/路上】
木崎は走っていた。
カメラを胸に抱え、規制線の外を縫うように。
一つの現場を撮って、次へ。
止まるたびに、別の場所から悲鳴が上がる。
目の黒い男が、交差点で警官に押さえ込まれている。
別の通りでは、若い女がビルの窓を素手で殴り続けている。
血が出ているのに、痛みの顔をしない。
「……ふざけんなよ」
吐き捨てても、何も変わらない。
それでも口から出る。
その時、木崎のスマホが震えた。
城ヶ峰からの短い通話。
『定着体、で統一する』
「……ああ」
『佐伯と村瀬にも状況を聞く。お前は撮れ』
「言われなくてもな」
通話が切れる。
木崎は次の角を曲がる。
そこで、足を止めた。
路地の先。
壁に背を預けるように、男が立っている。
匠だった。
前と同じように、突然いる。
前と同じように、長くはいない顔をしている。
木崎が息を吐く。
「……出るタイミングぐらい選べよ」
匠は少しだけ口元を上げた。
「選んでる。今が一番マシだ」
木崎はすぐに本題へ入る。
「定着体、始まったぞ」
「お前の予想どおりだ」
匠は頷く。
驚かない。
それが余計に腹立たしい。
「始まる」
「だから止める順番を間違えるな」
「順番?」
木崎が睨む。
「学園を先に戻しても、輪が回ってたらまた引きずられる」
匠は低く言った。
「クロスゲートの施設群。プログラム層。主鍵。副鍵。スマホ。
……全部が一つでも欠けたら、戻りは“裂ける”」
木崎の眉間が深く寄る。
「ハレルに会え」
「今のままじゃ、あいつ一人で抱えすぎる」
匠は短く首を振った。
「まだ無理だ。俺が固定される」
そして、木崎を真っ直ぐ見た。
「だが、お前は会える。だから記録しろ。現実側の“顔”を剥がせ」
「……またそれか」
木崎が吐き捨てると、匠は一歩だけ近づいた。
「見た目は嘘をつける」
「でも、残った記録は、たまに裏切らない」
その言葉の直後、遠くで重い地響きがした。
獣の足音とも違う。
機械の崩れる音とも違う。
木崎が振り向いた一瞬のうちに、匠の輪郭が揺れる。
薄くなっていく。
「おい、待――」
「ハレルに伝えろ」
匠は最後に、それだけ言った。
「戻る方法はある。だが、急ぐな。……折れるな」
次の瞬間には、路地の影しか残っていなかった。
木崎は歯を食いしばり、すぐスマホを取る。
走りながら、城ヶ峰へ回線を飛ばす。
「匠に会った」
『……内容は』
「定着体は予想どおり。戻るには順番がある。
輪、プログラム層、主鍵、副鍵、スマホ……全部いる」
一拍置いて、木崎は付け足した。
「あと、“現実側の顔を剥がせ”だ」
通話の向こうで、城ヶ峰が短く息を吐く。
意味が繋がり始めている沈黙だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館裏・渡り廊下】
ハレルは、朝から何度目かの胃痛を堪えていた。
ノノから飛んできた“定着”の言葉。
木崎経由で断片的に届く、現実の壊れ方。
どれも、カシウスの狙いそのままだ。
死んだ者を蘇らせる。
中身を抜く。
別の体に定着させる。
一人の体に複数のものを入れる。
――始まってる。
主鍵を握る指に、力が入る。
サキのスマホの画面には、まだ低い残量表示。
体育館の穴は、ダミエの応急処置で一応は閉じている。
でも、“一度開いた事実”は消えない。
セラの声が、耳の奥に薄く触れた。
《……現実側で、段階が進みました》
「分かってる」
ハレルは低く返す。
「だから……父さんを見つけないと」
《ええ》
セラは否定しない。
《匠を見つけることは、戻ることと切り離せません》
ハレルは目を閉じた。
守るだけでは間に合わない。
戻る方法を知ること。
輪を止めること。
父を見つけること。
全部が同じ線に繋がっている。
「……分かった」
そう言うしかない。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した駅周辺/ホーム】
駅では、リオたちがまだ人を守っていた。
光の当たる場所へ人を寄せ、暗い柱の陰を空ける。
“普通の声で話す何か”を見張り続ける。
だが、状況は悪くなる。
さっきの黒眼のサラリーマンが、光に追い詰められながらも笑った。
「本日の運行は一部乱れております」
口調は駅のアナウンス。
でも声の奥に、別のものが混ざる。
治療光が当たる。
煤が縮む。
だが消えない。
その向こう、森の縁で巨大な影がまた動いた。
狼より大きい。
猪とも熊とも言い切れない。
さらに、その奥で馬や牛に近い影まで揺れている。
ヴェルニが、いつになく真面目な顔で言った。
「……増え方、悪いな」
リオは短く頷いた。
「人も獣も、同時に来る」
同行の術師が小さく息を吸う。
「全部は、止められません……」
通信越しにアデルの声が届く。
『駅班、外へ出るな。中を守れ』
『今は“助け切る”じゃない。“崩さない”が先』
リオはホームに集まる人々を見た。
学生、駅員、サラリーマン、車掌。
誰も戦う顔をしていない。
それが当たり前だ。
「……了解」
そう返すしかない。
敵側の気配は、まだない。
だが、近い。
そんな予感だけが、朝のホームにずっと残っていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・病棟/個室】
佐伯蓮は、病室の窓から外を見ていた。
村瀬七海が隣の椅子に座り、スマホのニュース速報を閉じる。
どちらも顔色は良くない。
でも、逃げない目をしている。
「定着体、って……」
村瀬が小さく言う。
「私たちが見た“白いところ”と、やっぱり繋がってるんだよね」
佐伯は短く頷く。
「……うん」
「だから、覚えてる場所、全部出そう」
二人の前には、紙とペン。
施設の間取り、白い廊下の曲がり方、匂い、光。
曖昧でもいい。
今はその曖昧さが、現実を繋ぐ。
病棟の外で、またサイレンが鳴る。
世界は壊れ始めている。
でも、まだ書き留められる。
まだ、思い出せる。
◆ ◆ ◆
朝は来た。
だが、朝になっただけだった。
黒い目の人間が増え、
巨大な影が森の縁を歩き、
秩序の顔をした異物が人を導く。
世界はまだ壊れきっていない。
だからこそ、壊し方を知っている者が有利だった。
そしてハレルたちは、ようやく気づく。
守るだけでは、もう足りない。




