第百二十八話 定着
第128話「定着」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した駅周辺/駅舎・朝】
駅の中は、人の気配で重かった。
改札前、ホーム、売店の前。
夜を越した人たちが、光の当たる場所へ少しずつ寄っている。
理由ははっきり分からない。
でも、朝日が落ちる場所のほうが“まし”だと、体が覚え始めていた。
そこへ、アデルたちが入った。
白い外套。剣。槍。
現実ではありえない格好の人間たちに、駅の空気がざわつく。
「誰……?」
「警察じゃない……」
「でも、助けに来たのか……?」
リオはマスクの奥で息を整えた。
視線を向けられるのは嫌だ。
でも、ここで立ち止まるわけにもいかない。
アデルが短く言う。
「落ち着いて。暗い場所に寄らないで。光のある場所へ集まって」
駅員が、半分理解できず、半分必死に復唱する。
「明るい場所へ! ホーム中央へ! 柱の陰に近づかないで!」
その時だった。
ホームの端にいたサラリーマン風の男が、ゆっくり立ち上がった。
夜のうちにも、少し様子がおかしかった男だ。
ぼんやりしていて、何度も同じことを言っていた。
だが今は違う。
目が、真っ黒だった。
白目がない。
顔色も、眠れていない人間のそれじゃない。
“中身”だけが、別のものになっている。
男は、駅のアナウンスみたいな口調で言った。
「本日の運行は一部乱れております」
次の瞬間、声が変わる。
「助けて」
そしてまた、落ち着いた社会人みたいな口調に戻る。
「線路内への立ち入りは大変危険です」
駅員の一人が青ざめて後ずさる。
男は、にこりと笑った。
「危険ですよ」
笑ったまま、近くにあった折りたたみ式の案内看板を掴み、駅員へ振り下ろした。
「下がれ!」
リオが叫ぶ。
駅員は間一髪で避けたが、看板が床にぶつかって大きな音を立てる。
悲鳴が一斉に上がった。
人の波が崩れ、子どもが泣き、誰かが転ぶ。
ヴェルニが舌打ちする。
「最悪だな。人間の見た目のまま暴れるのかよ」
リオが踏み込む。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
光の鎖が男の足元へ走る。
巻きつく。
確かに巻きついた。だが、手応えが軽い。
“人間の足”を縛っている感触と、“影”を縛っている感触が混ざっている。
男は首を傾ける。
「拘束は適正な手順を踏んでください」
「痛いのは嫌いです」
普通の言葉なのに、言っているものが普通じゃない。
その気持ち悪さに、人々の顔がさらに引きつる。
同行していた治療班の術師が、一歩前へ出た。
手が震えている。
でも、詠唱は通した。
「〈光癒・第二級〉――『灯れ、祓いの光』!」
やわらかな光が、男の胸元へ当たる。
黒い目が、一瞬だけ細くなった。
男の輪郭にまとわりついていた煤みたいな影が、じゅっと縮む。
“嫌がった”。
「……効く!」
駅員が息を呑む。
だが、完全には止まらない。
男は苦しそうに笑いながら、今度はホーム脇の消火器へ手を伸ばす。
アデルが短く言った。
「朝日の中へ押し出して」
ヴェルニが即座に風を作る。
「〈風圧・第二級〉――『押し返せ』!」
突風が男の身体を横から押した。
男はよろめき、ガラス屋根から落ちる朝日の帯の中へ一歩入る。
その瞬間。
黒い影の輪郭が、大きく縮んだ。
男の口が、初めてはっきり苦しそうに歪む。
「……眩しいの、嫌なんだよ」
その声は、もう“駅員っぽい”でも“サラリーマンっぽい”でもなかった。
何か別のものの本音だった。
リオは息を止める。
(これ、サロゲートに近い)
(完全に中が別だ)
ノノの声がイヤーカフから飛んだ。
『リオ、今の反応、浅い取り憑きじゃない』
『“定着”してる。人の体に、別のものが入り込んで固定され始めてる』
「定着……」
リオが低く繰り返す。
『うん。サロゲートほど完成してない。でも、方向は同じ』
『時間が経つほど戻しにくいと思う』
その言葉が、朝の駅をもっと冷たくする。
アデルがすぐに指示を出した。
「光の当たる場所を増やす。ガラスの遮蔽物をどけて」
「暗い売店、柱の陰、車両の端を空ける。人を集めるな」
駅員が必死に頷く。
もう理屈を考えている暇はない。
手順だけが命を繋ぐ。
その時、駅の外――森の方で、何か巨大なものが枝を折る音がした。
全員の顔が強張る。
窓の外、ホームの先の森の縁に、黒い塊が一瞬だけ見えた。
四足。
でも、狼とも猪とも熊とも言い切れない。
肩の高さが高すぎる。背中が歪で、影そのものが獣になりかけたような姿。
「……なんだ、あれ」
駅員の声が掠れる。
ヴェルニが目を細めた。
「でかいな。しかも、なんだか分からないのが一番嫌だ」
駅の朝は、助かったわけじゃない。
ただ、“もっと悪いもの”が見え始めただけだった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館裏・渡り廊下】
ハレルはノノからの報告を聞き、胃の奥がさらに重くなるのを感じていた。
“定着”。
人の体に、別のものが入り込み固定される。
それは、カシウスの狙いそのものだ。
死んだ者を蘇らせる。
魂を抜き取って、別の体へ入れる。
複数のコアを詰め込んで、普通の人間じゃない何かを作る。
(始まってる)
父の顔が浮かぶ。
突然現れて、すぐ消えたあの背中。
あの人なら、この“定着”のことも知っているはずだ。
(父さんを見つけないと)
(止め方も、戻り方も、その先にある)
セラの声が、かすかに耳の奥に触れた。
《……ハレル》
《カシウスは“混ぜる”だけじゃありません》
《定着を始めています》
「分かってる」
ハレルは低く言った。
「だから、もう止めないと終わる」
《ええ》
セラは静かに答える。
《だから、匠を見つけることも――“戻る”ことと同じくらい重要です》
ハレルは目を閉じた。
守るだけでは足りない。
戻る方法、父、プログラム層、輪の施設。
全部が同じ方向を向き始めている。
でも、同時に動かなければ間に合わない。
◆ ◆ ◆
【現実世界・都内/転移現場周辺・朝】
現実側でも、空気が変わっていた。
黒い影に取り憑かれた人間が、もう“助けて”と言うだけの段階じゃない。
中身が別のものになったように暴れ始めていた。
交差点では、黒い目の男が突然ハンドルを切り、無人の店舗へ車を突っ込ませた。
商店街では、女が無言でガラスを叩き割り続けている。
高架の上では、若い男が笑いながら柵に登り、「大丈夫ですよ」と言い続けていた。
警官たちはテイザー銃とさすまたで必死に止める。
だが止めても止めても、別の場所で起きる。
その異常の質が、一段変わっていた。
木崎は、規制線の外を走りながら、息を整えていた。
カメラを握る手が汗で滑る。
でも離さない。
その時、細い路地の奥から声がした。
「……相変わらず、遅いな」
木崎の足が止まる。
路地の影から、男が出てきた。
無精ではない。だが整いすぎてもいない。
疲れた顔をしているのに、目だけは異様に起きている。
ハレルの父――匠だった。
木崎が目を見開く。
「……お前、生きてたのかよ」
匠は鼻で笑う。
「勝手に殺すな」
その一言で、昔の空気が少しだけ戻る。
同業者だった頃の、軽口の呼吸。
だが今は、それを懐かしんでいる時間がない。
木崎がすぐに詰める。
「何が起きてる。学園は。カシウスは。お前は何してる」
匠は周囲を一度見てから、短く言った。
「“定着”が始まった」
「黒い影に長く触れた人間から、順に中身が書き換わる」
「まだ不完全だが、時間が経つほど戻しにくい」
木崎の顔が険しくなる。
「学園は戻せるのか」
「戻す」
匠は即答した。
「だが、学園だけ戻しても意味がない。輪を止めるのが先だ」
「輪?」
「クロスゲートの関係施設が縁になってる」
匠は木崎を真っ直ぐ見る。
「学園、プログラム層、俺――どれか一つじゃ足りない。全部いる」
木崎が息を呑む。
答えとしては最悪だ。
必要なものが多すぎる。
「じゃあお前は戻って説明しろよ」
木崎が吐き捨てるように言う。
「ハレルに会え。サキにも」
匠は首を振った。
「今は無理だ。俺の位置が固定される」
一拍置いて、低く付け足す。
「俺を追うな。カシウスを追え」
木崎の眉が寄る。
「どうやって」
匠は少しだけ笑った。
「人の目より、記録を見ろ」
「“見た目”より、撮れたものの方が正しい時がある」
その言葉が、木崎の頭に引っかかる。
だが問い返すより早く、路地の奥で何かが吠えた。
巨大な、獣とも機械ともつかない声。
地面がわずかに震える。
木崎が振り向いた瞬間、匠はもう半歩下がっていた。
光の境目に立っている。
こちら側にいるのに、もう“向こう側”へ片足をかけているみたいだ。
「おい、待て――」
木崎が言うより早く、匠は低く言った。
「ハレルに伝えろ。まだ終わってない。……だから、折れるな」
次の瞬間、匠の輪郭が薄く揺れ、路地の陰に消えた。
木崎が舌打ちし、すぐにスマホを掴む。
城ヶ峰へ。
木崎の声は短い。
「匠に会った」
「輪はクロスゲート施設群。定着が始まってる。……あと、“記録を見ろ”だ」
通話の向こうで城ヶ峰が一拍だけ黙る。
意味はまだ分からない。
だが、重要だと本能が言う沈黙だった。
路地の向こうでは、また黒い目の人間が誰かを追って走っている。
そして、その上の看板には、猫の形の黒い影がぴょんと飛び乗った。
現実が、怪異を覚え始めていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した駅周辺/ホーム】
光の中へ寄せられた人々の向こうで、
黒い目のサラリーマンが、まだ笑っていた。
「本日の運行は……」
その言葉の途中で、光癒の術がもう一度当たる。
煤が縮む。
だが完全には消えない。
リオはその黒い目を見つめた。
“中に人が残っているかもしれない”
そう思うと、簡単には斬れない。
アデルが短く言う。
「殺さずに止める。――でも、止まらなければ割り切る」
それは救助の言葉じゃない。
戦場の言葉だ。
でも今、この駅はもう、その境目に立っている。
朝日はまだある。
だが、影もまた学んでいる。




