第百二十七話 光の手順
第127話「光の手順」
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・朝】
朝の光が差し込んでも、体育館の空気は軽くならなかった。
眠れた子も、眠れなかった子も、目の奥が乾いている。
先生たちは点呼を取り直し、トイレの列を作り直し、配れる水の量を計算し直す。
そして――誰もが、床の一角を避けて歩く。
昨夜の円の痕。
“縫われた”あとでも、そこだけ空気が冷たかった。
近づくと、薄い風が吸い上がるように感じる。
ガムテープの線の外側で、生徒がひそひそ声を落とした。
「……穴って、何?」
「踏んだら吸われるって……」
「怖い」
怖いのは、分からないからだ。
ハレルは教頭と担任、それから保健の先生を集めて、短く言った。
なるべく簡単に、でも曖昧にしない。
「影みたいなやつは、光を嫌がります」
「体育館の穴――床の冷たい場所は、踏まない。近づかない」
「もし誰かが変なことを言い始めたら、
“影”の可能性がある。すぐ光の当たる場所に集めてください」
体育教師が眉を寄せる。
「光って……太陽の光?」
「それも。ライトでもいい」
ハレルは頷いた。
「とにかく“暗いところ”を作らないでください。人を影に集めない」
先生たちは顔を見合わせ、少しずつ頷く。
意味が分からなくても、手順なら回せる。
その時、床の縫い目が――ごく小さく軋んだ。
誰かが聞き取れるほどの音じゃない。
でもハレルの胸元の主鍵が、熱を持って脈打った。
サキのスマホが、掌の中で震える。
(来る)
ハレルが息を止めた瞬間、
立入禁止の線の向こう、縫われた円の中心から――煤のようなものがふわりと滲んだ。
煙じゃない。
黒い“薄い膜”が、床から浮く。
生徒のひとりが悲鳴を上げかける。
保健の先生が咄嗟に口を手で塞ぎ、背中を押す。
黒い膜は、ゆっくり指の形になり――縫い目に爪を立てるみたいに、引っかいた。
縫い糸が、ぴん、と張る。
薄い光の糸が耐えるが、耐えているのが分かるほど、空気がきしむ。
サキが青くなる。
「……お兄ちゃん、スマホ……」
“円を起動するか”の迷いが目に出る。
ハレルは首を振った。
「今は使わない」
代償が大きすぎる。穴を増やせば終わる。
「先生! 窓! カーテン全部開けて! ライト持ってきて!」
ハレルが声を張る。
体育教師が走った。
担任が生徒を壁際へ寄せる。
教頭が叫ぶ。
「全員、光の当たる場所へ! 走らない! 押さない!」
窓のカーテンが一斉に引かれ、朝日が床へ落ちる。
同時に、先生が懐中電灯を数本持ってきて、縫い目へ光を当てた。
黒い指が、一拍止まった。
朝日とライトが重なった瞬間、
煤の指は縮み、爪を引っ込めるように“戻る”。
縫い糸の緊張が、少しだけ緩む。
体育館の息苦しさが一段引いた。
黒い膜は最後に、ぽつりと普通の声を落とした。
まるで“先生の口調”を真似た声で。
「……落ち着いて。みんな、座って」
その声が気持ち悪かった。
優しさの形をして、何も優しくない。
次の瞬間、煤は床へ吸われるように消えた。
縫い目は残り、冷気も残る。
でも、穴は今は開かなかった。
体育館の中で、誰かが泣きそうな声を出した。
「……今の、何……」
ハレルは息を吐き、サキのスマホを見る。
残量は増えていない。
でも、減ってもいない。
(使わずに押し返せた)
その“たった一回”が、今日の生存の形を決める。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/西区・路地・朝】
イルダの朝の路地は、静かすぎた。
獣の唸りが減った分、足音が響く。
叫び声も、遠くまで伸びる。
また死体が見つかった。
今度は路地の角――人が一人でも通れば見える場所だった。
胸元が裂けている。
焼けた縁が残る。
刃の傷じゃない。
見回り兵が顔を青くして、住民の証言を拾う。
「兵士でした……紋章が……」
「白い外套の、警備局の紋章……」
見回り兵の拳が震える。
「……警備局の名を使われてる」
その場で、通信結晶が淡く光った。
学園側――ダミエの回線だ。
『……また、紋章』
低い声。短い報告。
『傷、煤の熱に近い。偽物でも本物でも、厄介』
見回り兵が息を呑む。
「……学園にいるはずなのに、分かるのか」
結晶越しに、ダミエの声が落ちる。
『……結界は“匂い”を拾う』
『イルダに残してきた杭が、残留を送る』
イデールの班員が焦った声で言う。
「学園側も危険だろ。ダミエ隊長、今はそっちを――」
『……今は学園にいる』
ダミエは短く切る。
『イルダは、イデールと守り班で回せる。……でも紋章は、続く』
結晶の光が弱まる。
最後に、ダミエが低く付け足した。
『……内部侵食。進行』
路地の朝が、さらに冷たくなる。
守りが効いてきたはずの街で、別の種類の崩れが始まっていた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した駅周辺/駅舎・朝】
駅のガラス屋根の下に、人が固まっていた。
朝日が差す場所が一番“マシ”に感じる。
理由は分からない。けれど、夜を越した体がそう判断してしまう。
改札前、売店前、車両の中。
眠れなかった人たちが、ぼんやりと立ち上がり、
誰かが水を探し、誰かがスマホを握り、誰かが泣き出す。
駅員が声を張る。
「外に出ないでください! 駅構内にいてください!」
「……お願いします、落ち着いて!」
だが落ち着かない。
その時、売店の陰から、ふらふら出てくる人がいた。
OL風の格好。
顔色が悪い。
目線が定まっていない。
近づきながら、普通の声で言う。
「今日、寒くないですか」
すぐ近くの男性が反射で答えかけ――止まる。
“何か”が違う。
言葉じゃない。皮膚感覚だ。
女の影の輪郭が、煤みたいにざらついている。
足元の端々に、青白い文字列がちらつく。
誰かが小さく悲鳴を上げた。
人が後ずさり、逃げようとしてぶつかり、座り込む者が出る。
パニックは一気に伝染する。
駅員が叫ぶ。
「走らないで! 押さないで!」
女はまだ同じ口調で、同じ言葉を繰り返す。
「今日、寒くないですか」
その直後、声が裏返る。
「……助けて」
そしてまた普通に戻る。
「寒くないですか」
聞いている側の心が削れる。
朝日が、ガラス屋根から斜めに落ちた。
偶然、女の足元に光が触れる。
その瞬間――煤の輪郭が、一拍だけ縮んだ。
女が“眩しいもの”を避けるみたいに顔を背け、柱の陰へ半歩下がる。
周囲が、息を呑む。
「……今、避けた?」
「光……?」
誰かが確信を持つほどではない。
ただ、偶然の挙動が、逃げ道になる。
駅員が必死に叫ぶ。
「みなさん、こっち! 明るい場所に寄って!」
「柱の陰に近づかないで!」
人々は理由も分からないまま、朝日の当たる場所へ集まる。
それは“知恵”ではなく、“生存本能”に近い動きだった。
女は柱の影に身を引き、
最後にぽつりと、いつもの調子で言う。
「今日、寒くないですか」
その声が、朝の駅に残る。
影の正体が分からないままでも、
人は少しだけ“避け方”を覚え始めていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸エリア/クロスゲート関係地・サーバールーム・朝】
サーバールームの空気は乾いていた。
古い残骸の匂いに、今の機械の熱が混じる。
巨大サーバーは動いている。
床の円陣も動いている。
そして“白衣の影”は、朝日と強光が当たっている間は出てこない。
だからこそ今が、唯一の“記録できる時間”だった。
日下部はノートパソコンの地図ソフトを開き、現場写真と重ねる。
城ヶ峰は隊員に指示を出し、棒の先のカメラでサーバー横の画面を遠距離撮影させる。
触らない。確定させない。
画面には、点が円形に並んだ地図のようなものが映っていた。
中心が空白。周囲が輪。
日下部の喉が鳴る。
「……これ、俺のソフトと同じ配置です」
「現象じゃない。運用です。ここで“輪”を描いてる」
城ヶ峰は一拍だけ黙り、すぐスマホを取った。
上層部の回線。緊急連絡網。
短く、必要なことだけを投げる。
「湾岸のクロスゲート関係地で稼働サーバー確認。
床に円形の発光陣。現象は運用の可能性が高い」
「同種の設備が、他の関係箇所にもある前提で動いてください」
「部隊を分けて、関係地を同時に押さえる。
証拠を回収し、稼働停止の手順を探る」
一拍置いて、さらに続ける。
「黒い影は銃が効かない。強光と朝日で退避行動を確認。
光の運用を現場ルール化してください」
通話を切ると、城ヶ峰はすぐ木崎と現場指揮へ共有を飛ばした。
――「稼働サーバー+円陣。輪は運用。影は光で退避。各現場で“強光”の準備を」
日下部が息を吐く。
「……動かせますか」
「動かす」
城ヶ峰は言い切った。
「ここだけ押さえても意味がない。輪の“縁”を潰す」
その時、雲が太陽を一瞬隠した。
部屋の明るさが落ちる。
床の円陣が、一拍だけ強く光った。
サーバーのランプが、呼吸みたいに点滅する。
隊員が息を呑む。
「……来る」
サーバーの隙間が黒く滲み、白衣の輪郭が形を作りかける。
城ヶ峰が即座に言う。
「ライト、最大」
強光が当たり、影は嫌がるように縮む。
雲が流れ、朝日が戻ると、影は隙間へ引っ込んだ。
日下部が低く言った。
「……太陽が薄れると出る。光があると引く」
城ヶ峰は前を見たまま答えた。
「なら、光を切らせるな」
サーバーのファン音だけが、朝の部屋に残る。
まるで世界のどこかで同じ音が増えていくみたいに。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館・朝】
体育館の縫い目は、今は静かだった。
でも、さっき黒い指が“爪を立てた”感触が残っている。
ハレルは円から目を離し、先生と生徒を見る。
怖がる顔。
それでも、光に集まって座れる顔。
手順ができた。
使わずに押し返せた。
たったそれだけで、今日が変わる。
サキが小さく言った。
「……光、当てればいいんだね」
「うん」
ハレルは頷く。
「穴を増やさずに守る。……それが今の最優先」
アデルが校舎の窓を見上げた。
「学園は守る。駅は崩さない。イルダは裂かせない」
言葉は短いが、背負っている量が多い。
リオはマスクの奥で息を吐いた。
「……敵は学んでる。俺たちも学ぶしかない」
朝日が体育館の床に落ちる。
縫い糸の光が、かすかに揺れた。
守りの朝は、もう戦いの朝だった。




