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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第八章 混濁転移世界

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第百十六話 現実を知るために


【異世界・転移した学園/体育館】


夜が来る前に、体育館の空気は一度だけ落ち着いた――ように見えた。

泣き声が途切れ、誰かが水を配り、先生が点呼を取り直す。

でも落ち着いたのは、表面だけだ。


窓の外は、森の影が濃くなっていく。

街灯もない。車の音もない。

現実なら聞こえるはずの「遠くのサイレン」すら、ここでは鳴らない。


その静けさが、逆に怖い。


「先生……家に、連絡できないんですか」

誰かが言った。震える声。

それに続いて、別の声が重なる。


「親に……俺、生きてるって言わないと……」

「弟、迎えに来るって言ってたのに……」

「ここ、ほんとに日本じゃないの……?」


先生たちが「落ち着いて」と繰り返す。

でも、言葉だけでは埋まらない穴がある。

それは――“現実がどうなっているか”という穴だ。

自分たちが消えたのか。置いてきた家が燃えているのか。親が探しているのか。

知れないまま夜になるのが、怖すぎる。


体育館の入口近くで、ハレルはその声を聞いていた。

胸元の主鍵が、じわりと温い。

熱というより、遠くで脈が打っている感覚。

(こっちが揺れてる。向こうも揺れてる)

そういう手応えだけが残る。


サキはスマホを握りしめ、残量表示を何度も見ては目を伏せた。

地図アプリは開ける。けれど、開くだけで心が削れる。

“使ったら減る”。

その現実が、今の二人には痛い。


「雲賀くん」

担任の先生が近づいてきた。声は小さく抑えているが、目が真剣だ。

その後ろに、教頭と数人の先生が並ぶ。

いわゆる「職員側の会議」が始まりそうな顔。


「君たち……外のことを、少し知っているんだろう」

ハレルは一瞬だけ息を止めた。

言いたくない。言えば“確定”する気がする。

でも、先生たちの目はもう引けない目だ。


「言えない部分があるなら、そこはいい」

教頭が、意外に冷静な声で言った。

「ただ――生徒たちが、現実の家族のことを気にしている。

何も分からないと、夜にパニックが来る。……情報が必要だ」


正論だった。

夜は、人の想像を勝手に大きくする。


ハレルは小さく頷いた。

「……俺たちも、現実が知りたいです」

それだけで、先生たちの顔が少し緩む。

同じ不安を持っていると分かるだけで、集団は少しまとまる。


「外の兵士たちに聞けないのか」

別の先生が言った。

「彼らは……王都の人たちなんだろう?」


ハレルは首を振る。

「向こう側の街のことは分かっても、こっち――現実の細かいことは分からないと思います」

それは嘘じゃない。

アデルたちは“現実”を知っているわけではない。知っているのは“座標”と“薄点”だ。


サキが小さく付け足した。

「……私たちが知ってるのも、全部じゃないです」

その声に、先生たちが頷く。

「分かった。じゃあ、どうする」


ハレルの喉が乾く。

ここで、あの名前を出すしかない。


(セラ)


橋渡し。

でも、セラは現実の人間じゃない。

“現実のニュース”を見ているわけでもない。

それでも――今頼れる線はそこしかない。


「……俺、試します」

ハレルはスマホを取り出し、胸元の主鍵を指で押さえる。

サキがそっと近づき、スマホの画面を支えるように覗いた。


「セラ」

声を出すと、体育館のざわめきが少し遠のく。

耳の奥に、白いノイズがうっすら走る。


「セラ、聞こえるか」

もう一度。

“お願い”が混じって、声が少し揺れた。


――返事は、すぐには来ない。


先生たちの後ろで、生徒が小さく泣き出した。

誰かが「大丈夫」と言い、誰かが「大丈夫じゃない」と言う。

その波が、また体育館を揺らす。


その時、スマホのスピーカーが、かすかに鳴った。


《……聞こえます》


セラの声。

遠い。薄い。けれど、確かに“いる”。


ハレルが息を吸う。

「セラ。現実は今どうなってる」

言い切った瞬間、先生たちの視線が一斉にこちらへ集まる。

生徒の何人かも、気配で黙る。

体育館が、情報を待つ耳になる。


《……私は、現実の“全部”は見えません》

セラの声は落ち着いている。案内役の声だ。

《でも……揺れています。あちこちで。

人の気配が……逃げる気配が増えている》


「逃げる?」

教頭が思わず聞き返す。

ハレルはそれを止めない。今は情報が必要だ。


《……黒い影》

セラが言う。

《人の形をした煤。獣の形もある。

あなたたちが見ているものが、向こうにも出ています》


体育館の奥で、誰かが「やっぱり」と呟いた。

“ここだけの異常じゃない”。

それが確定した瞬間、人は少しだけ落ち着く。

理由が分かる怖さは、理由が分からない怖さより耐えられる。


でも、次の言葉がそれを壊した。


《……ただ》

セラの声がわずかに沈む。

《現実側の中心は……危険すぎて近づけません》


「中心?」

ハレルが問う。


《元の刑務所。カシウスの実験施設の跡》

《座標が汚れている。

あなたがたの線が、そこへ引かれると……燃えます》


“線が燃える”

言葉の意味が、背中に刺さる。

橋が焼けたら、繋がらない。

繋がらなければ、助けは来ない。


サキがスマホを握り直した。

「……じゃあ、私たち……」

声が震える。


ハレルは言葉を探す。

「セラ、木崎さんは……」

現実側の“大人”。

ハレルたちのことを知っていて、味方で、動ける人間。


《……近くにいます》

セラが言う。

《あなたたちを探している。心配している》


それだけで、体育館の空気が少しだけ温くなる。

“探している人がいる”。

それは生徒たちにとっても救いだ。

帰れなくても、忘れられていない。


◆ ◆ ◆


【現実世界・転移現場/駅前跡地】


駅前だったはずの場所に、駅がない。

駅ビルも、ロータリーも、信号機も。


代わりに――森がある。

街路樹じゃない。幹の太い大木が何本も生え、根がアスファルトを割っている。

地面は持ち上がり、段差が崖みたいになって、元の道路の白線が途中で途切れていた。


「……冗談だろ」


木崎はカメラを握りしめたまま、ゆっくり歩いた。

人はいる。警察の規制線。誘導の声。泣いてる子ども。

でも、景色だけが“別の世界”の匂いをしている。


湿った土。苔。青い葉の匂い。

それが、駅前で嗅ぐ匂いじゃない。


崖の縁に近づくと、下に落ちた“駅の看板の欠片”が見えた。

広告パネルの一部。割れたガラス。

現実の残骸が、異世界の地面に刺さっている。


「……学園だけじゃねえ。こんな所まで」


木崎は息を吐き、シャッターを切った。

カシャ。

その音が、妙に軽い。

まるで“証拠だけ取って帰れ”と言われているみたいに。


(ハレル……サキ……)


学園が消えた瞬間を見た。

あれが嘘じゃないと分かっている。

だから余計に、想像が勝手に走る。


向こうで何を見ているのか。

今夜、誰が泣いているのか。

怖いのに、背伸びしてしまうサキの顔が浮かぶ。


「……無事でいろよ」


木崎は小さく呟き、カメラのレンズを崖の下へ向けた。

森の中で、黒い影が一瞬だけ動いた気がした。

猫みたいに軽い跳ね方。ぴょん、と。


木崎の背中が冷える。

だが足は止めない。止めたら、負ける。


規制線の向こうで警官が叫ぶ。

「下がってください! 撮影は危険です!」

木崎は適当に手を上げて返し、距離を取ったまま、もう一枚撮る。


(城ヶ峰。日下部。匠……)


線が繋がっていく。

でも、繋がった先が“救い”とは限らない。


木崎はスマホを取り出し、学園方向の地図を一瞬だけ見る。

そこにはもう、学園はない。

森と、中心の建物の影だけが残っている。


「……あっちも、こっちも地獄かよ」


声は軽く言った。

でも、目は笑っていない。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館】


――具体的な情報はまだ足りない。

どこが安全で、どこが危険で、今夜どうなるのか。


ハレルが歯を食いしばる。

「セラ、もっと分からないのか。現実の状況」

言い方が強くなってしまう。

抑えられない焦りが、言葉に混じる。


《……分かりません》

セラははっきり言った。

《私も、万能ではありません。

私が見えるのは“境界の揺れ”と、そこを渡る気配だけ》


正直な声。

その正直さが、今は少し痛い。


体育館の奥で、また泣き声が増える。

先生たちが走って、座らせ、背中をさすり、声をかける。

「大丈夫」「呼吸して」

それでも、夜は来る。


サキが小さく言った。

「……お兄ちゃん。もしまた、あの円を使ったら」

スマホの残量が頭に浮かぶ。

穴が残ることも。

使うほど世界が削れる感じも。


ハレルは頷く。

「分かってる。だから……今夜は守る。使うのは最後」


教頭がハレルを見る。

「外の兵士……アデルさんたちは、ここを守ってくれるのか」


ハレルが答える前に、セラの声が先に言った。


《守ります》

《すでに、学園の中にいます。

 門も、体育館も――いま“守る線”が引かれている》

《そして……あなたたちの側には、鍵がある》


鍵。

主鍵。副鍵。サキのスマホ。

その言葉が“責任”に変わる。


ハレルは息を吐き、セラへ低く言った。

「……セラ。頼む。もう少しだけ、現実と繋げないか」

《……》

返事が一拍遅れる。


《方法がないわけではありません》

セラが静かに言った。

《ただ……橋を借りる必要がある。

“向こう側の端末”を》


端末。

スマホ。

誰かのスマホ。

木崎の――?


ハレルの心臓が一つ強く鳴った。

「できるのか」

《……試します》


その声が、最後に少しだけ近く聞こえた。

それは約束じゃない。

でも、“何かが動く”気配だった。


体育館の窓の外で、風が強くなる。

木の枝が鳴る。

夜の森が、校舎を囲む影を濃くする。


そして――どこかで、門番がひとり消えたままだ。

その事実だけが、静かに残っていた。



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