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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第八章 混濁転移世界

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第百十二話 繁殖する黒い煤


◆ ◆ ◆


【現実世界・日本/駅前の広場】


最初は、ただの「具合の悪い人」に見えた。


背広の男が、膝に手をついて息をしている。肩が上下して、顔色は真っ青。

周りの人が距離を取って、スマホを向けるか迷う――その、次の瞬間だった。


男の左肩から胸にかけて、黒い“煤”みたいな影が、じわりと広がった。

黒の縁は、波打っている。

よく見ると、縁の中を青白い文字列が流れていた。

プログラムの表示みたいに。


男が顔を上げる。


「……たす、け……」


震える声。普通の人の声。

けれど、その直後、同じ口が“世間話”を吐いた。


「今日……寒くないですか?」


助けて、と、寒いですね、が、交互に出る。

周囲の空気が一気に冷える。

笑えない。泣くのも遅い。人の脳が追いつかない。


煤が、男の腕の先から“指”みたいに伸びた。

近くの女性のコートの裾を、すっと触ろうとする。


「いやぁぁっ!」


悲鳴が上がり、人の波が一斉に後ろへ弾けた。

転んだ人を踏まないように逃げながら、みんなが振り返る。

振り返ってしまう。見てしまう。


◆ ◆ ◆


【現実世界・日本/住宅街の交差点】


別の場所でも、同じ“おかしさ”が起きていた。


OL風の女性が、横断歩道の中央で立ち尽くしている。

半身が煤に覆われ、肩から背中へ文字列が走る。


「……助けて……」


泣いているのに、口元は笑う。

そして次の瞬間、声色が変わる。


「お買い物……行きました?」


問いかけの形だけが、人間らしい。

中身が、何か別のものだと分かってしまう。


近づいた男性が手を伸ばしかけて――やめた。

煤が、足元の影から“もう一本の影”を生やしていたからだ。

その影が、ひとの足首へ絡みつこうとしていた。


「来るな!」

「離れろ!」


警官たちが、さすまたを構えながら叫ぶ。

銃は抜けない。撃ったら“人”に当たる。

けれど放置したら、増える。


テイザー銃の乾いた音が鳴った。

バチ、と火花。女性の身体が一瞬だけ痙攣し、膝が落ちる。


「今!ロープ!」


二人がかりでロープを回し、腕と胴にかける。

煤が嫌がるように波打ち、文字列が早送りになる。


「いやだ……助けて……」

「今日……寒くないですか?」


同じ口が、同じ順番で、繰り返す。

周囲の誰かが吐きそうになり、誰かが泣いた。

“助けて”が本物かどうか、もう判断できない。




【現実世界・日本/繁華街の路地】


路地の端で、黒い猫がぴょん、と跳ねた。


見た目だけなら、ちょっと可愛い。

猫の形で、軽く走って、飛び跳ねて――人の足元をすり抜ける。


でも、近づくほど分かる。

毛がない。煤の塊だ。

尻尾の先から、青白い文字列がひらひら漏れている。


「ねこ……?」と小さい子が言いかけて、母親が抱き上げる。

猫影は、まるで“遊び”みたいに、追いかけるように跳ねる。


その跳ねた先。

煤に取り憑かれかけた男の影へ――するり、と溶け込んだ。


男の身体の黒が、分厚くなる。

声が、少しだけ“揃う”。


「……こんにちは」


それが、一番怖かった。




【現実世界・日本/木崎のカメラ越し】


木崎は、震える指でシャッターを切り続けた。

逃げる人波の端。警官の必死な顔。煤の文字列。跳ねる猫影。


(……やばい。これ、街が“日常”の顔で壊れるやつだ)


写真を選んで、城ヶ峰へ送る。

同じものを、何度も送る。

証拠がないと、話が消される。


送信が終わった瞬間、木崎は自分の息が浅いことに気づいた。




【現実世界・連絡/城ヶ峰】


城ヶ峰は届いた画像を拡大し、眉間に皺を寄せた。

煤の縁。文字列の流れ。猫影の跳ねる軌跡。


「……増え方が“点”じゃない。面で来てる」


城ヶ峰は部下へ指示を飛ばす。


「テイザーと捕縛を優先。銃は最後だ」

「避難線を二重に引け。人混みを作るな」

「“普通の警官”の誘導は活かす。混乱を増やすな」


そこまで言って、画面の猫影に目を戻す。


「……可愛い形で近づくな」


喉の奥で、言葉が冷えた。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ郊外/学園へ向かう街道】


石畳の街道を、馬の蹄が叩く。

リオはマスクの奥で息を整えながら、前を見た。


アデルの背中は揺れない。

ヴェルニは揺れている。というより、元気だ。


「急げば間に合う。急げば、ね」

「……余計なことはしないで」

アデルが淡々と言う。

「わかってるって。たぶん」

「たぶん、は要らない」


ヴェルニが笑って、風を指先に絡めた。走り出したくて仕方がない顔。

リオはそれを見て、胸の奥を押さえた。


(中に、ハレルがいる)

(サキも。……生徒も、先生も)


イヤーカフが、ちり、と鳴った。


『座標、まだ揺れてる』

ノノの声は早い。でも、焦りで割れてはいない。

『学園の周り、獣だけじゃなくて“人の影”も増えてる。イルダでも同じのが出てる』


「……向こうの煤が、こっちにも来たってこと?」

リオが小さく言う。


『たぶんね。まだ“混ざり始め”だけど、放っておくと馴染む』

ノノは一拍置いて続けた。

『馴染んだら、見分けがつかなくなる』


アデルが短く返す。

「だから、急ぐ」




【異世界・王都イルダ/市場区画】


イルダを守る班――ダミエとイデールは、市場の端で黒い“人影”を見ていた。

サラリーマンの形。OLの形。

中身は煤と文字列。近づくほど、空気が冷える。


イデールはいつもの笑顔のまま、でも目だけが真剣になる。

「……ねえ、ダミエ。ちょっとだけ、試してもいい?」

ダミエが小さく頷く。

「……効かないと思う。でも、やるなら、守る」


イデールは掌を胸の前で重ねた。

ふわり、と光が集まる。いつもは“治す”ための光。


「〈光療・第二級〉――『あたためて、ほどく』」


光が、やさしい輪になって飛ぶ。

それが黒い人影に触れた瞬間――


煤が、焼けるように縮んだ。

文字列が乱れ、針金みたいに跳ねる。


「……え」

ダミエの声に、ほんの少しだけ驚きが混ざった。


黒い人影が、口を開く。

「……こんにちは」

次の瞬間、声が崩れる。

「……やめ……ろ」


“人のふり”が、剥がれた。


イデールは目を丸くしつつも、すぐに笑顔に戻る。

「効くんだ……。じゃあ、みんなを守れるね~」


ダミエは、結界の印を切った。

「〈封環結界・第一級〉――『輪よ、閉じて』」


透明な輪が立ち、黒い人影の足元を囲む。

逃げようとした煤が、輪に当たって跳ね返る。


イデールが小さく息を吸う。

「じゃあ、もう一回。今度は少しだけ、強く」


光が増して、煤が“煙”みたいに剥がれ落ちた。

市場の人たちが、恐怖で固まりながらも、希望の顔をする。


その瞬間。イヤーカフがまた鳴った。


『今の、見た。光系、煤に効いてる』

ノノの声が速い。

『イデールの光、攻撃じゃなくても“ほどく”方向で刺さってる。ダミエの輪と相性いい』


アデルたちへ、すぐ繋ぐ――そんな呼吸が、声の端にある。


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/体育館の隅】


体育館の窓の外では、まだ遠くで唸り声が続いていた。

生徒たちは固まって、でも時々、外が気になって窓へ寄りかける。


ハレルは、自分のスマホを握りしめる。

ユナのコアも戻した。

胸元の主鍵は、熱だけは消えなかった。


「……セラ」


画面に向けて、名前を呼ぶ。

電話じゃない。メッセージでもない。

でも今は、それしかない。


一瞬だけ、ノイズが走った。

白い砂みたいな音が耳の奥で鳴る。


《……聞こえます》


セラの声。薄い。でも確かに。


ハレルの喉が詰まる。

「セラ!現実側に……行くことは出来ないのか!」

「向こう、街は……どうなってる?――」


《転移先が、危険です》

セラの声が少し硬くなる。

《元の刑務所――カシウスの実験施設の残骸。座標が汚れています》


「じゃあ、どうしたらいいんだよ」

ハレルは思わず声を荒くした。

「結局、またカシウスか? 父さんは? あの時のは――!」


《……私にも、全部は分かりません》

セラは正直に言った。

《でも、あなたが折れたら、守る人が減る》


その言い方が、痛いほど“橋渡し”だった。


ハレルが息を飲んだ、その時。


サキのスマホが、掌の中で熱を持って震えた。

画面が勝手に点き、知らない通知が浮かぶ。


《危険なものが迫ったら》

《その者に座標をあわせて》

《プログラム起動》


見たことのない地図アプリのアイコンが、ホームに増えている。

地図は真っ黒で、点だけが光っていた。

点が、じわり、と動く。


サキが青い顔でハレルを見る。

「……お兄ちゃん。これ、なに……」


ハレルは答えられない。

でも、胸元の主鍵が、答えの代わりに熱く脈打った。


◆ ◆ ◆


【異世界・学園へ向かう街道/アデル隊】


イヤーカフが鳴る。


『アデル、聞いて。イルダ側で確認できた』

ノノの声は落ち着いている。でも速い。

『イデールの光系、“煤”に効く。

 ほどく感じ。ダミエの結界で閉じてから当てると、消えるのが早い』


アデルが短く返す。

「共有する。学園でも使える」


ヴェルニが嬉しそうに口角を上げる。

「光が効くなら、俺の炎と風も――」

「暴発しないで」

「しないしない。たぶん」

「たぶん、は禁止」


リオは、前方の森の上に、異様な“輪郭”を見た。

木々の間に、校舎の形がのしかかっている。

ありえない景色が、ありえる重さでそこにある。


(……間に合え)


今度は、願いの中身がはっきりしていた。

生徒が外へ出ないうちに。

カシウスが、次の手を打つ前に。

そして――サキのスマホの“点”が、意味を持つ前に。


馬が加速する。

森が近づく。

学園が、そこにある。


そして、誰にも見えないところで、世界の境目がまた一度、呼吸した。


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