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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第八章 混濁転移世界

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第百十話 影喰いの獣


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/市場区画】


市場の匂いが、ひとつ消えた。

肉の脂の匂いでも、果物の甘さでもない。――“人の気配”の匂い。

それが薄くなって、代わりに煤の匂いが満ちていく。


「……来てる」

アデルの声は低い。剣は抜いたまま、先端を下げている。

威嚇じゃない。守る準備の角度だ。


屋台の列の向こう、黒い影が一つ――ではなかった。

影は“人の形”だけじゃない。

森のほうから、重い足音が混じる。


ドン。ドン。

石畳が微かに震える。


「……嘘でしょ」

屋台の店主が、包丁を落としそうになる。

人の背より高い“何か”が、木陰から現れたからだ。


グレイウルフ。

本来は王都の中に出るはずがない巨体が、森の境目からぬっと出てくる。

だが――それは“いつもの獣”じゃなかった。


毛並みの一部が、黒い煤みたいに固まっている。

煤の中に、青白い文字列が走っている。

獣の皮膚の上に、別の皮を貼ったみたいに――不気味に、厚い。


イヤーカフから、ノノの声が飛ぶ。

『憑いてる。人型じゃない。“獣に影が乗ってる”』

短く息を吸って、続ける。

『普通の結界だと、押し返せても“剥がせない”かも』


ヴェルニが一歩前へ出る。自信家の顔が、少しだけ硬くなる。

「やっと面白いの来たな。……燃やす」


アデルが即座に釘を刺す。

「燃やすのは最後。市場ごと焼くつもりか?」


「分かってるよ。……まず、押す」


ダミエが、石畳に手をついた。

無口なまま、指先だけが動く。

「〈遮断結界・第一級〉――境よ、ここに“線”を引け」


淡い光が走り、屋台の列と人の群れの間に透明な“段差”が生まれる。

目には見えにくいが、足が止まる。体が勝手に引き戻される。

人が押し合って転びそうになる一歩手前で、空気が整列した。


イデールがにこにこしながら、ゆっくり腕を広げた。

「大丈夫だよ〜。こっちへ、順番にね。押さない、走らない」

泣いている子を見つけると、すぐにしゃがんで目線を合わせる。

「息、吸って〜。吐いて〜。うん、できるできる」


その“落ち着き”が、恐怖の波を小さくした。

だが、獣は小さくならない。


憑かれたグレイウルフが、喉の奥から唸る。

「グルルルル……」

生臭い涎が垂れ、石畳に黒い染みが落ちる。

その染みの縁に、青白い文字列が一瞬だけ浮かぶ。


リオはマスクの奥で息を整え、掌を前へ。

「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」


光の鎖が走り、獣の前脚へ巻きつく。

だが“煤の皮”が、鎖を食うみたいにざらついて、手応えが薄い。

獣は止まらず、体勢を崩しながらも突っ込んでくる。


「来る!」

兵が槍を構える。

だが市中で乱戦にしたら、逃げ遅れた人が巻き込まれる。


アデルが一歩だけ前へ出て、短く詠唱した。

「〈大結界・第一級〉――光よ、門前に“壁”を重ねて」


透明な膜が、二枚、三枚――重なり、厚みになる。

獣がぶつかる。

ドン!!

鈍い衝撃音。膜がしなる。だが割れない。


憑いた煤が、膜の表面にべったり張りつき、文字列が走る。

まるで結界を“解析”しているみたいに。


ノノが言う。

『やばい。噛んでる。結界を“読んでる”』


ヴェルニが舌打ちして、風を集める。

「読ませなきゃいい。速さで潰す」

「潰すって言い方」

アデルが嫌な顔をする。

ヴェルニは笑う。

「褒め言葉だろ」


ヴェルニが手を突き出した。

「〈第四階位・風圧〉――『押し返せ』!」


圧が前へ走り、獣の巨体を横から叩く。

膜に張りついた煤が一瞬だけ剥がれ、文字列が乱れた。

獣がたたらを踏み、石畳を削って後退する。


その瞬間、煤が――獣の背から“人の形”を作って立ち上がった。

肩。腕。首。

獣の背中から、もう一体が生えてくる。


イデールの笑顔が消える。

「……これ、ただの憑依じゃないね」

ダミエが、結界の縁を見つめたまま呟く。

「“乗り換え”ができる」


アデルが剣先を上げる。

「だったら、乗り換える前に押し返す。民を守るのが先」

リオが頷く。

「ああ。……捕まえたまま、外へ押す」


ノノが短く言った。

『王都だけじゃない。学園側でも同じ反応、出てる』


◆ ◆ ◆


【異世界・転移した学園/外周・森縁】


森の匂いが濃い。

学園の外周は“門の向こうが森”という変な境目になっていて、

先生たちは出入口を塞いで必死に生徒を中へ押し戻している。


その森から――獣が出てきた。

グレイウルフだけじゃない。


地面を割るように現れたのは、巨大な猪。

丸太みたいな胴。牙が腕ほど長い。

その背中にも、黒い煤が貼りついていて、青白い文字列が走っている。


さらに、木陰が盛り上がって――熊。

巨大熊グリズリー。

肩の高さが人の背を軽く超え、唸り声が胸を叩く。


「……なんだよ、これ……」

学園側に駆けつけた兵士が、喉を鳴らす。

術師が杖を握り直し、震える手で詠唱を始めた。


「〈火矢・第二級〉――『一直線』!」

赤い矢が走り、猪の足元を焼く。

だが、煤の皮が熱を“吸う”みたいにざらついて、勢いが落ちる。

猪が突進してきて、土と草が爆ぜた。


「近い、近い!」

先生が叫び、生徒が窓から引き剥がされる。

「見るな! 下がれ!」

けれど、生徒は見てしまう。

“現実にはいないもの”が、すぐ外で暴れている。


兵士の一人が槍を突き出し、仲間が結界符を投げる。

「〈簡易結界〉――閉じろ!」

薄い膜が一瞬だけ張る。

突進が鈍る。

その隙に、兵士が叫んだ。

「押し返せ! ここを破られたら中が地獄だ!」


森の中、グリズリーが肩を揺らして唸る。

「グォオオ……」

煤の文字列が、熊の腕を伝って流れ、爪先に集まった。

爪が黒く光り、何かを“切る”準備みたいに見える。


術師が息を呑む。

「……獣が、魔術みたいな動きを――」


学園は、ただ転移しただけじゃない。

転移の先で“狙われている”。

それが誰の目にも分かり始めていた。


◆ ◆ ◆


【現実世界・国際ニュース/テレビ・スマホ速報】


画面が切り替わり、各国の映像が流れる。

街中に突然現れた森。

道路の上に浮かぶ、青白い文字列。

建物が一瞬だけ“ずれて”消える映像。

そして、泣き叫ぶ人々。


《世界各地で原因不明の“転移現象”》

《政府は緊急対策本部を設置》

《SNSでは“異世界”との関連を指摘する投稿が急増》


誰かが言った。

「映画みたいだ」

でも、笑う声は続かない。

画面の中の人々が、本気で怯えているからだ。


◆ ◆ ◆


【現実世界・警視庁関連施設/緊急会議室】


城ヶ峰は、資料の束を机に置いた。

上層部の声が飛ぶ。

「原因は? テロか? 自然現象か?」

「世界規模だ。各国と連携を――」


城ヶ峰は即答しない。

“分からない”を並べても、現場は助からない。


「現場に近い情報が必要です」

淡々と告げ、タブレットに映像を出す。

森。文字列。ノイズ。

そして、学園跡地周辺の地図。


「まず優先は、人命と封鎖」

「次に、現場の中心を押さえる」

「――そして、同じ現象が“連鎖”している可能性があります」


上層部が眉を寄せる。

「連鎖?」

城ヶ峰は一拍置いた。

「ひとつ起きた場所の周囲で、次が起きやすくなる。そう見えます」


施設の外で、一般の警察官が走り回っている。

「規制線、こっち!」「救護班、誘導して!」

普通の、いつもの現場の声だ。

その“普通”が、逆に救いになる。


城ヶ峰は立ち上がった。

「会議は継続してください。私は現場に出ます」


「今、出るのか」

「今です」


扉が開く。

廊下の角で、若い警察官が一般市民を落ち着かせていた。

「大丈夫です。ゆっくり、こちらへ。撮影は控えてください」

よくいる、親切な警官。

それ以上でも、それ以下でもない。


――少なくとも、この時点では。


◆ ◆ ◆


【現実世界・移動車両/車内】


城ヶ峰の隣に、日下部が座っている。

膝の上のノートパソコンが、青白い文字列を反射していた。

眠っていたはずの男の目は、起きているのに、まだどこか“ずれて”いる。


「……また広がってる」

日下部が小さく言う。

城ヶ峰は視線を前へ固定したまま答えた。

「広がる前提で動く。止められるかは――現場次第だ」


車窓の外で、救急車の赤色灯が流れていく。

世界が揺れている。

でも、人は動く。

警官も、消防も、医療も。

普通の顔で、必死に。


その“普通の顔”の中に、異物が混ざっていくのは――

まだ、少し先の話だ。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/市場区画】


憑いた獣は、結界の前で唸り、煤の文字列が流れる。

“人の形”が背から剥がれ、また貼りつこうとする。


ダミエが呟いた。

「……裂け目、広がる」


ノノの声が短く落ちる。

『次、もっと来る。たぶん……王都の外縁も、学園の森も』


アデルは剣を構え直した。

リオも掌を上げ直した。

ヴェルニは笑みを作り、イデールは人々を守る位置に立つ。


市場の中心の石畳が、ぱきり、と白く光る。

円が浮き、青白い文字列が走る。

“穴”は、呼吸するみたいに脈打った。


――混濁は、拡大していく。


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