第百十話 影喰いの獣
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/市場区画】
市場の匂いが、ひとつ消えた。
肉の脂の匂いでも、果物の甘さでもない。――“人の気配”の匂い。
それが薄くなって、代わりに煤の匂いが満ちていく。
「……来てる」
アデルの声は低い。剣は抜いたまま、先端を下げている。
威嚇じゃない。守る準備の角度だ。
屋台の列の向こう、黒い影が一つ――ではなかった。
影は“人の形”だけじゃない。
森のほうから、重い足音が混じる。
ドン。ドン。
石畳が微かに震える。
「……嘘でしょ」
屋台の店主が、包丁を落としそうになる。
人の背より高い“何か”が、木陰から現れたからだ。
グレイウルフ。
本来は王都の中に出るはずがない巨体が、森の境目からぬっと出てくる。
だが――それは“いつもの獣”じゃなかった。
毛並みの一部が、黒い煤みたいに固まっている。
煤の中に、青白い文字列が走っている。
獣の皮膚の上に、別の皮を貼ったみたいに――不気味に、厚い。
イヤーカフから、ノノの声が飛ぶ。
『憑いてる。人型じゃない。“獣に影が乗ってる”』
短く息を吸って、続ける。
『普通の結界だと、押し返せても“剥がせない”かも』
ヴェルニが一歩前へ出る。自信家の顔が、少しだけ硬くなる。
「やっと面白いの来たな。……燃やす」
アデルが即座に釘を刺す。
「燃やすのは最後。市場ごと焼くつもりか?」
「分かってるよ。……まず、押す」
ダミエが、石畳に手をついた。
無口なまま、指先だけが動く。
「〈遮断結界・第一級〉――境よ、ここに“線”を引け」
淡い光が走り、屋台の列と人の群れの間に透明な“段差”が生まれる。
目には見えにくいが、足が止まる。体が勝手に引き戻される。
人が押し合って転びそうになる一歩手前で、空気が整列した。
イデールがにこにこしながら、ゆっくり腕を広げた。
「大丈夫だよ〜。こっちへ、順番にね。押さない、走らない」
泣いている子を見つけると、すぐにしゃがんで目線を合わせる。
「息、吸って〜。吐いて〜。うん、できるできる」
その“落ち着き”が、恐怖の波を小さくした。
だが、獣は小さくならない。
憑かれたグレイウルフが、喉の奥から唸る。
「グルルルル……」
生臭い涎が垂れ、石畳に黒い染みが落ちる。
その染みの縁に、青白い文字列が一瞬だけ浮かぶ。
リオはマスクの奥で息を整え、掌を前へ。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
光の鎖が走り、獣の前脚へ巻きつく。
だが“煤の皮”が、鎖を食うみたいにざらついて、手応えが薄い。
獣は止まらず、体勢を崩しながらも突っ込んでくる。
「来る!」
兵が槍を構える。
だが市中で乱戦にしたら、逃げ遅れた人が巻き込まれる。
アデルが一歩だけ前へ出て、短く詠唱した。
「〈大結界・第一級〉――光よ、門前に“壁”を重ねて」
透明な膜が、二枚、三枚――重なり、厚みになる。
獣がぶつかる。
ドン!!
鈍い衝撃音。膜がしなる。だが割れない。
憑いた煤が、膜の表面にべったり張りつき、文字列が走る。
まるで結界を“解析”しているみたいに。
ノノが言う。
『やばい。噛んでる。結界を“読んでる”』
ヴェルニが舌打ちして、風を集める。
「読ませなきゃいい。速さで潰す」
「潰すって言い方」
アデルが嫌な顔をする。
ヴェルニは笑う。
「褒め言葉だろ」
ヴェルニが手を突き出した。
「〈第四階位・風圧〉――『押し返せ』!」
圧が前へ走り、獣の巨体を横から叩く。
膜に張りついた煤が一瞬だけ剥がれ、文字列が乱れた。
獣がたたらを踏み、石畳を削って後退する。
その瞬間、煤が――獣の背から“人の形”を作って立ち上がった。
肩。腕。首。
獣の背中から、もう一体が生えてくる。
イデールの笑顔が消える。
「……これ、ただの憑依じゃないね」
ダミエが、結界の縁を見つめたまま呟く。
「“乗り換え”ができる」
アデルが剣先を上げる。
「だったら、乗り換える前に押し返す。民を守るのが先」
リオが頷く。
「ああ。……捕まえたまま、外へ押す」
ノノが短く言った。
『王都だけじゃない。学園側でも同じ反応、出てる』
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/外周・森縁】
森の匂いが濃い。
学園の外周は“門の向こうが森”という変な境目になっていて、
先生たちは出入口を塞いで必死に生徒を中へ押し戻している。
その森から――獣が出てきた。
グレイウルフだけじゃない。
地面を割るように現れたのは、巨大な猪。
丸太みたいな胴。牙が腕ほど長い。
その背中にも、黒い煤が貼りついていて、青白い文字列が走っている。
さらに、木陰が盛り上がって――熊。
巨大熊グリズリー。
肩の高さが人の背を軽く超え、唸り声が胸を叩く。
「……なんだよ、これ……」
学園側に駆けつけた兵士が、喉を鳴らす。
術師が杖を握り直し、震える手で詠唱を始めた。
「〈火矢・第二級〉――『一直線』!」
赤い矢が走り、猪の足元を焼く。
だが、煤の皮が熱を“吸う”みたいにざらついて、勢いが落ちる。
猪が突進してきて、土と草が爆ぜた。
「近い、近い!」
先生が叫び、生徒が窓から引き剥がされる。
「見るな! 下がれ!」
けれど、生徒は見てしまう。
“現実にはいないもの”が、すぐ外で暴れている。
兵士の一人が槍を突き出し、仲間が結界符を投げる。
「〈簡易結界〉――閉じろ!」
薄い膜が一瞬だけ張る。
突進が鈍る。
その隙に、兵士が叫んだ。
「押し返せ! ここを破られたら中が地獄だ!」
森の中、グリズリーが肩を揺らして唸る。
「グォオオ……」
煤の文字列が、熊の腕を伝って流れ、爪先に集まった。
爪が黒く光り、何かを“切る”準備みたいに見える。
術師が息を呑む。
「……獣が、魔術みたいな動きを――」
学園は、ただ転移しただけじゃない。
転移の先で“狙われている”。
それが誰の目にも分かり始めていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・国際ニュース/テレビ・スマホ速報】
画面が切り替わり、各国の映像が流れる。
街中に突然現れた森。
道路の上に浮かぶ、青白い文字列。
建物が一瞬だけ“ずれて”消える映像。
そして、泣き叫ぶ人々。
《世界各地で原因不明の“転移現象”》
《政府は緊急対策本部を設置》
《SNSでは“異世界”との関連を指摘する投稿が急増》
誰かが言った。
「映画みたいだ」
でも、笑う声は続かない。
画面の中の人々が、本気で怯えているからだ。
◆ ◆ ◆
【現実世界・警視庁関連施設/緊急会議室】
城ヶ峰は、資料の束を机に置いた。
上層部の声が飛ぶ。
「原因は? テロか? 自然現象か?」
「世界規模だ。各国と連携を――」
城ヶ峰は即答しない。
“分からない”を並べても、現場は助からない。
「現場に近い情報が必要です」
淡々と告げ、タブレットに映像を出す。
森。文字列。ノイズ。
そして、学園跡地周辺の地図。
「まず優先は、人命と封鎖」
「次に、現場の中心を押さえる」
「――そして、同じ現象が“連鎖”している可能性があります」
上層部が眉を寄せる。
「連鎖?」
城ヶ峰は一拍置いた。
「ひとつ起きた場所の周囲で、次が起きやすくなる。そう見えます」
施設の外で、一般の警察官が走り回っている。
「規制線、こっち!」「救護班、誘導して!」
普通の、いつもの現場の声だ。
その“普通”が、逆に救いになる。
城ヶ峰は立ち上がった。
「会議は継続してください。私は現場に出ます」
「今、出るのか」
「今です」
扉が開く。
廊下の角で、若い警察官が一般市民を落ち着かせていた。
「大丈夫です。ゆっくり、こちらへ。撮影は控えてください」
よくいる、親切な警官。
それ以上でも、それ以下でもない。
――少なくとも、この時点では。
◆ ◆ ◆
【現実世界・移動車両/車内】
城ヶ峰の隣に、日下部が座っている。
膝の上のノートパソコンが、青白い文字列を反射していた。
眠っていたはずの男の目は、起きているのに、まだどこか“ずれて”いる。
「……また広がってる」
日下部が小さく言う。
城ヶ峰は視線を前へ固定したまま答えた。
「広がる前提で動く。止められるかは――現場次第だ」
車窓の外で、救急車の赤色灯が流れていく。
世界が揺れている。
でも、人は動く。
警官も、消防も、医療も。
普通の顔で、必死に。
その“普通の顔”の中に、異物が混ざっていくのは――
まだ、少し先の話だ。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/市場区画】
憑いた獣は、結界の前で唸り、煤の文字列が流れる。
“人の形”が背から剥がれ、また貼りつこうとする。
ダミエが呟いた。
「……裂け目、広がる」
ノノの声が短く落ちる。
『次、もっと来る。たぶん……王都の外縁も、学園の森も』
アデルは剣を構え直した。
リオも掌を上げ直した。
ヴェルニは笑みを作り、イデールは人々を守る位置に立つ。
市場の中心の石畳が、ぱきり、と白く光る。
円が浮き、青白い文字列が走る。
“穴”は、呼吸するみたいに脈打った。
――混濁は、拡大していく。




