第百九話 動員、そして境界
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【異世界・王都イルダ/王国警備局・作戦庁舎】
王都の鐘が、短く、強く鳴った。
祝祭の鐘じゃない。火災の鐘でもない。
――“動員”の鐘だ。
石造りの廊下に、靴音が増える。
鎧の擦れる音、杖の先が床を叩く音、包帯箱が揺れる音。
いつもなら静かな警備局が、ひとつの生き物みたいに呼吸を変えていく。
アデルは作戦板の前で立ち止まった。
地図に刺さった針が、王都のあちこちで赤く光っている。
同じ質の“膜”。同じ匂いの“煤”。
リオが横に立つ。マスクは外していない。
目だけが、いつもより鋭い。
「……王都だけじゃないな」
『うん。王都が一番人が多い。だから、ここが一番危ない』
ノノの声がイヤーカフから飛ぶ。
『今、各地点の“白膜”の立ち方が揃ってきてる。偶然じゃない。合わせてる』
「合わせてる、って……誰が」
リオが低く言う。
ノノは答えを濁さない。
『分かんない。でも、“開け方”を知ってるやつ。しかも、複数箇所で同時に』
その瞬間、扉が開いた。
室内の空気が一段変わる。魔力の匂いが混じる。
「呼んだか、アデル!」
よく通る声。自信が先に歩いてくるみたいな声。
入ってきた男は長身で、痩せていて、端正な顔立ち。
紺色の髪が、照明に当たった瞬間だけ青く光って見えた。
やや短めの髪が揺れるのに合わせて、外套の裾が風を引く。
「魔術部隊隊長、ヴェルニ=シュナイダーだ。遅れてないだろ?」
言いながら、アデルの顔を見る。距離が近い。
アデルは半歩だけ下がった。
「遅れてない。……近い」
「近い方が話が早い」
リオが小さく咳払いをする。
ヴェルニはやっとリオに視線を寄こし、にやりと笑った。
「お、例の鍵持ち。噂は聞いてる」
噂、という言い方に、アデルの眉がほんの少し動く。
「今は噂を広げるな」
「分かってる分かってる。――で?」
ヴェルニは地図の赤点を見て、指先を鳴らした。
乾いた音が、妙に軽い。
「煤の影? 白い膜? 結界? なら、焼けばいい。吹き飛ばせばいい」
言い切る顔は、ほんとにそう思っている顔だった。
その次の瞬間、扉の影から“気配が小さい”人物が滑り込んだ。
制服が大きすぎる。フードを深く被り、襟が口元まで隠れている。
見えるのは目だけ。光を反射しない、冷たい目。
「……結界。焼く前に、分ける」
低い声。短い言葉。
ノノがイヤーカフ越しに、息を吐いたのが分かった。
「来た。結界部隊」
アデルが頷く。
「結界部隊隊長、ダミエ=モノグラム」
アデルが紹介すると、ダミエは小さく顎を引いた。挨拶の代わりみたいに。
ヴェルニが腕を組む。
「ちっさ……」
「言うな」
アデルが即座に返す。
ダミエは気にしていないのか、地図を覗き込み、急に言葉が増えた。
「白膜は、境界の“縫い目”。縫い目がほどけると、勝手に繋がる」
「繋がると、煤が流れてくる」
「煤は、捕縛が効かない。だから、隔てる。閉じる。重ねる。薄いところを補強する」
息継ぎが少ない。結界の話になると止まらない。
ヴェルニが口を挟む。
「閉じる閉じるって、閉じて間に合うのかよ。増えてんだろ?」
「増えてる。だから、優先順位」
ダミエは淡々と返した。
「人が多い場所。医療棟周辺。市場。城壁下。……守るべきところ」
医療棟。
リオの肩が、ほんの少しだけ固くなる。
その時、別の扉が開き、柔らかい香りが流れ込んだ。
笑顔が先に入ってくる。
「みんな、顔がこわいよ~」
ゆっくりした声。のんびりしているのに、場を落ち着かせる声。
長身の女性が歩いてきた。
茶髪の長い三つ編みを背にまとめ、いつもニコニコしている。
けれど目だけは、状況を全部見ている目。
「治療班隊長、イデール=エピ。呼ばれたから来たよ~」
言いながら、アデルの肩にそっと手を置いた。
「無理しないでね。今の王都、みんなが無理するから」
アデルは短く頷く。
「頼む」
イデールはリオを見て、ふわっと微笑んだ。
「あなたも。……大事な人、守ってる顔だね」
リオは返事の代わりに、視線を落とした。
言葉にしたら、揺れる。
作戦板の前で、城壁下の赤点が一段濃く点滅した。
ノノが言う。
『来た。今、出た』
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【異世界・王都イルダ/城壁下の通り】
透明な壁の向こうで、黒い影が揺れている。
役人みたいな輪郭。けれど顔がない。煤の塊。
文字列の端がちらつき、風もないのに“布”のように波打った。
周囲の民が、遠巻きに固まる。
「なにあれ……」
「人、なのか?」
声が震える。
そこへ、隊列が来た。
杖を持つ者たち。魔術部隊。
札束を抱えた者たち。結界部隊。
担架と薬箱。治療班。
そして、先頭にアデル。
横にリオ。
少し後ろで、ヴェルニが楽しそうに口角を上げ、
ダミエが地面を見て“縫い目”を探し、
イデールが周囲の民の顔色を確認していた。
ヴェルニが手を上げる。
「俺が先に吹き飛ばす」
アデルが止める。
「先に分ける。民がいる」
「分かった分かった。……でも、派手にいくぞ?」
ダミエがぼそっと言う。
「派手は、縫い目を広げる。慎重に」
「え、結界ってそういうもん?」
ヴェルニが笑いかけるが、ダミエは笑わない。
アデルが短く言った。
「やる」
ダミエが一歩前へ出て、フードの影のまま詠唱した。
「〈遮断結界・第一級〉――境よ、ここに“線”を引け」
地面に淡い光が走り、通りを横切る透明な膜が重なる。
一枚、二枚。
薄いのに、確かに“境界”の手応えが生まれる。
民の中から、息を呑む音。
「……光の壁?」
「結界……?」
誰かが膝から崩れそうになり、イデールがそっと支えた。
「大丈夫だよ。呼吸してね」
黒い影が、壁に触れた。
ざらり、と空気が擦れる。
影が“押される”ように後ろへずれた。
『今』
ノノの声が飛ぶ。
リオが掌を出す。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
鎖の光が、影の“周囲”を巻く。
実体を縛るんじゃない。
境界ごと、輪郭を“固定”する。
影が首を傾げた。
普通の人間みたいな動作なのに、遅れていて、気味が悪い。
そして、声が出た。
「……こんにちは」
雑談みたいな口調。
それが、いちばん怖かった。
ヴェルニが目を細める。
「気持ち悪いな。……燃やすか」
アデルが首を振る。
「燃やすのは最後」
「了解、アデルのお願いなら我慢する」
ヴェルニは不満そうに笑い、代わりに指先に風を集める。
髪が揺れる。外套が鳴る。
「〈第四階位・風圧〉――『押し返せ』」
風が壁に沿って走り、黒い影を“線の外”へ押し戻す。
影が揺れて、文字列が一瞬、濃く浮いた。
民がざわめく。
「……字?」
「今、体に……何か走った」
ダミエが低く言う。
「見ない方がいい。覚える」
その一言で、民は視線を逸らす。
イデールが小さく頷き、民を後ろへ誘導した。
「こっちへ。ゆっくりでいいよ~」
アデルは影を見据えたまま、短く言う。
「王都は渡さない」
それだけで、兵たちの背筋が揃った。
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【現実世界・海外都市/交差点】
信号が、点滅した。
次の瞬間、道路の向こうのビル群の輪郭が“ざらつく”。
人々が立ち止まり、スマホを上げる。
画面に白いノイズが走る。
何人かが叫ぶ。
「映らない!」
「写真が変!」
そこへ、若い警察官が現れる。
端正な顔。落ち着いた声。
「危険です。こちらへ。――撮影は控えて」
人の流れが、その声に従って動く。
助かるはずの動き。
でも、なぜか背中が冷える。
交差点の端で、黒い“会社員”の影が、ゆっくり首を上げた。
文字列の煤が、靴音もなく近づいてくる。
警察官は一歩前へ出て、手を上げる。
「大丈夫。落ち着いて」
その声は、親切だ。
親切すぎる。
まるで――秩序の顔をした何かが、秩序を使っているみたいに。
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【異世界・王都イルダ/城壁下の通り】
透明な壁の向こうで、黒い影が押し戻されていく。
完全には消えない。
でも、通りへは入れない。
ノノの声が、いつもより少しだけ硬い。
『……これで一箇所は抑えた。でも、他も同時に来てる』
『王都全体が、試されてる』
アデルが頷く。
「動員は正解だった」
リオが息を吐く。
「……ユナの守りも厚くなった。今はそれだけでも助かる」
ヴェルニが肩をすくめた。
「じゃ、次行こうぜ。俺、燃やせる場所を探してる」
「探さなくていい」
アデルが即答する。
イデールがくすっと笑った。
「ふたり、相変わらずだね~」
ダミエが小さく言う。
「次は市場。人が多い。……縫い目が薄い」
アデルは剣を握り直した。
王都の混乱は、始まったばかりだ。
そして、現実側も――同じように揺れている。
白い膜が、世界のあちこちで呼吸を始めていた。
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