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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第八章 混濁転移世界

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第百八話 ざらつく日常


◆ ◆ ◆


【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】


白い“膜”は、霧みたいに広がっていた。

光じゃない。色が抜けた白。影が薄くなる白。


「うそ……駅、消えるの?」

「消えるって何!?」


叫びが重なり、足音がぶつかり合う。

人の流れが逆向きに膨らみ、押され、転びそうになって、また押し返される。


そのとき、声が通った。

「大丈夫です。落ち着いてください。走らない。押さない」


振り向くと、若い警察官がいた。端正な顔立ち。息も乱れていない。

片手を上げて、人の流れを“整える”みたいに動かす。


「壁際へ。ベンチの裏は危ない。広い方へ」

「スマホは今、触らない方がいい。画面が変になる人が多い」


言われた通りに動いた人たちは、確かに転ばない。

混乱が、ほんの少しだけ薄くなる。


――でも。

ロータリーの中心、白い膜のいちばん濃い場所に、黒いものが立っていた。


スーツの輪郭。サラリーマンみたいな形。

なのに、顔が見えない。

全身が煤みたいな影で覆われ、端々で“文字列”がちらつく。細い、読めない記号の束。


それが、ゆっくり頭を上げた。

人を“探す”動き。体温を嗅ぐみたいな動き。


「……あれ、なに?」

誰かが声を失う。


警察官が一歩だけ前へ出た。

「近づかないでください。……目を合わせない」


普通の口調なのに、その言い方だけが妙に冷たく聞こえた。

黒い影が、警察官の方へ――いや、人の群れの奥へ寄ろうとする。


白い膜が、ざらり、と音を立てた気がした。

世界の表面が、紙やすりで削られるみたいに。


◆ ◆ ◆


【現実世界・警視庁関連施設/臨時対策室】


モニターには、赤い点が増えていた。

駅前、病院、商業施設、役所前。地図の上で、点が同時に灯る。


城ヶ峰は椅子の背から前へ身を乗り出した。

「……一カ所じゃない。連鎖だ」


隣で日下部がノートパソコンを開き、指を走らせる。

顔色はまだ悪いのに、目だけが鋭い。


「“揺れ”の質が同じです」

日下部の声は乾いている。

「場所が違っても、膜の立ち方が同じ。……座標が、同じ方向へ引かれてる」


「どこへだ」

城ヶ峰が低く問う。


日下部は一拍だけ黙って、画面の点を見た。

「……答えはまだ出ません。でも、点の増え方が――」

指が止まる。

「“わざと”です。偶然の事故じゃない」


木崎の映像が、別モニターに映る。

現場の警戒線。遠巻きの人だかり。

そして、黒い影の“サラリーマン”。


木崎の声がスピーカーから飛ぶ。

『城ヶ峰! こっち、やばい。あの影、近づいてくる。弾も――』

ノイズが噛んで、言葉が潰れた。


城ヶ峰は即座に指示を出す。

「現場班、距離を取れ。民間人を優先で下げろ。撮影は――」

一瞬止めて、言い直した。

「……撮れるなら撮れ。ただし、命が先だ」


日下部が画面を睨んだまま、絞り出すように言う。

「“人間になろうとしてる”みたいに見える……」


城ヶ峰は答えない。

答えたら、確定する。

確定したら、増える。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/解析室】


羊皮紙の地図の上に、ノノが細い針を落とした。

カチ、と乾いた音。


「……ここ。ここも。あと、ここ」

点が増えていく。王都の外周。城壁下。市場の端。医療棟の近く。


リオが眉を寄せる。

「増えすぎだろ。昨日まで、こんな……」


「昨日の“揺れ”とは別。質が違う」

ノノは早口で言って、すぐにリオとアデルを見上げた。

「薄い膜が、勝手に立ってる。誰かが“開け方”を知ってるやつ」


アデルは短く息を吐いた。

「私たちだけで回すのは無理だね」


「うん。王都の結界部隊、魔術部隊、全部動かさないと」

ノノは言い切ってから、少しだけ声を落とす。

「……それと、例の“煤”みたいなやつ。現実側だけじゃない。こっちにも出る」


「人の形で?」

リオが聞く。


ノノは頷いた。

「形だけ。中身はスカスカ。なのに、近づかれると――たぶん、持っていかれる」


アデルの指が、地図の一点をなぞった。

医療棟。

「ユナの守りを厚くする。そこが落ちたら、全部が崩れる」


リオの喉が動く。

「……分かった。守りは任せる。俺は動く」


ノノがイヤーカフの調整をしながら、いつもの調子で言った。

「じゃ、まず城壁下。人が多い。ここ、今いちばん危ない」

「リオ、走るなら今。増え方が、嫌」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/王国警備局・医療棟/警護区画】


扉の前に、見慣れない数の兵が立っていた。

槍。盾。結界札。

通路の空気が“守り”の匂いになっている。


リオは一歩だけ中へ入り、ベッドの影を見た。

ユナは眠っている。顔色は前よりずっといい。

胸が上下している。それだけで、喉の奥が熱くなる。


「……行ってくる」

小さく言って、指先でユナの手に触れた。温かい。


アデルが隣で頷く。

「ここは任せよう。私たちは、外の火を消す」


背後で、セラの気配が薄く揺れた。

声は出さない。

でも、廊下の空気の粒が、ほんの少しだけ“整う”。

橋渡しが、世界を縫い止めようとしている。


リオは息を吸って、手を離した。

離すのが怖い。けれど、守るためには離れなきゃいけない。


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/城壁下の通り】


通りの端で、人々が足を止めていた。

露店の呼び声が止まり、荷車が止まり、靴音が止まる。


白い膜が、石畳の上に“にじむ”。

その中心に、黒い影。

役人みたいな服の輪郭。

けれど顔は、煤。端で文字列がちらつく。


「……なんだ、あれ」

兵が呟く。


アデルは剣を抜かず、まず一歩前へ出た。

「近づかないで。下がって」


周囲の兵が戸惑いながらも動く。

人々が逃げ遅れそうになり、押し合いになりかける。


リオが掌を出した。

「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」


細い光が走り、鎖の形になる。

黒い影の足元へ巻きつく――はずが、鎖が“すり抜けた”。

手応えがない。空を掴んだみたいに。


「……効かない?」

リオの声が低くなる。


ノノの声がイヤーカフから飛ぶ。

『実体が薄い。捕縛より、隔てる方がいい。膜ごと押し返して』


アデルは頷き、詠唱した。

「〈遮断結界・第一級〉――光よ、ここに“境”を」


剣先から、淡い光が地面へ染みる。

蜘蛛の巣みたいに線が広がり、通りの真ん中に透明な壁が立った。

白い膜が、壁に触れて“ざらり”と止まる。


黒い影が、壁の向こうで首を傾げた。

人間みたいな仕草。

でも、その動きはどこか遅れていて、気味が悪い。


「……通すな」

リオが短く言う。


「通さない」

アデルの声は静かだ。静かなほど、強い。

「王都は、渡さない」


遠くで鐘が鳴った。

王都全体が、異常を知って動き始める合図。

魔術部隊、結界部隊、警備局――全部が、やっと同じ方向を見る。


そして、ノノが小さく言った。

『……まだ増える。これ、序章だよ』


白い膜が、別の路地でもにじみ始めていた。

世界が、同時にざらついていく。


◆ ◆ ◆


【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】


黒い“サラリーマン”が、一歩、近づいた。


警察官は声を張る。

「下がって! ゆっくりでいい、離れて!」


人々が動く。

その瞬間、誰かのスマホが勝手に点灯し、画面が一瞬だけ文字列で埋まった。

すぐ消える。

まるで“見せた”みたいに。


黒い影が、空気を押し出す。

触れていないのに、喉が詰まる。皮膚が粟立つ。


警察官は一歩も退かない。

普通の顔。普通の制服。

普通の口調。


「……大丈夫。必ず離れさせる」


その声だけが、なぜか胸に残った。

良い意味じゃない。

“覚えさせられた”みたいに。


白い膜が、駅前全体を包みかける。

世界が一枚、剥がれそうになる。


――そして、次の場所でも同じことが起きる。

そんな予感だけが、肌に貼りついて離れなかった。


◆ ◆ ◆


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