第百八話 ざらつく日常
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【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】
白い“膜”は、霧みたいに広がっていた。
光じゃない。色が抜けた白。影が薄くなる白。
「うそ……駅、消えるの?」
「消えるって何!?」
叫びが重なり、足音がぶつかり合う。
人の流れが逆向きに膨らみ、押され、転びそうになって、また押し返される。
そのとき、声が通った。
「大丈夫です。落ち着いてください。走らない。押さない」
振り向くと、若い警察官がいた。端正な顔立ち。息も乱れていない。
片手を上げて、人の流れを“整える”みたいに動かす。
「壁際へ。ベンチの裏は危ない。広い方へ」
「スマホは今、触らない方がいい。画面が変になる人が多い」
言われた通りに動いた人たちは、確かに転ばない。
混乱が、ほんの少しだけ薄くなる。
――でも。
ロータリーの中心、白い膜のいちばん濃い場所に、黒いものが立っていた。
スーツの輪郭。サラリーマンみたいな形。
なのに、顔が見えない。
全身が煤みたいな影で覆われ、端々で“文字列”がちらつく。細い、読めない記号の束。
それが、ゆっくり頭を上げた。
人を“探す”動き。体温を嗅ぐみたいな動き。
「……あれ、なに?」
誰かが声を失う。
警察官が一歩だけ前へ出た。
「近づかないでください。……目を合わせない」
普通の口調なのに、その言い方だけが妙に冷たく聞こえた。
黒い影が、警察官の方へ――いや、人の群れの奥へ寄ろうとする。
白い膜が、ざらり、と音を立てた気がした。
世界の表面が、紙やすりで削られるみたいに。
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【現実世界・警視庁関連施設/臨時対策室】
モニターには、赤い点が増えていた。
駅前、病院、商業施設、役所前。地図の上で、点が同時に灯る。
城ヶ峰は椅子の背から前へ身を乗り出した。
「……一カ所じゃない。連鎖だ」
隣で日下部がノートパソコンを開き、指を走らせる。
顔色はまだ悪いのに、目だけが鋭い。
「“揺れ”の質が同じです」
日下部の声は乾いている。
「場所が違っても、膜の立ち方が同じ。……座標が、同じ方向へ引かれてる」
「どこへだ」
城ヶ峰が低く問う。
日下部は一拍だけ黙って、画面の点を見た。
「……答えはまだ出ません。でも、点の増え方が――」
指が止まる。
「“わざと”です。偶然の事故じゃない」
木崎の映像が、別モニターに映る。
現場の警戒線。遠巻きの人だかり。
そして、黒い影の“サラリーマン”。
木崎の声がスピーカーから飛ぶ。
『城ヶ峰! こっち、やばい。あの影、近づいてくる。弾も――』
ノイズが噛んで、言葉が潰れた。
城ヶ峰は即座に指示を出す。
「現場班、距離を取れ。民間人を優先で下げろ。撮影は――」
一瞬止めて、言い直した。
「……撮れるなら撮れ。ただし、命が先だ」
日下部が画面を睨んだまま、絞り出すように言う。
「“人間になろうとしてる”みたいに見える……」
城ヶ峰は答えない。
答えたら、確定する。
確定したら、増える。
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【異世界・王都イルダ/解析室】
羊皮紙の地図の上に、ノノが細い針を落とした。
カチ、と乾いた音。
「……ここ。ここも。あと、ここ」
点が増えていく。王都の外周。城壁下。市場の端。医療棟の近く。
リオが眉を寄せる。
「増えすぎだろ。昨日まで、こんな……」
「昨日の“揺れ”とは別。質が違う」
ノノは早口で言って、すぐにリオとアデルを見上げた。
「薄い膜が、勝手に立ってる。誰かが“開け方”を知ってるやつ」
アデルは短く息を吐いた。
「私たちだけで回すのは無理だね」
「うん。王都の結界部隊、魔術部隊、全部動かさないと」
ノノは言い切ってから、少しだけ声を落とす。
「……それと、例の“煤”みたいなやつ。現実側だけじゃない。こっちにも出る」
「人の形で?」
リオが聞く。
ノノは頷いた。
「形だけ。中身はスカスカ。なのに、近づかれると――たぶん、持っていかれる」
アデルの指が、地図の一点をなぞった。
医療棟。
「ユナの守りを厚くする。そこが落ちたら、全部が崩れる」
リオの喉が動く。
「……分かった。守りは任せる。俺は動く」
ノノがイヤーカフの調整をしながら、いつもの調子で言った。
「じゃ、まず城壁下。人が多い。ここ、今いちばん危ない」
「リオ、走るなら今。増え方が、嫌」
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【異世界・王都イルダ/王国警備局・医療棟/警護区画】
扉の前に、見慣れない数の兵が立っていた。
槍。盾。結界札。
通路の空気が“守り”の匂いになっている。
リオは一歩だけ中へ入り、ベッドの影を見た。
ユナは眠っている。顔色は前よりずっといい。
胸が上下している。それだけで、喉の奥が熱くなる。
「……行ってくる」
小さく言って、指先でユナの手に触れた。温かい。
アデルが隣で頷く。
「ここは任せよう。私たちは、外の火を消す」
背後で、セラの気配が薄く揺れた。
声は出さない。
でも、廊下の空気の粒が、ほんの少しだけ“整う”。
橋渡しが、世界を縫い止めようとしている。
リオは息を吸って、手を離した。
離すのが怖い。けれど、守るためには離れなきゃいけない。
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【異世界・王都イルダ/城壁下の通り】
通りの端で、人々が足を止めていた。
露店の呼び声が止まり、荷車が止まり、靴音が止まる。
白い膜が、石畳の上に“にじむ”。
その中心に、黒い影。
役人みたいな服の輪郭。
けれど顔は、煤。端で文字列がちらつく。
「……なんだ、あれ」
兵が呟く。
アデルは剣を抜かず、まず一歩前へ出た。
「近づかないで。下がって」
周囲の兵が戸惑いながらも動く。
人々が逃げ遅れそうになり、押し合いになりかける。
リオが掌を出した。
「〈捕縛・第三級〉――『鎖よ、絡め』!」
細い光が走り、鎖の形になる。
黒い影の足元へ巻きつく――はずが、鎖が“すり抜けた”。
手応えがない。空を掴んだみたいに。
「……効かない?」
リオの声が低くなる。
ノノの声がイヤーカフから飛ぶ。
『実体が薄い。捕縛より、隔てる方がいい。膜ごと押し返して』
アデルは頷き、詠唱した。
「〈遮断結界・第一級〉――光よ、ここに“境”を」
剣先から、淡い光が地面へ染みる。
蜘蛛の巣みたいに線が広がり、通りの真ん中に透明な壁が立った。
白い膜が、壁に触れて“ざらり”と止まる。
黒い影が、壁の向こうで首を傾げた。
人間みたいな仕草。
でも、その動きはどこか遅れていて、気味が悪い。
「……通すな」
リオが短く言う。
「通さない」
アデルの声は静かだ。静かなほど、強い。
「王都は、渡さない」
遠くで鐘が鳴った。
王都全体が、異常を知って動き始める合図。
魔術部隊、結界部隊、警備局――全部が、やっと同じ方向を見る。
そして、ノノが小さく言った。
『……まだ増える。これ、序章だよ』
白い膜が、別の路地でもにじみ始めていた。
世界が、同時にざらついていく。
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【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】
黒い“サラリーマン”が、一歩、近づいた。
警察官は声を張る。
「下がって! ゆっくりでいい、離れて!」
人々が動く。
その瞬間、誰かのスマホが勝手に点灯し、画面が一瞬だけ文字列で埋まった。
すぐ消える。
まるで“見せた”みたいに。
黒い影が、空気を押し出す。
触れていないのに、喉が詰まる。皮膚が粟立つ。
警察官は一歩も退かない。
普通の顔。普通の制服。
普通の口調。
「……大丈夫。必ず離れさせる」
その声だけが、なぜか胸に残った。
良い意味じゃない。
“覚えさせられた”みたいに。
白い膜が、駅前全体を包みかける。
世界が一枚、剥がれそうになる。
――そして、次の場所でも同じことが起きる。
そんな予感だけが、肌に貼りついて離れなかった。
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