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異世界殺人―クロスゲート・サスペンス―  作者: 橘靖竜
第八章 混濁転移世界

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第百七話 混濁の号令



【異世界・王都イルダ/地下・観測室】


石壁の奥に、さらに石壁がある。

その“奥”は、王都の喧騒から切り離されたように静かだった。


床に描かれた円は、魔術陣に見える。

けれど線の端々が、まるで細い文字列みたいに歪んでいる。光るたび、読み取れない“規則”が走る。


円の中心に、銀髪の男が立っていた。

カシウス。


黒ローブが三体、距離を置いて膝をつく。

顔は見えない。見せる必要がないからだ。


「報告」


カシウスの声は、低いのに乾いている。

怒っているわけではない。最初から熱を持たない声だ。


黒ローブの一体が、布の下で喉を鳴らすように言う。

「学園は、異界側へ……転移、完了。現実側の跡地は森に」


「よろしい」


別の一体が続ける。

「……代用サロゲートと葛原レアは、未帰還。観測の穴に――」


カシウスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。

不快、というより“計算外”に触れた時の顔。


だが、すぐに戻る。

何もなかったように。


「気にするな」


黒ローブが戸惑った気配を見せる。

カシウスは淡々と続けた。


「戻ってこられないなら、それまでだ。

器も、駒も、代わりはいくらでもある」


冷たい言葉なのに、そこには“捨てる”という感情すらなかった。

ただの処理。削除。整理。


カシウスは床の円を見下ろし、指先で空をなぞった。

円周の一部が、わずかに欠けている。――穴。


「問題は、あの穴の“質”だ」


黒ローブが小さく身を震わせる。

観測室の空気が、薄く冷たくなる。


「魔術ではない。私の観測層でもない。

文字列が走った。――あれは“プログラム”に近い」


カシウスは笑わない。

代わりに、息だけ吐いた。


「対抗者がいる。どこかの層で、世界を“書き換える”癖のある誰かが」


黒ローブの一体が、遠慮がちに問う。

「では……計画を変更しますか」


カシウスは首を振った。


「いいや。むしろ加速する」


床の円が、脈を打つように淡く光る。

カシウスの影が揺れ、その影の輪郭だけが別の形に見えた。


「点で揺らせば、点で塞がれる。

なら面で混ぜる。世界全体を“濁らせる”」


黒ローブたちの背筋が、同時に伸びた。

命令が来る。それが分かる。


「現実世界。異世界。

各地で同時に小規模転移を起こせ。学校だけでは足りない」


カシウスは指を一本立てる。


「駅。病院。商業施設。役所。

人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」


黒ローブが低く頷く。

「実行します。魔術杭は――」


「杭だけでは弱い」


カシウスの視線が、壁際の棚へ移った。

そこに、奇妙な“煤”が瓶に詰められている。黒い影。けれど影の端に、微細な文字列がちらつく。


「観測亡霊の破片を撒け」


黒ローブたちが息を呑む。

“あれ”は危うい。使えば使うほど、勝手に増える。


カシウスは構わない。


「人の形を真似たがる。体を欲しがる。

混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」


噂。記録。

人間が世界を信じるために頼るもの。


カシウスは、それを壊すのが上手かった。


「目撃者が増えれば、観測は固定される。

だが固定が“複数”になれば、世界は割れる」


黒ローブの一体が、慎重に言う。

「……カシウス様が直接、現場へ?」


「行く」


即答だった。


「現実の秩序の中に入り、秩序の顔で指示を出す。

一番効率がいい」


カシウスは棚から、制服の帽子を取った。


それを手にした瞬間、床の円が、呼吸みたいに淡く光った。

空気が一枚、薄くなる。

“膜”が降りる感覚。観測の膜――いや、社会の膜。


「〈偽装・第二級〉――『姿を借りる』」


短い詠唱のあと、変化は派手に起こらない。

煙も光もない。

ただ、そこに立つ“存在の輪郭”だけが、妙に自然になる。

誰の目にも引っかからない形。

誰の記憶にも残りやすい役割。


カシウスは帽子を戻し、黒ローブへ向き直った。


「最初の現場は、私が押さえる。

お前たちは、点を同時に開け。小さく、速く、数を」


黒ローブが三体、無言で頷く。


「駅。病院。商業施設。役所。

人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」


カシウスは指を一本立て、もう一本を重ねた。


「それから“煤”を撒け。破片を混ぜろ。

人の形を真似たがる、あの薄い残留物だ。

混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」


黒ローブの一体が、布の下で息を止めた気配を見せる。

危うい。増える。勝手に動く。

それでもカシウスは、ためらわない。


「目撃者が増えれば固定される。

だが固定が“複数”になれば、世界は割れる。

――濁らせろ。混ぜろ。二つの世界を、境界ごと」


床の円が、ひときわ強く脈打った。

円周の欠けた“穴”が、かすかに青白く揺れる。


「対抗者の穴は、いずれ場所が割れる。

塞がれたら、別の場所で開ければいい。

点は潰せる。面は潰せない」


黒ローブたちは、返事をしない。返事はいらない。


次の瞬間。

彼らは、最初からそこにいなかったみたいに消えた。


観測室に残ったのは、カシウスと、床の円と、

棚の奥で、瓶の中に揺れる黒い煤だけ。


煤の端で、読めない文字列みたいなものがちらつく。

虫の羽のように、薄く、しつこく。


カシウスは、世間話でもするみたいな口調で呟いた。


「……人間になりたいか」


返事はない。

でも煤は、わずかに“寄る”。

中心へ。温かいものへ。体温のあるものへ。


カシウスは帽子を指先で整え、静かに踵を返した。


「なら、見せてやる。

人間が“世界”を失う瞬間を」


◆ ◆ ◆


【異世界・王都イルダ/地上・城壁下の通り】


王都の朝は、いつも通りのはずだった。

荷車の軋み、露店の呼び声、石畳を叩く靴音。


――その音が、一拍だけ遅れた。


石畳の一部が、色を失う。

白い。乾いた白。影の居場所が薄い白。

誰かが足を止め、誰かが笑って誤魔化し、次の瞬間、笑いが消える。


「……今、なに?」


白は、湧くみたいに広がる。

石畳の上に、見たことのない線が走った。

魔術の紋に似ているのに、文字の列みたいに細い。


子どもが指をさして叫ぶ。

「ねえ、あれ!」


白の中心に、黒い“煤”が浮いた。

人の形をしようとして失敗した影。

肩や腕の輪郭が、途中でほどけて煙になる。


通りの空気が冷えた。

誰かが胸を押さえる。息が詰まる。


王都の警備兵が駆け寄る。

だが、煤は兵を見ない。

“体温”のあるものを探すみたいに、ゆっくり首だけ向ける。


次の瞬間、白がすっと引いた。

何もなかったように。

でも、石畳の上には、薄い“違う線”だけが残った。


誰もそれを説明できない。

説明できないものは、噂になる。

噂は、観測になる。


◆ ◆ ◆


【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】


午前のロータリーは、いつも通り混んでいた。

バスの発車音。自転車のベル。スマホの着信。

その全部が、同時に“ノイズ”を噛んだ。


人の声が、ざらつく。

空気が一瞬だけ“白く”なる。

蛍光灯の白じゃない。乾いた白。


足元のアスファルトが、ほんの少しだけ“軋む”。

地震とは違う。揺れではなく、世界の継ぎ目が擦れる音。


「なにこれ……」

「停電? いや、違う……」


スマホの画面が、勝手に一度だけ暗転する。

復帰した画面の端に、読めない細い文字列みたいなものが一瞬走って消えた。


ロータリーの端で、黒い“煤”がふっと立ち上がる。

誰かの影が勝手に増えたみたいに見える。

でも影の端が、文字みたいにちらついている。


煤は、ふらふらと人の群れへ寄ろうとする。

その動きが、やけに“探している”みたいで、気持ち悪い。


「……やばい、あれ……」


誰かが後ずさる。

後ずさりが連鎖し、連鎖がパニックになる。


そして白が、ゆっくりと広がり始めた。

点じゃない。

駅前全体が、薄い膜で包まれそうになる。


どこかで、誰かが怒鳴った。

「下がって! 近づくな!」


指示の声は、まだ“普通”だ。

だからこそ、人は従ってしまう。

従った先で、何が起きるか分からないまま。


白が、街の中心から滲み出す。

世界が、同時にきしみ始めた。


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