第百七話 混濁の号令
【異世界・王都イルダ/地下・観測室】
石壁の奥に、さらに石壁がある。
その“奥”は、王都の喧騒から切り離されたように静かだった。
床に描かれた円は、魔術陣に見える。
けれど線の端々が、まるで細い文字列みたいに歪んでいる。光るたび、読み取れない“規則”が走る。
円の中心に、銀髪の男が立っていた。
カシウス。
黒ローブが三体、距離を置いて膝をつく。
顔は見えない。見せる必要がないからだ。
「報告」
カシウスの声は、低いのに乾いている。
怒っているわけではない。最初から熱を持たない声だ。
黒ローブの一体が、布の下で喉を鳴らすように言う。
「学園は、異界側へ……転移、完了。現実側の跡地は森に」
「よろしい」
別の一体が続ける。
「……代用と葛原レアは、未帰還。観測の穴に――」
カシウスは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
不快、というより“計算外”に触れた時の顔。
だが、すぐに戻る。
何もなかったように。
「気にするな」
黒ローブが戸惑った気配を見せる。
カシウスは淡々と続けた。
「戻ってこられないなら、それまでだ。
器も、駒も、代わりはいくらでもある」
冷たい言葉なのに、そこには“捨てる”という感情すらなかった。
ただの処理。削除。整理。
カシウスは床の円を見下ろし、指先で空をなぞった。
円周の一部が、わずかに欠けている。――穴。
「問題は、あの穴の“質”だ」
黒ローブが小さく身を震わせる。
観測室の空気が、薄く冷たくなる。
「魔術ではない。私の観測層でもない。
文字列が走った。――あれは“プログラム”に近い」
カシウスは笑わない。
代わりに、息だけ吐いた。
「対抗者がいる。どこかの層で、世界を“書き換える”癖のある誰かが」
黒ローブの一体が、遠慮がちに問う。
「では……計画を変更しますか」
カシウスは首を振った。
「いいや。むしろ加速する」
床の円が、脈を打つように淡く光る。
カシウスの影が揺れ、その影の輪郭だけが別の形に見えた。
「点で揺らせば、点で塞がれる。
なら面で混ぜる。世界全体を“濁らせる”」
黒ローブたちの背筋が、同時に伸びた。
命令が来る。それが分かる。
「現実世界。異世界。
各地で同時に小規模転移を起こせ。学校だけでは足りない」
カシウスは指を一本立てる。
「駅。病院。商業施設。役所。
人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」
黒ローブが低く頷く。
「実行します。魔術杭は――」
「杭だけでは弱い」
カシウスの視線が、壁際の棚へ移った。
そこに、奇妙な“煤”が瓶に詰められている。黒い影。けれど影の端に、微細な文字列がちらつく。
「観測亡霊の破片を撒け」
黒ローブたちが息を呑む。
“あれ”は危うい。使えば使うほど、勝手に増える。
カシウスは構わない。
「人の形を真似たがる。体を欲しがる。
混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」
噂。記録。
人間が世界を信じるために頼るもの。
カシウスは、それを壊すのが上手かった。
「目撃者が増えれば、観測は固定される。
だが固定が“複数”になれば、世界は割れる」
黒ローブの一体が、慎重に言う。
「……カシウス様が直接、現場へ?」
「行く」
即答だった。
「現実の秩序の中に入り、秩序の顔で指示を出す。
一番効率がいい」
カシウスは棚から、制服の帽子を取った。
それを手にした瞬間、床の円が、呼吸みたいに淡く光った。
空気が一枚、薄くなる。
“膜”が降りる感覚。観測の膜――いや、社会の膜。
「〈偽装・第二級〉――『姿を借りる』」
短い詠唱のあと、変化は派手に起こらない。
煙も光もない。
ただ、そこに立つ“存在の輪郭”だけが、妙に自然になる。
誰の目にも引っかからない形。
誰の記憶にも残りやすい役割。
カシウスは帽子を戻し、黒ローブへ向き直った。
「最初の現場は、私が押さえる。
お前たちは、点を同時に開け。小さく、速く、数を」
黒ローブが三体、無言で頷く。
「駅。病院。商業施設。役所。
人が多い場所ほどいい。観測が追いつかない」
カシウスは指を一本立て、もう一本を重ねた。
「それから“煤”を撒け。破片を混ぜろ。
人の形を真似たがる、あの薄い残留物だ。
混乱を増幅し、噂を増やし、記録を汚す」
黒ローブの一体が、布の下で息を止めた気配を見せる。
危うい。増える。勝手に動く。
それでもカシウスは、ためらわない。
「目撃者が増えれば固定される。
だが固定が“複数”になれば、世界は割れる。
――濁らせろ。混ぜろ。二つの世界を、境界ごと」
床の円が、ひときわ強く脈打った。
円周の欠けた“穴”が、かすかに青白く揺れる。
「対抗者の穴は、いずれ場所が割れる。
塞がれたら、別の場所で開ければいい。
点は潰せる。面は潰せない」
黒ローブたちは、返事をしない。返事はいらない。
次の瞬間。
彼らは、最初からそこにいなかったみたいに消えた。
観測室に残ったのは、カシウスと、床の円と、
棚の奥で、瓶の中に揺れる黒い煤だけ。
煤の端で、読めない文字列みたいなものがちらつく。
虫の羽のように、薄く、しつこく。
カシウスは、世間話でもするみたいな口調で呟いた。
「……人間になりたいか」
返事はない。
でも煤は、わずかに“寄る”。
中心へ。温かいものへ。体温のあるものへ。
カシウスは帽子を指先で整え、静かに踵を返した。
「なら、見せてやる。
人間が“世界”を失う瞬間を」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/地上・城壁下の通り】
王都の朝は、いつも通りのはずだった。
荷車の軋み、露店の呼び声、石畳を叩く靴音。
――その音が、一拍だけ遅れた。
石畳の一部が、色を失う。
白い。乾いた白。影の居場所が薄い白。
誰かが足を止め、誰かが笑って誤魔化し、次の瞬間、笑いが消える。
「……今、なに?」
白は、湧くみたいに広がる。
石畳の上に、見たことのない線が走った。
魔術の紋に似ているのに、文字の列みたいに細い。
子どもが指をさして叫ぶ。
「ねえ、あれ!」
白の中心に、黒い“煤”が浮いた。
人の形をしようとして失敗した影。
肩や腕の輪郭が、途中でほどけて煙になる。
通りの空気が冷えた。
誰かが胸を押さえる。息が詰まる。
王都の警備兵が駆け寄る。
だが、煤は兵を見ない。
“体温”のあるものを探すみたいに、ゆっくり首だけ向ける。
次の瞬間、白がすっと引いた。
何もなかったように。
でも、石畳の上には、薄い“違う線”だけが残った。
誰もそれを説明できない。
説明できないものは、噂になる。
噂は、観測になる。
◆ ◆ ◆
【現実世界・地方都市/駅前ロータリー】
午前のロータリーは、いつも通り混んでいた。
バスの発車音。自転車のベル。スマホの着信。
その全部が、同時に“ノイズ”を噛んだ。
人の声が、ざらつく。
空気が一瞬だけ“白く”なる。
蛍光灯の白じゃない。乾いた白。
足元のアスファルトが、ほんの少しだけ“軋む”。
地震とは違う。揺れではなく、世界の継ぎ目が擦れる音。
「なにこれ……」
「停電? いや、違う……」
スマホの画面が、勝手に一度だけ暗転する。
復帰した画面の端に、読めない細い文字列みたいなものが一瞬走って消えた。
ロータリーの端で、黒い“煤”がふっと立ち上がる。
誰かの影が勝手に増えたみたいに見える。
でも影の端が、文字みたいにちらついている。
煤は、ふらふらと人の群れへ寄ろうとする。
その動きが、やけに“探している”みたいで、気持ち悪い。
「……やばい、あれ……」
誰かが後ずさる。
後ずさりが連鎖し、連鎖がパニックになる。
そして白が、ゆっくりと広がり始めた。
点じゃない。
駅前全体が、薄い膜で包まれそうになる。
どこかで、誰かが怒鳴った。
「下がって! 近づくな!」
指示の声は、まだ“普通”だ。
だからこそ、人は従ってしまう。
従った先で、何が起きるか分からないまま。
白が、街の中心から滲み出す。
世界が、同時にきしみ始めた。




