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青春恋愛

離した手のひらは空に透かして

作者: 朱宮あめ


 私の世界は、カラフルに色づいている。

 赤、青、黄色。真っ白なキャンバスに筆で色を落とすたび、私の世界は色づいていく。

 好きなものにあふれた優しい世界で、私はのびのびと生きている。

 これからもこんなふうに好きなものに囲まれて生きていけると思っていた。信じて疑わなかった。

 ――あの日までは。



 ***



 街中がきらきらしたイルミネーションに彩られる十二月の半ば。私は、幼なじみの(かなた)とイルミネーションを見に、渋谷へやって来ていた。

 高校三年生の私たち。先日、お互いに推薦の結果が出て、無事進学先が決まったのだ。私はかねてより目指していた都内の美大の推薦が通り、奏はスポーツ推薦で有名私立大への内定が出た。

 今日はそのちょっとしたお祝いデートである。

 ふわふわと瞬く、木々に縫い付けられた光を見上げ、私は声を上げた。

「うわぁ〜すごいきれい! 私、ここ来るの初めてだよ」

「俺も。結構すごい人だね」

「うん」

 藍色の中に落ちた青白いイルミネーションの光たちは、淡く優しい色をしている。星の海かのような光景に見惚れていると、奏が「ほら」と私に手を差し出した。

「へ? なに?」

「はぐれるといけないから」

「あぁ、そっか。そうだよね」

 周囲を見る。辺りはかなりの人で溢れ返っている。もしはぐれてしまったら、この中を探すのは大変そうだ。イルミネーションのトンネルの中とはいえ、結構暗いし。

 私は素直にその手を取った。そのまま、光のトンネルをのんびりと歩く。

 寒いのに心がポカポカする感じがした。

「ことり。こっち向いて」

 ふと、奏が私を呼んだ。

「なに?」

 顔を向けた瞬間、青一色だった視界に、なにかがチラついた。直後、ふわふわしたものが首元に触れ、思わず手をやる。

「え……」

 驚いて目を瞬かせていると、奏がふっと笑った。

「クリスマスプレゼント」

「わぁ……」

 マフラーだった。暗くて少し見えにくいけれど、赤と黒のチェック柄だ。私の学校の制服も黒と赤が基調になったセーラー服だから、制服に合わせてもきっととても合うだろう。

「ありがとう!!」

「安物だけどな」

 と、奏は少し申し訳なさそうに笑った。

「ぜんぜん! ……でもどうしよう。私、なにも用意してなくて……」

「いいよ。これは俺があげたかっただけだからさ。合格おめでとう、ことり」

 私は嬉しくて、奏が巻いてくれたマフラーに顔を埋める。

「ありがとう! 私、これ一生大切にするね!」

 嬉しくて声を弾ませる私に、奏は大袈裟だよ、と笑った。そして、マフラーを撫でていた私の手をそっと握る。驚いて顔を上げると、奏は頬を染めて私を見下ろしている。

「奏?」

「あのさ……俺、好きなんだけど」

 その瞬間、周囲のきらめきがぐっと増したような気がした。風が吹き、奏のすぐ背後にあったツリーに落ちていた雨粒が、ぽとりと滴る。昼前まで降っていた雨がイルミネーションの電球に落ちて、光をさらに淡く反射させていたのだ。

「ことりが、好きなんだよ」

 見慣れたはずのその顔は、いつの間にか知らない人のように大人な顔をしていて、どこか胸がざわざわと騒いだ。

 奏は少し照れくさそうに頭を搔いた。

「俺はずっと、ことりのことを幼なじみじゃなくて女の子として見てた。この意味、分かるか?」

 こくりと頷く。

「これから俺たちは、別々の学校に行く。そうしたらきっと、今までのように会うことはできなくなると思う。俺は家を出るし、バイトとか課題とかで忙しくもなるだろうし……」

「あ……そっか。そうだよね」

「でも、俺はずっと、だれよりことりのそばにいたいと思ってる」

 私の手を握る奏の手は、想像よりずっと大きくて骨張っていた。

「付き合ってほしいんだ」

 奏を見上げる。奏の瞳は吸い込まれそうなほどに澄んでいる。

「うん。私も、奏のこと大好きだよ」

 おずおずとそう答えると、奏はふっと微笑んだ。

「知ってる」

 今は十二月なのに、私の心はまるで春風に包まれたかのようにあたたかくなった。



 ***



 お母さんが倒れたという連絡が入ったのは、その直後だった。

 職場で突然昏倒し、救急車で運ばれたらしい。

 検査の結果、お母さんはくも膜下出血という脳の病気を患っていて、緊急手術に入るということだった。

 急いで病院に駆けつけた私は、慣れない病院という場所で、薬液の匂いを嗅ぎながら呆然と立ち尽くしていた。

 くも膜下出血というものが、どれだけ恐ろしいものなのか分からない。でも、病院になどほとんどかかったことのない私ですら知っている病名だ。簡単な病気ではないことだけは分かった。

「どうしよう……お母さん、死んじゃったらどうしよう」

 恐怖が胸を支配する。

 お母さんは、お父さんと別れてからずっと私をひとりで育ててくれていた。絵の道に進みたいという私を予備校に通わせるため、夜もバイトをかけ持ちしてくれていた。こんなに、ボロボロになるまで……。

「お母さんが倒れたのは、私のせいだ……」

 思い返せば、私はいつもわがままばっかりだった。お母さんの苦労を省みたことなんて一度もなかった。

 私は、自分のことばっかりで……。

「大丈夫だよ。小春(こはる)さんがことりを置いていくわけないだろ」

 呆然とする私に、奏はずっと寄り添ってくれていた。

 手術中という赤い看板のライトが落ちて、術衣を着たドクターが出てくる。

 そして、手術は終了したと告げられた。

 まるで、ドラマのようだと思った。

 思い足取りで、お母さんがいるICUへ向かう。

 白いシーツの上で眠るお母さんは、とても小さく見えた。


 その後、お母さんは翌日には目を覚ました。しかし、目覚めたお母さんには右半身の運動麻痺が残ってしまっていた。

 覚悟はしていた。

 後遺症が残るかもしれないということは、手術の前に担当のドクターにいろいろと聞かされたから知っていた。

 お母さんが目覚めるまでの間、自分でもネットでいろいろと調べた。

 脳の病気は、運動麻痺だけでなく、吃音障害や記憶障害などの高次脳機能障害こうじのうきのうしょうがいが残るかもしれないとも書かれていた。

 幸い、お母さんは意識と言語はしっかりしていた。けれど、右半身がうまく動かせないようで、特に重いのは右足だった。自力で立つことすらままならない。

「ごめんね、ことり。びっくりしたでしょ」

 お母さんが申し訳なさそうに私を見る。私はぶんぶんと首を振った。

「私こそ、ごめん……ずっとお母さんに無理させてたよね。こんなことになるまで私、ぜんせん気が付かなくて……」

「なに言ってるの。私は親なんだから、子供のために無理をするのは当たり前なのよ。あなたはなにも悪くない」

 顔を上げなさい、とお母さんは言う。けれど、私の後悔が薄れることはなかった。

 お母さんが目覚めて数日が経ち、京都からおばあちゃんがお見舞いに来た。

 京都に一人暮らしするおばあちゃんは、今年六十歳。下鴨でひっそりと小料理屋を営んでいる。

 それは、私がおばあちゃんが持ってきてくれたバラとカーネーションの花を飾るため、家に花瓶を取りに帰って、戻ってきたときのこと。

「――だから、そんな身体じゃひとりでまともな生活なんてできへんやろ」

 中から聞こえてきた会話に、私は咄嗟に扉の影に身を隠した。

「うちへ戻ってきなさい。ことりももう大学生やし、ひとり暮らしにちょうどいいタイミングや」

「そうねぇ……」

「ことりに負担かけたらあかんでしょう」

「……うん。少し考えてみるわ」

 お母さんが……京都に。

 花瓶を持つ手に力が籠った。


「……とり……ことり?」

 ぼんやりしていると、ふとお母さんに肩を揺すられてハッとする。顔を上げると、お母さんが心配そうに私を見つめていた。

「あ、ごめん。なに?」

「ことり、もうすぐ冬休みも終わりじゃない? 課題はちゃんと終わってる?」

「……あ」

 ハッとする。

 そういえば、来週には学校が始まるのだった。卒業を待つだけの身とはいえ、一月末にはテストもある。

「そ、それは……うん、大丈夫。これからやるから」

「これからって……学校はもう明後日からなのよ?」

 進路が既に決まっているせいか、課題の存在をすっかり忘れて放置していた。

「まったく……大学が決まったからってサボっちゃダメよ。ことりの推薦が通ったってことは、落ちた子がいるってことなのよ」

「あ……うん。そうだよね」

「絵はちゃんと描いてるの? 予備校もサボってないわよね」

「うん……大丈夫。ちゃんと描いてるから」

 嘘だ。描いていない。だって、お母さんのことが気になって、絵を描く余裕なんてなかった。

「私のことは気にしなくていいから。ことりはちゃんと目の前のことをやりなさいね」

 そうは言っても、と思いながら私は小さく頷いた。


 とぼとぼと家路を歩いていると、奏から着信が入った。

「……もしもし」

『あ、ことり? 今どこ?』

「もうすぐ家だけど」

『そっか……。小春さん、目を覚ましたんだってな。よかったよ。安心した。今度お見舞いに行くな』

「うん」

『食べ物はなんでも食べれる? お見舞いには果物かなって考えてたんだけど……』

「うん……」

『……どうした? なんか元気ないな』

「……お母さん、麻痺が残っちゃった」

『え……』

 スマホの向こうで、奏が息を呑むのが分かった。

「私のせいで、お母さんずっと働き詰めだったから……」

 声が震える。

「私……こんなことになるまでお母さんの体調にぜんぜん気が付かなかった。お母さん、倒れるまでに相当な頭痛を感じていたはずだって先生言ってた。探したら、家に頭痛薬がいっぱいあったんだ。体調悪そうにしてたこともあったかもしれない。それなのに、私……いつも自分のことばかりで」

『ことりだって受験で忙しかったんだし、仕方ないよ』

「……お母さん、私のことは気にしないでって言ったんだ」

 帰り際、お母さんは私に言った。

 でも、そんなわけにはいかない。だってお母さんは、これから働くどころか自分のことだって満足にできないかもしれないのだ。

「今日、京都のおばあちゃんが来たんだ」

『お見舞いに?』

「うん。それでね……お母さん、私が大学に入ったらおばあちゃんと一緒に京都に帰る話をしてたの」

『まぁ……ひとりじゃ大変だもんな』

「……私、大学行くのやめようかな」

 ぽつりと呟くと、奏が戸惑いの声を上げる。

『は? いや、なんでそうなるんだよ?』

「だって、私のせいでこんなことになったのに、私だけ夢を追いかけるなんてできないよ! 今度は私がお母さんを支えてあげなきゃ……」

『なに言ってんだよ、ダメだよ! 小春さんは、そんなこと絶対望んでない! そもそも小春さんは、お前を大学に行かせるために仕事を頑張ってたのに……』

「分かってるよそんなこと!」

 言われなくたって分かっている。でも……。

「ICUにいるお母さんを見て気付いたの。お母さん、すごく小さくて……歳とってた」

 私の中のお母さんは、若くて可愛くて、大きかったはずなのに。いつの間に、あんなに……。

 病室で見たお母さんは皺がたくさんあって、顔色も悪かった。

 いつもはきれいに化粧をしてるから、気付かなかった?

 いや、そんなことはない。私が現実を見ようとしていなかっただけだ。お母さんの優しさに甘えて、私は今を見ていなかった。

『まぁ、俺らももうすぐ大学生になるんだし……それは仕方ないだろ』

「……考えたんだ。私がお母さんと一緒にいられる時間って、あとどれくらいなのかな」

『それは……』

 奏が言葉に詰まったように黙り込んだ。

 入院しているお母さんを見て確信した。お母さんと一緒にいられる時間は、きっともうそんなにない。

 それならば、私はもうお母さんをひとりになんてしたくない。無理させたくない。

 すると、奏が寂しげに言った。

『……なんでそんなこと言うんだよ。一緒に夢を叶えようって約束したじゃん。あれはどうなるんだよ。諦めるのか? じゃあ、俺は? ことりが京都に行ったら、それこそ離ればなれじゃん。小春さんと離れるのはダメで、俺と離れるのはいいの? なんだよそれ……俺はいやだよ。ことりと一緒にいたいのに』

「……それは……」

 返す言葉を探していると、奏が不意に言った。

『ことりにとって、俺ってそんなもんだったんだな』

 寂しげな声にハッとする。

「違うよ、かな……」

 慌てて弁明しようとしたものの、プツッと通話が切れてしまった。

 無情な機械音を聴きながら、私は今度こそ立ち尽くした。



 ***



 あれから奏とは気まずいまま時は過ぎ、あっという間に新学期が始まった。重い気持ちのまま、私は家を出た。いつもなら家の前で奏が待っている時間。しかし、今朝はいなかった。

 少し待ってみたけれど、奏がやって来る気配はない。うちのアパートのとなりにある立派なレンガ造りの家を見上げる。インターホンを鳴らしてみようかとも考えたが、やめた。

 早朝の色褪せた通学路を歩きながら、もやもやと考える。

 あの日、あの電話の後から、私は一度も奏と顔を合わせていない。それどころか、連絡すら取り合っていない。

 こんなことは始めてだった。

 まさか、奏がそんなに怒るとは思わなかったのだ。私たちは今恋人同士。だから、離れても繋がっている気がして、奏とは大丈夫だと思っていた。

 でも……奏の方は違った。彼氏なのにそばを離れる選択をしてしまったから怒ったのか、それともまたべつの要因なのかは分からない。とにかく、彼を失望させたのは私だ。

「はあ……さむ」

 ひとりで河川敷を歩きながら、マフラーに顔を埋める。

 奏はもう先に行ってしまったのだろうか。教室で顔を合わせたらなんと言おう。気まずい。

 真冬の空を見上げながら、ぼんやりと考える。

 今まで、喧嘩したときってどうやって仲直りしていたっけ……。冷たい風に、思わず身をすくめて立ち止まる。

 目を閉じると、

『ごめん』

 と、奏の頼りない声が聞こえた気がした。

 目を開くが、そこに奏の姿はない。ベルを鳴らして、自転車が追い抜いていく。その背中を見つめ、ふと思い出す。

 ……そうだ。いつもは奏が謝りに来たのだ。泣きながら、さっきはごめんって謝ってきた。いつもいつも。奏が先に折れてくれたから、私たちはすぐにいつも通りに戻れた。

 ……それなのに。

 スマホを見るが、奏からの連絡はなかった。

「……ごめんって言ってよ。奏のバカ」

 そんなに怒らせたのだろうか。

 私が悪いの? 私はただ家族を心配しただけなのに。

 私にはお母さんしかいない。お父さんも、兄妹もいない。大切に思うことのなにがいけないのだろう。

 きっと、奏には分からないのだ。奏にはしっかりとしたお父さんとお母さんがいる。裕福な家庭だし、ふたりとも元気だから。家族を失う怖さが、ひとりぼっちの寂しさが分からないのだ、きっと。

 学校へ着き、昇降口に入ったところでクラスメイトの美奈子(みなこ)に声をかけられた。

「あけましておめでとーっ! ことり!」

「あ、みなちゃん。あけましておめでとう。今年もよろしくね」

「こちらこそ! ……ってあれ? 今日は一条(いちじょう)くん一緒じゃないの?」

 美奈子がきょろきょろと辺りを見回す。

「あー……」

 いつもは奏と登校しているから、私ひとりというのが物珍しく映ったらしい。

「……うん。今日は別々」

 沈んだ声を出す私に、美奈子が首を傾げる。

「おや? どうした? 喧嘩でもした?」

「……いや……喧嘩というかなんというか」

 曖昧に返すと、美奈子はくすりと笑った。

「珍しいねぇ。おしどり夫婦なのに。ま、どうせすぐ仲直りするんだから、そんな気にしなくてもいいんじゃない?」

「……うん」

 頷いたものの、やはり教室に入っても奏の姿はなかった。始業時間になっても登校してこない。

 さすがに心配していると、先生が入ってきた。先生の顔を見るや、うろついていた生徒たちは慌てて席に着く。

「えー、おはよう、みんな。まずは新年、あけましておめでとう。今年はそれぞれ勝負の年になりますが、頑張っていきましょう」

 先生が教室内をぐるりと見渡す。奏の席をちらりと見て、少し表情を曇らせた。

 なんだろう、と違和感を覚えていると、先生は言った。

「それからな……一条なんだが、残念ながら一条はしばらく休むことになった」

「えっ……」

 休み? どうして?

 しかし、先生はそれ以上理由は言わない。

 困惑していると、後ろの席の美奈子が私の背中をノックした。振り向くと、こそっと声をかけられる。

「ことり、聞いてた?」

「いや……」

 首を振る。

 聞いていない。

 しかも、今日だけでなくしばらく休むって、一体どういうこと?

 私はこっそりスマホを出して通知を確認する。やはり、奏からの連絡はない。

「どうしてなにも言ってくれないの……?」

 休み時間に奏にメッセージを送ったものの、返事どころか既読マークすらつかなかった。

 さすがに焦り、電話をかける。

 ぷつりとコール音が途切れた瞬間、私は早口でまくし立てた。

「あっ……奏!? ちょっと、どうしてメッセージ返してくれないのよ! そんなにあのときのこと怒って……」

『――もしもし?』

 強い口調で責め立てていると、予想外の声が聞こえてきた。私はぎょっとして口を噤む。

「あ……あ、あれ? えと……?」

『ことりちゃん。私よ、奏ママ。ごめんねぇ、私が出たからびっくりしたでしょ』

 出たのは奏ではなく、奏のお母さんだった。奏のお母さんはのんびりとした声で笑った。

「あ、あの……奏は? 今日、学校に行ったら奏はしばらく休むって先生が言っていて……私、そんなことぜんぜん聞いてなかったからびっくりしちゃって」

『あぁ。そうよね。いろいろと立て込んでいたから、ちょっと連絡ができなくて……ごめんなさいね。実は奏ね……』

 奏のお母さんの話を聞いている間、私の胸はざわざわと騒いでいた。



 ***



 流れていく景色も、信号機の音も、車のクラクションも。私の五感を刺激するすべてがガラス一枚を隔てたかのように遠い。

 お母さんが倒れたあの日から、私は何度この道を通ったか分からない。

 たった二週間あまりの間に、見知らぬ道からよく見知った道になったこの道を、まさかまたこんな気持ちで通らなきゃならないだなんて……。

 走りながら、荒い息を吐きながら、瞳に涙を溜めながら、いやだと叫ぶ。

 いやだ、奏……お願いだから、死なないで。

 祈りながら、私は病院へ向かった。

「奏っ……!」

 無機質な白い建物に入り、まっすぐ受付へ向かう。

 奏のお母さんから聞いた部屋番号を訊ね、病室へ駆け込んだ。

 濃い薬液の匂いが漂う部屋。飾り気のない清潔なシーツの上に、青白い顔をして眠る奏がいた。

 全身の体温が、急激に下がっていく心地になる。

「奏」

 絞り出すように名前を呼ぶけれど、奏はぴくりともしない。辛うじて、奏の胸が微かに上下していることに安堵する。

 よかった。生きている。

 上がった息を整えながらよろよろとベッドへ近づくと、ベッド脇のスツールに腰を下ろしていた奏のお母さんが、私を見て立ち上がった。

「ことりちゃん。来てくれてありがとう。ごめんね、心配かけて」

「奏ママ! あの、奏は……?」

 一体、なにがどうなっているのか。目の前の状況がまったく理解できない。

「あぁ、大丈夫よ。今は眠ってるだけだから」

「そうですか……」

 奏ママの話によると、奏は年末に交通事故に遭い、ここに救急搬送されたのだそうだ。

 神社に行った帰り道、信号無視した飲酒運転の車に撥ねられたのだという。

 話を聞きながら奏を見つめる。奏の身体はあちこち擦り傷や痣だらけで、とても痛々しかった。

 涙が込み上げ、小さく嗚咽が漏れた。

「奏……奏。私だよ。分かる?」

 しかし、奏は目を開けない。ぴくりとも動かない。辛うじて胸が上下していることに安堵するけれど、儚いその横顔に、苦しいほど胸が締め付けられる。

「奏ね、事故の日、神社にお参りに行ってたみたいなの」

「神社?」

 合格祈願ではない。だって奏はそのとき既に大学に受かっていた。

 なら、なんのために……。

 黙り込んで考えていると、冷たい声が響いた。

「――余計なことを言うな」

 私でも奏のお母さんでもない声。

 ハッとして顔を向けると、奏が目を開け、こちらを見ていた。

「奏!!」

 奏の傍らにしがみつくように泣く私を、奏がちらりと見る。

 しかし奏は、私を見ても表情ひとつ変えることはなく、

「母さん。なんでこいつを呼んだんだよ」

 と、驚くほど低い声で言った。

「こいつって……」

 奏らしからぬ口調に戸惑いを隠せないでいると、奏のお母さんが深いため息をついた。

「こら。ことりちゃん、すごく心配していたのよ。学校だって始まったんだから、ずっと言わないわけにもいかないでしょう」

「勝手なことするなよ。……よりにもよって、なんでことりに言うんだよ。こいつはもう幼なじみでもなんでもない。赤の他人だ」

 奏はそう、淡々と言った。

「待ってよ、奏。……どうして? だって私たち、恋人じゃ……」

 ふっと、奏は吐き捨てるように笑った。

「は? 恋人?」

 睨むように私を見つめる奏に、背筋がぞくりと粟立つ。

「なにが恋人だよ。ことりにとって一番大切なのは、お母さんなんだろ? どうせ、高校を卒業したら俺のことなんてあっさり捨てて京都に行っちゃうんだから、もう関係ないだろ」

「関係ないって……どうしてそんなこと言うの……?」

 すると、奏は冷ややかな視線を私に向けた。

「……被害者面すんなよ。お前が先に俺を捨てたくせに」

「え……」

「お前は、大好きなお母さんのそばにいられればなんでもいいんだろ。これまで必死に追いかけてきた夢だって、簡単に諦められるくらいお母さんが大好きなんだもんな。俺はそんな奴好きじゃない。好きになりたくもない。お前なんか、勝手に生きたらいいんだ」

 人が変わったように声を荒らげる奏に、私は呆然とした。俯きかけて落ちた視界の中に映りこんだものにハッとする。奏の足が伸びているはずの右側部分だけ、異様にシーツが平らになっていた。まるで、そこにはなにもないかのように。

 奏の右足が、失くなっていた。

「奏……その、足……」

 奏が私から目を逸らす。

「帰れ」

「奏。いい加減にしなさい。せっかくお見舞いに来てくれたことりちゃんになんてことを言うのよ。ことりちゃんは事故となんの関係もない。身体が上手く動かなくていらいらするのは分かるけど、ことりちゃんに当たるのはやめなさい」

 奏ママの言葉に、奏が再び声を荒らげる。

「うるさい! お前らになにが分かるんだよ! こっちは……目が覚めたら、足が失くなってたんだぞ! 元の生活どころか、今後一生サッカーはできないって言われたんだ! 大学の推薦も白紙になって……その気持ちがお前らに分かるのかよ? 分かるわけない。お前らには足がある。大学だって決まってる」

 奏が私をキッと睨む。

「……代わってよ。夢を諦めるんだろ? 夢より家族を取るんだろ? それなら、俺にその足をくれよ。突然もうサッカーはできないなんて言われたって、納得できないんだよ。お前には思う存分絵を描ける腕があるのに……! なんで俺なんだよ……ずるいよ……。俺が失ったものをぜんぶ持ってることりは、ずるい」

 憎しみの籠った瞳で、奏は私を睨みつけていた。

「…………」

 泣き喚く奏に私は、なにも言えなかった。奏が足を失くした。その現実に耐えられなかったのは、私も同じだった。

「もう、帰って。お前の顔なんて、二度と見たくない」

 奏はひどく静かな声で言った。

「……ごめん」

 なにに対してのごめんなのか、言った自分でさえ分からない。無意識に口から零れたその言葉は、その後もずっと私の心の中で渦巻いていた。

 病室を出た瞬間、涙が溢れた。

 立っていられなくて、私はその場にしゃがみこむ。

 奏の怒鳴り声なんて、初めて聞いた。いつだって穏やかで、声を荒らげることなんてなかった。私がどんなわがままを言っても、笑っていた。

 温厚という言葉をそのまま抱いて生まれてきたような人だったのに。

 どうして? あんなの、奏じゃない。

 怖かった。

 まるで、仇でも見るような顔をして、私を見ていた。睨んでいた。



 ***



 私は、重い足取りで家に帰った。お母さんはまだ入院しているため、今はひとり暮らし状態だ。

 鍵を開け、電気を付ける。ひとりきりの家には音も温度も色もない。

 初めて、孤独を感じた。

 心臓に釘を打ち込まれたみたいに、胸がズキズキする。

 私はこの家で、これまで一度も寂しいと感じたことはなかった。お母さんが家にいるときは、いつも調理の音や笑い声なんかが耐えることなく響いていたし、絵で結果が出せなくて辛いときも、だれかと比べて落ち込んでいるときも、お母さんが慰め励ましてくれたから頑張れた。

 お母さんが家にいないときだって、スマホでメッセージのやりとりをしたりして、常にその存在をすぐ近くに感じていた。

 ……でも。

 お母さんが京都に帰ってしまったら、私はひとりきりだ。

 家のことも自分のことも、すべて自分でやらなくちゃいけない。学校の愚痴だってだれにも言えなくなる。耐えられるだろうか。私に……。

 ――それなら、と思う。

 お母さんがこうなったのはぜんぶ私のせいなのだから、今度は私がお母さんを支えてあげなくちゃいけない。



 ***



 二月の初め。

 自由登校になった今も、私はひとりぼっちの生活をしている。まだ慣れない家事にあくせくしていたら、一月はあっという間に終わっていた。

 スマホを開くと、美奈子からたくさんの写真やメッセージが届いていた。彼女は今クラスの仲良しメンバーと卒業旅行で沖縄に行っている。

 美奈子たちと予定を立てていた卒業旅行。私はキャンセルをした。とても旅行なんて気分じゃなかったし、お金だってかかる。今は無駄遣いする余裕はうちにはない。

 美奈子が送ってきた写真をスクロールして見ていると、壁掛けの時計が軽やかなメロディを鳴らした。十一時だ。

 今日はお母さんが退院する日。手続きもあるだろうし、そろそろ行かなくてはと腰を上げる。

 病院まで迎えに行くと、お母さんは既に帰り支度を終え車椅子に座り、私を待っていた。

「ことり。お迎えありがとうね」

「ううん」

 お母さんはまだ自力で歩くことはできない。車椅子に乗ったお母さんはやっぱり小さくて、胸がぎゅっとする。

 帰り道、お母さんは私に、公園に寄ろうと言った。そこでお母さんは、おばあちゃんがいる京都に帰ることを告げた。

「ごめんね。でも、ここにいてもことりの負担になっちゃうだけだから」

 車椅子の取っ手に力が篭もる。

「……ねぇ、お母さん」

 私は車椅子の前に回り、お母さんを見つめる。

「私も、一緒に行く」

「え?」

 お母さんが驚いた顔をする。

「私も京都、一緒に帰る」

「なに言ってるの? あなたには大学があるでしょ」

「大学行くの、やめる」

 お母さんが目を瞠る。

「私ね、お母さんが倒れてから、ずっと考えてたんだ。これまでお母さんは、私のためにずっと頑張ってくれてた。それなのに私、いつも自分のことばかりでぜんぜんお母さんの手伝いもしてなかったし、苦労も理解してなかった。……だから、これからはお母さんのために頑張りたいの」

「待って、ことり」

 お母さんがしんとした声で私を呼ぶ。

「絵は?」

「絵は……もちろん大好きだけど、大学に行かなくても描けるし……。そもそも絵なんて描かなくてもだれも困らないし、私くらい上手い人はいっぱいいるし。だから……」

「ことり」

 お母さんは静かに私の話を遮った。私は口を噤み、お母さんを見る。

「いい加減、大人になりなさい」

「え……?」

 ひとこと、お母さんはそれだけを言って、それ以上はなにも言わなかった。

 私は困惑して、なにも言葉を返すことができなかった。



 ***



 家に帰ると、お母さんは拍子抜けするほどいつも通りだった。

 私は、精一杯お母さんの手伝いに励んだ。

 買い物に行って、お母さんの指示のもと食事を作って、形の悪いハンバーグとびちゃびちゃのごはんとしょっぱい味噌汁をふたりで食べた。

 洗濯物を畳みながらのんびりテレビを見てお茶を飲み、ふたりでお風呂に入って布団に横になる。そんな日々を数日過ごした。

 こんなにお母さんと一緒にいたのは、どれくらいぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。物心ついた頃からお母さんは働き詰めだったから。だから私は、いつも家でひとりで絵を描いたり奏の家に行って遊んだりしていた。

 あの日々に文句なんてこれっぽっちもない。だって、あの日々がなかったら今の私はいないのだから。

 でも、やっぱりこの家には、お母さんの柔らかな笑顔がないとダメなのだ。

 だって、私ひとりじゃなにをしたらいいのか分からない。


 倒れたことをきっかけに仕事を辞めたお母さんは、私が家にいる間、録画して溜め込んでいた映画をのんびりと観ていた。

 卒業式の予行練習を明日に控えた、二月の下旬。私はだいぶ家事にも慣れてきた。

 洗濯物を畳み終えてお風呂掃除も終わると、手持ち無沙汰になってしまった。夕飯の支度までには時間もあるし、昨日買い物にも行ってしまった。

「お母さん、私、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」

「うん。分かった。気を付けるのよ。暗くなる前には帰ってきてね」

「はーい」

 コートを羽織り、家を出た。

 宛もなく街の中をふらふらして、最終的に家の近くにある公園に入った。ベンチに座り、寒いなか遊具の間を駆け回る子供たちを眺める。

 子供の持つカラフルな色や声が、すっかり錆び付いた公園を彩る。

 ふと、四歳くらいの男の子が砂に足を取られた。

 あっと思った。

 男の子はそのまま、ころんと転ぶ。砂の上だから怪我はないだろうが、びっくりするには十分だったのだろう。一瞬ぽかんとしたあと、男の子は我に返ったように大きな声で泣き出した。

 すると、すぐに泣き声に気付いたお母さんが駆けつける。泣き喚く男の子を、お母さんは笑いながら優しく抱き上げた。

 お母さんに抱っこされたら、男の子はあっという間に泣き止んで、けらけらと笑い出した。

 その幼い声に、ついこちらまで表情が綻んでしまう。

『――いい加減、大人になりなさい』

 不意に、お母さんが私に言った言葉を思い出した。

「…………」

 お母さんは、どうしてあんなことを言ったのだろう。

 私はただ、お母さんにこれまでの恩返しをしたくて決断をしただけなのに。

 それなのに、あのときのお母さんは今にも泣きそうな顔をしていた。

 嬉しそうではなかった。むしろ、とても悲しげな……。

 公園で遊ぶ子供たちと、子供たちを見守るお母さんたちを眺めながら、ぼんやりと考える。

「――あ」

 そっか。肩から力が抜けるような心地を感じる。

 ようやく分かった気がした。

 お母さんがあんな顔をしたのは――。

 そのとき。スマホが振動した。

「奏……」

 久々に見るその名前に、私は一瞬迷ったものの恐る恐る通話ボタンをタップする。

「もしもし」

『…………』

「……奏?」

『……この前は、ごめん。ひどいこと言って』

 今にも消え入りそうな声で、奏が言う。

『事故に遭って、動揺してたんだ。完全に八つ当たりだった』

 その声は私がよく知る幼なじみそのもので、少しホッとする。

「……ううん。私こそ、奏の気持ちぜんぜん分かってあげられなくてごめん」

『……俺さ、ことりとずっと一緒にいたかっただけだった』

「うん。分かってるよ」

『ことりが、小春さんのことをとても大切に思ってることは分かってた。でも……だから悔しかったんだ。俺だって、ずっとことりの近くにいたのに、ことりは迷いなく俺よりも小春さんを選んだ。それがなんだか寂しくて……』

「それは」

『でも、考えたら当たり前だよな。小春さんはことりにとって、たったひとりの家族なんだから』

「……奏」

『だから、バチが当たったんだと思う』

「え?」

 バチ? どうして、奏に?

『彼女のたったひとりの家族なのに、その家族に少しでも嫉妬した。そんな自分を誤魔化そうとして、小春さんが倒れたって聞いてから、毎日神社にお参りに行ってたんだ。……でも、神様はきっと俺の本心を見抜いてたんだな』

 まさか、神社に行っていたのは、私のお母さんのために……。

『……ことりはさ、いつ京都に帰るんだ?』

「あ……いや」

『まだ決まってないか。まぁ、小春さんも退院したばかりだしな』

「あの、奏……」

『ことり、今までありがとう。それから……いろいろ、ごめんな。それじゃ、元気でな』

 その瞬間、底知れない恐怖が胸を占めた。このまま通話を終わらせたら、すべてを失ってしまうような、そんな不吉な予感が。

「――待って!」

 咄嗟に、叫んでいた。

「奏! お願い! まだ切らないで」

 奏の声には、覇気がなかった。たぶん奏は、死のうとしている。突然の事故で足を失い、なにより大好きだったサッカーがもう一生できないと言われている。絶望するには十分だ。

「ねぇ奏、今どこにいるの?」

『どこって……病院だよ。入院してるんだから』

 それはそうだ。だけど……。

『じゃあ、もう切るよ。またな』

 奏が通話を切ろうとする。

 やだ……やだ。待って。行かないで。

 私は必死に奏に呼びかける。

「奏! 私ね、私……やっと気付いたんだよ」

 奏に訴えながら、私は病院へ向かって走る。

「私、お母さんが退院した日、言ったんだ。一緒に京都に帰りたいって」

 そう言うと、スマホの向こうでひゅっと息を呑むような音がした気がした。

「そうしたら、大人になりなさいって言われたんだ。でも私……その意味がずっと分からなかった。だけどね、さっきようやく分かったんだ」

 奏はなにも言わず、私の言葉に耳を傾けてくれている。

「私ね、お母さんのために一緒に帰りたかったんじゃなかった。私が京都に帰りたいのは、ぜんぶ私のためだったの」

『え……?』

「私がただ、お母さんと離れるのが怖かったんだ。ひとりになるのが怖くて、寂しいだけだった」

 お母さんに恩返しをしたいからなんて都合のいいことを言っておきながら、本当はただ、私がお母さんと離れる勇気がなかっただけ。

「私……これまで、お母さんがいなくなっちゃうことなんて一度も考えたことなかった。卒業しても、大人になっても、ずっとこのまま、お母さんや奏たちと一緒にいられると思ってた」

 でも、違う。そんなわけはないのだ。

 転んで泣いたとき、優しく抱き起こしてくれるお母さんはいつまでもいるわけではない。

 赤信号で立ち止まり、その間に息を整える。すぐに信号が変わり、再び走り出す。ようやく、病院が見えてきた。

「私……最低だよね。お母さんが倒れたあとも、まだお母さんに頼ろうとしてたの」

『ことり……』

 病院のベッドで眠るお母さんを見て、急に現実が押し寄せてきたような気がした。

「当たり前だけど、お母さんは私より先に死んじゃう。どんなに願ったって、ずっと一緒にいることはできないんだ」

『……うん』

 この身体は、私の意志を無視してどんどん大きくなっていく。ならば同じように、私たちは心も成長しなければならないのだ。

 院内に入り、エスカレーターを駆け上がる。奏の病室は、もうすぐそこだ。

 扉に手をかけ、勢いよく開く。ベッドに座り、窓の向こうへ身体を向けていた奏が驚いたように振り向いた。

 奏がいる。そのことにホッとしながら、私は続けた。

「だからね、私はいつまでも幼い子どもみたいに甘えているわけにはいかないんだ。それで私、お母さんになにをしたらいいのかって一生懸命考えたの」

 そして分かった。

「私がお母さんにできる一番の親孝行……それは、私が夢を追いかけること」

 でも、私は弱いから、ひとりじゃ頑張れない。

 だから、

「大好きな人と、一緒に」

 奏が目を瞠る。

「大好きな……人?」

「そうだよ。大好きな人」

 私は奏をまっすぐに見つめ、頷く。

 お母さんに大人になれって言われたとき、鈍器で頭を殴られたような感覚になった。

 私は、夢を見ていたのだ。カラフルで、安全な夢を。

 大人になりなさい。

 その言葉で、私は目が覚めた。

 大人になるということは、単に高校を卒業して、大学に行って、就職することではない。

 しっかり自分の意思を持って、自分の足で生きていく覚悟を持つことなのだ。

 明日は当たり前じゃない。

 人生は一度きり。

 それはとても当たり前のこと過ぎて、私はこれまでぜんぜん意識していなかった。

「明日、もし自分が死ぬなら、せめて今日は大好きな人と笑っていたい。明日、もしお母さんが死んじゃうとしたら、せめてお母さんが応援してくれていた夢に向かって全力で突き進む私の姿を見ててほしい。そう思ったんだ」

「……ことり……」

 奏の手から、スマホが滑り落ちる。

「だから私、京都に行くのはやめる。夢を追いかけるよ」

 私はゆっくり奏に歩み寄る。

「奏と一緒に」

「え……」

「私、奏と別れないよ。だって奏のこと大好きだもん」

「……でも、俺はもうこれまでのような生活は送れない。大学どころか、就職だって……」

 奏は苦しそうに俯き、目を伏せた。

「そんなこと、関係ないよ」

 かすかに肩を震わせる奏を、私は強く抱き締める。

「私は、奏の優しいところが好き。声が好き。泣くと頭を撫でてくれる大きな手も大好きだし、私が怒るとすぐに謝ってくるところも好き。ぜんぶ好き。奏はなにも変わってないよ。私が大好きな奏のまま……だから、こんなことで挫けないでよ」

 身体を離し、奏と視線を合わせる。

「奏はなにも失ってないよ。私がいるもん。私がいる限り、奏は大丈夫でしょ?」

 すると、奏はくすりと笑った。

「……なんだよそれ。脅しかよ」

「へへっ……そうかも」

 奏は力のない声でぽつりと零した。

「……本当は、ことりにぜんぶ伝えたら、死のうとしてたんだ」

 私は目を伏せる。

「……知ってるよ。でも、そんなの許さない。だって、奏も私が夢を諦めようとしたら怒ったじゃん。絶対ダメって言ったじゃん。それなのに、自分はやめるなんて、そんなのはなしだよ。ふたりで夢を追いかけるって約束したんだから」

「でも、俺にはもう……」

「あるよ。夢」

「え?」

 奏が戸惑いがちに私を見る。そんな奏に、私は優しく微笑んだ。

「夢なんて、いくらでもあるよ。春になったらお花見をしに行こうよ。動物園にパンダを見に行きたいし、駅前にできたカフェのパンケーキも食べてみたい」

「……それ、夢じゃなくて予定じゃない?」

「そうだよ。それじゃダメ?」

 素直に頷くと、奏は黙り込んで私を見つめた。

「夢なんて言うと大袈裟に聞こえるかもしれないけどさ……もし明日世界が終わるならって、そう思って生きていたら、人生なんてきっとあっという間に終わっちゃう。だってほら、季節って一年にたった四つしかないんだよ。落ち込んで俯いていたら、ほら、もうあっという間に春が来ちゃうよ」

 私はそう言って、窓のすぐ横にある桜の木を見つめた。まだ、花はないその木には、しかしたしかに蕾があった。

「……そっか。まぁたしかに、そうかもしれないな」

 気の抜けたような、呆れたような奏の声に、私は少しホッとする。

「私はできれば……大人になっても大好きなものと、大切な人たちに囲まれて生きていたいんだ。だから、上を向こうよ」

 窓の向こうの空を見上げた。冬のどこまでも澄んだ空が私の視界をカラフルに彩る。

「私ね、もし明日死ぬとしたらって考えたとき、一番に奏の顔が浮かんだよ」

「え……俺?」

「うん。お母さんでも、友達でもなくて、奏だった。私さ、クリスマスに奏に告白されたとき、あんまり深く考えてなくてね。ただこれからも奏のそばにいたいなって思って頷いたんだ。今思えば、好きってことをちゃんと理解してなかったんだと思う」

 でも、病院で奏に拒絶されて、ようやく分かった。やっと気付いた。

 たぶん、大人になるということは、失うことなのだ。いろいろなものを失って、そして自分の意思で選んでいくことの繰り返しなのだと思う。

 だったら、私は、奏を選ぶ。これからの人生を、奏と生きたい。

「私、奏が好きだよ」

「ことり……」

「残酷なことを言うかもしれないけど、生きてほしい。私と一緒に」

 足を失って、夢を失った人にかけるべき言葉じゃないかもしれない。ちっとも奏の気持ちなんて考えていない、ただの私のわがままだと分かってる。

 でも、それでも今私が奏に一番訴えたい言葉は、それだった。

「生きてよ、一緒に」

 私も一緒に頑張るから。

「辛いなら、私が寄り添うから。助けるから。怒ったっていいよ。私がぜんぶ受け止めてあげる」

 私がこれまで、奏に助けられてきたように。お母さんに抱き上げてもらってきたように。

「一緒に生きよう」

 そう言って、私は奏を抱き締めた。奏の身体はかすかに震えていた。痛々しくて胸が押しつぶされそうになりながらも、私は涙を堪えて奏を抱き締める。

「ことり……ごめん……」

「なんで謝るの。そこはありがとうでしょ」

「うん……」

 今まで、奏は私の前で泣いたことなんてほとんどなかった。子供の頃だって、泣いている彼を見たことなんてほとんどない。そんな奏が、泣いていた。

 これまで私はいろんな人に抱き締められてきた。ぬくもりを与えられてきた。それなのに私は、いつも抱き締められるばかりで、そのぬくもりを返したことなんてなかった。

 でも、今は。

「奏、これからもよろしくね」

 大好きな幼なじみの男の子に……初めて好きになった男の子に、精一杯のぬくもりを伝えたいと思う。

 私はすすり泣く奏の背中を、優しくさすり続けた。



 ***



 家に帰ると、お母さんが夕飯を作ってくれていた。

「あ……お母さん、遅くなってごめんね。夕飯、私がやるからいいよ」

「いいのよ。私が何年ママをやってきたと思ってるの? 主婦はこのくらい、片手でも余裕なんだから」

 茶目っ気たっぷりにお母さんが言った。その笑顔に、私はふっと肩の力を抜いた。

 お母さんは膝にボウルを置き、卵を左手で割ると、器用に溶いていく。

「――ねぇ、お母さん」

 その姿を眺めながら、私はそっと声をかける。

 想いが込み上げ、潤んだ声で私はお母さんに宣言する。

「お母さん、私……京都には行かない。大学に行くよ」

 はっきりと告げると、お母さんは一瞬目を瞠った。その目が細められ、口角が上がる。

「そう」

「……私ね、京都に行きたいのは、お母さんのためなんかじゃなかった。実際はぜんぶ自分のため。私が……お母さんと離れたくなかっただけだったんだ。でも、それじゃダメだよね。私、ちゃんと自分の道を見つけたよ」

 それに、大好きな人も見つけた。だからもう、ひとりでも大丈夫。

「だから安心してね、お母さん」

 そう言って笑うと、お母さんは嬉しそうに微笑み、

「大きくなったね」

 と言って、泣いた。

 つられて涙を流しながら、私はしばらくお母さんと抱き合っていた。



 ***



 明日はどんなことがあるのだろう。

 どんな人と出会うだろう。

 考えたって、分からない。

 これから歩く道が明るいか暗いかなんて、生きてみなければ分からないのだ。

 だけど、どんなに辛いときでも、顔を上げればいつだって果てのない空が広がっている。太陽は必ず私をあたためてくれる。


 大切なのは、自分を生きることだ。


 私はもうすぐ、高校を卒業する。春になったら都内の美術大学に入って、絵の勉強をする。

 その先は、今はまだ分からない。

 ただ、お母さんのそばにいるべきなのは、今はまだ私ではない。それなら私は、お母さんを大切な人に託して、これまでお母さんが守ってきてくれた私自身を精一杯生きよう。

 新たに出会った大切な人に寄り添い、支え合いながら。

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