23話 “竜としてあるために”
霧は空気中の水蒸気が冷やされて水滴となり、地表付近に浮かんでいる状態のことを言う。
これらの水滴は軽くてゆっくり落ちるため、風が弱いと空中に漂い、霧として見えるのだ。
いわば霧は雲が地面近くにできた状態だ。
メギドラは自身の腕を切り裂き、大量の血を流す。
だが今回は固めたりしない。無論、そのまま流すなんてこともしない。
「“竜血霧”」
メギドラは流した血を次から次へと気体に変えていく。
もちろんこれは今までできなかったことで、試すのも初めて。だがなぜかできる気がした。そして、できるイメージもできていた。
「───血液を水蒸気にする・・・加熱はいらない、俺が命じれば血液は何者にも姿を変える・・・核はヘモグロビンや鉄分で代用・・・直径0.01ミリ程度に凝結する。風は問題ない・・・俺が維持させようと力を使う限り、この霧は晴れることはない」
辺りに立ち込めるのはメギドラの血で作り出した赤い霧。
次第に世界は血色に染まり、視界は濁った紅の幕に包まれる。
鼻を突くのは生暖かい血の匂い。鉄を削ったような、舌の上に残る金属の味。
それは甘くも苦くもなく、ただ喉の奥をざらつかせる。感じるのは異様な不快感だった。
「霧?ただ不愉快なだけ、私の“流角灯”の炎に熱はないけど、灯りの力はある。どれだけ霧を出しても、私の炎はあなたの霧の暗闇をを押し返す」
そうだ。そんなこと聡いメギドラは言われなくても分かっている。
こんな作戦思い付きだし、これが上手くいくのか実験も行っていない。
元よりこんな状態で戦うのすら想定外なのだ。そんな状態でまともな作戦を思い付けるわけがない。
だから何だ。
「それが何だ?灯りを灯しても俺の霧は消えない。消せてない時点であんたの逆鱗はその程度の力しかないってことじゃねえか」
「・・・あ?」
「・・・その程度で吠えてんなら・・・その力もたかが知れてるな」
トーヴァは女の子とは思えないような低い声を出して威圧するが、その程度で怯むメギドラではない。
元よりこの程度で怯んでいたら竜帝国で生きていけない。
「もっと濃く、もっと赤く暗く、深まれ“竜血霧”」
霧は時間が経ち、刻一刻と濃くなっていく。
赤い霧は普通の霧よりも暗く、視界は数メートルほどしかない。
それでも戦えているのはトーヴァの逆鱗に灯りの力があるから。メギドラがその程度しかないと言っても、有効な手段であることには違わない。
メギドラはトーヴァの攻撃を躱しながら時間を稼いでいく。攻撃は最低限のみ、基本的には逃げに回り、霧が濃くなっていくのを待っている。
(あと少し、もう少し、視界を遮って隙を待つ。正面からじゃ勝てない。卑怯だろうが霧に紛れて気づかれずに近づいて奇襲を仕掛ける───)
トーヴァに攻撃できる一瞬を狙って。
(───とか、思っているのかなこの元人間。さっき私のことを煽ったのだって少しでも私の冷静さを欠かさせて視界少しでも狭くしようと思っての戦略だろうし、工夫が足りない。その上私の“流角灯”は私の手足、炎に触れるものの形くらいは感じ取れる。どれだけ霧に隠れていようと、私の流れる炎の中にいれば場所は丸わかり。炎は地面に落ちるから空中は自分で警戒しないといけないけど、空を飛べば折角の霧が翼の羽ばたきで晴れる。地面周辺は私の範囲内。さぁ、早く隠れて攻撃してきなさい。そのとき首を絶ってやる)
トーヴァの右手には斧を、左手にはランタンを。ランタンの中には右手に持つ斧と同じものがあと二本。“炎斧”はいつだって放てる。また、流れる炎はトーヴァを中心に半径三メートルほど、渦巻くように、台風のように炎は一定の速度で回っている。
霧はやがて暗くなり、トーヴァの炎の周りだけが灯りによってぼやけて見えるだけで、メギドラの姿は影で見えるだけだった。
トーヴァは動きを止め、空中を警戒する。来てもすぐに迎え撃てるように姿勢を低く斧を構えて準備する。
数秒後、霧の奥で影が揺らめき、やがてそれは濃くなる。
さらに数秒後、トーヴァの炎にそれが触れた。頭、体、翼、尻尾、剣、そんな感触をトーヴァの炎を通して感じ取った。
炎の中に全身が入っていたので目で見たわけではないが、間違いなくそれは竜の姿形だと、そう確信した。
(二メートルと少し先、地面を這うように移動・・・私の射程圏内!)
「“隼断”!」
トーヴァは真っすぐ薪を斬り割るように斧を振り下ろした。
振り下ろした斧は霧を裂き、流れる炎を裂き、地面を割る轟音を立てた。
トーヴァにも確実にそれを割った手ごたえを感じた。しかし、それは竜の体にしては軽く、脆く、まるで空っぽの殻を砕いたような感触であった。
「軽っ?」
(おかしい、これは竜を割った感覚じゃない。ってことはさっきのは───)
瞬間、トーヴァの後方から耳に空を切る音が届いた。
三日月の形に編まれた血の刃、さっきとは違い一本しか来ていないが、たったそれだけでも驚異的な命を刈りとる竜の爪、メギドラの“竜血刃”だ。それが後方から飛来する。
(───身代わり!!)
だがその程度を食らうようなトーヴァではない。
完全に砕けるわけではないが、それを受けることくらい訳もない。
「“燕斬”」
後ろを振り返り、そのままの勢いで薙ぐように斧を振る。
竜血刃は軋み、先ほどと同じように鱗のように細かく剝がれ落ち、やがて刃は欠け、軌道が変わり、明後日の方向へと飛んでいく。
トーヴァが攻撃を打ち込んだ瞬間、炎に二本足で走り来る存在を感じ取っていた。
視界の端に僅かに映る赤い竜が、炎のような敵意を宿した瞳で、横に大きく剣を振りかぶっている様子が見えていた。
身代わりによるブラフ、間髪入れない後方からの攻撃、それらによってバランスを崩したトーヴァの体は、彼の攻撃を受ける術、避ける術を持っていなかった。
一閃。
鋭い風が首筋を撫で、髪が数本宙に舞った。
でも痛みは感じない。血を流れる感覚もなく、ほんの少しの冷気だけを感じていた。
メギドラの刃はトーヴァの喉元に届く寸前で止まっていた。刀身は僅かに震え、反射する光を揺らめかせていた。
その一瞬。
彼の寸止めによって縫い留められたトーヴァが、逆に踏み込む。
危険を察知し、反射的に振り下ろした斧が、彼の体を切り裂き、吹き飛ばした。
彼は血を撒き散らしながら吹き飛び、霧の中の地面へと叩きつけられた。暗く赤い霧は彼の裂けた傷に吸い込まれていき、段々と薄く、晴れていった。
「あ・・あぁ・・」
小さな呻き声が、荒い呼吸が耳に響く。
見下ろす影が彼の体を覆う。
いつでも突き立てられる刃先が首元に静止していた。
だが、刃は降りてこない。震えたのは刃か、あるいは握る手か。
殺す機会を前にして、影は沈黙のまま立ち尽くしていた。
「・・・なんで───」
霧は晴れ、周りからも中の様子が見えるようになり、少しの沈黙が流れた後、トーヴァが口を開いた。
「───なんで止めた。私はお前を殺処分するつもりで戦った。お前は経験が浅くとも馬鹿じゃないことは分かっている。お前は私に勝たないとこれから先この国で生きていけないってことは理解しているでしょう?なのになんで馬鹿みたいに自分から負けるような行動を取ったの?」
考えていたか、本能的にか、伸ばした手が突き立てられる刃をそのまま掴んだ。
鋼が皮膚を裂き、熱い血が滴り落ちる。それでも指は離れず、震える刃を力づくで押しとめた。
「・・・知らねえよ。これは戦争とか、巨像の救出とかじゃない。この国で言う試練ってやつだろ。俺は試練なんて受けたことが無い。あんたの言う通り俺は経験が浅いんだよ。あんたらの常識も、俺には未知の領域で、未知でも俺はどうにか合わせて対応しなくちゃならないんだ」
「?何が言いたいの?」
「竜として、俺がヅィギィアさんから教わった最初の教えだよ。竜は・・・“同種族間で争っても絶対に命を取らない。それは何千年何万年前から続く鉄の掟”ってな。俺がこの国で竜としてあるために、掟は絶対遵守しなくちゃならないってことだよ」
「だからってそんな馬鹿みたいな行動───」
「俺が本来馬鹿じゃないみたいなことを言ってたが、経験が浅く、知識量が少なければどんなに賢い奴でも馬鹿みたいな行動を起こすことはあるんだよ。俺はこういう戦い合いしたことがないんだよ」
「・・・あなたは人間だったんでしょ?私たちを恨んでるんじゃないんの?」
「何をどう考えたら俺が竜を恨んでることになるんだよ。そっちが俺を恨む理由は分かるけどさぁ。いきなり竜になって、感情に任せて巨像と戦い敗北して、ボロボロのところを救助してもらって・・右も左も分からない俺を導いてくれて、戦い方生き方を示してくれて。命を懸けて俺を守ってくれた。一生かけても返せない恩を貰った。俺にとっての竜はそれだ。そんな俺が・・・竜を恨んでるわけないだろ!」
メギドラはいつの間にか立ち上がっていた。
斧の刃を掴んだままの手から更にぼたぼたと血が滴り落ちていたがそんなことは気にしない。
「・・・」
数刻が流れた後、斧の震えが止まり、トーヴァはゆっくりと刃先を引いた。
ランタンから流れ出る炎が斧を包み込み、やがてランタンの中へと引きずり込んでいった。
「どうですかトーヴァ、見極めの結果は」
斧を片付け、戦闘を終了したことを察知したヴォロコーブが近づいて結果を聞いてくる。
トーヴァは重々しく口を開いて言った。
「こいつはまだまだ弱い。経験不足で、掟の内容をそのまま取り込んで攻撃もできない馬鹿───だけどこいつにはもう殺気が湧かない。元人間だっていうのに一つも湧いてこない。それ以外は最初と何も変わらない。でもこいつを殺すかどうか、もう私じゃ決断できない」
「・・・随分と曖昧に言いますね、いつものあなたのようにはっきりと言いなさい」
「ジャバ様に“こいつの首を断て”と命令されれば私は迷いなくこいつの首を断つ。私にはその判断ができない。だから一旦、こいつをジャバ様の元へ連れていく」
「・・・え・・っと、それはつまり───」
メギドラが恐る恐るトーヴァに聞くと、とても嫌そうに口を開いた。
「仮で、ギリギリでだけど、一旦合格ってことにする。あなたをジャバ様の元へと連れていってあげる」
その言葉でまた一つ、竜帝への道が開かれた気がした。
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一方その頃───
竜帝国南西部 鏡界竜邸の一室にて
「・・・そろそろ、帰ってくる頃かな。例の元人間の竜はどうだろうねぇ・・・ヴォロならどうも思わず殺処分するんだろうけど、そうならないようにトーヴァに試験を担当させたからねぇ、多分来ることになるだろう。ヅィギィアが認めた男だ、このくらいは乗り越えてもらわないとね。でもまぁ、ヅィギィアが生かした男だろうが、色眼鏡無しに見極めないとね。もし竜帝国にとって害になるようなことがあれば・・・即刻殺す準備をしておかないと」
そう嗤う彼の顔が、大きな鏡に揺らめいて見えた。




