鬼没の殺人鬼
警察に連絡した後、ロウが奴のところに行こうとしたので、夕子は慌てて止めた。
「もし入れ違いに奴が降りてきたらどうすんのよ!あんたはここに居て!」
「警官が来る前に逃げられちまうぞ」
ロウは不満そうだったが、玄関からエレベーターホールまで覗ける位置で見張る事にして折り合いをつけた。そこなら”D”の入り口も同時に見張ることができるので、夕子も納得して店の中に入った。
今度は自転車の若造ではなく、パトカーで2名の警官が駆け付けた。年齢差はあるが、どちらも頑強そうな大柄の男だ。ロウが簡単に事情を説明すると、先に若い方がエレベーターで上がって行き、壮年期の方は心配そうに佇んでいた管理人に話しかけた。一旦管理人室に入ってから、すぐに鍵の束を手にして出て来る。降りて来たエレベーターに、すぐには乗らずに待機していたが、無線に連絡が入ると、ふたりで上がって行った。警官が両方共同時に上がってしまい、犯人と行き違いになる可能性を避けたのだろう。
『なかなか手慣れている』とロウは思った。しかし、その後は全く動きが無い。いい加減焦れた頃、壮年の方の警官と管理人がエレベーターで降りて来た。「申し訳ありませんが、もう一度お話を聞かせてください。お連れの女性の方もご一緒にお願いします」ロウに声を掛けると、管理人室に入って行った。
ロウが夕子を連れて管理人室に入ると、壮年警官が監視カメラの映像を見ながら、何か話し合っていた。「お手数おかけします。もう一度、順を追って最初からお話しいただけますか?」慇懃に言われ、夕子が話し始める。
黙って一通り聞いていた警官は、聞き終わると暫し考えて、全員に向けて話し始めた。「結論から言いますと、犯人には逃げられました」夕子が反応したが、ロウが片手で圧し留める。「部屋の前に到着した時には、既に物音はしていなかったのですが、玄関を開けて顔を出していたお隣の奥さんのお話では、数分前までは暴れる音が聞こえていたそうです。声掛けをしましたが返事が無いので、管理人さんにお願いして鍵を開けていただき、中に入ったのですが…」管理人と目を合わせて、頷き合う。「中には誰も居ませんでした」
すぐさま夕子が叫ぶ「女性は⁈女の人はどうなったの⁈生きてるの⁈」
警官は夕子を見ると、冷静に、困惑とも猜疑ともつかぬ様子で言った「全ての部屋を確認しましたが、酷く荒らされてはいるものの、誰ひとり見つかりませんでした。犯人も、その女性もです」
夕子は目を見開いた。「逃げた…死体を持って逃げた⁈」
警官は若干呆れた風で「まぁまぁ、まだ殺されたとは限りません。居間に若干の血液らしき痕が認められましたが、ちゃんと調べてからでないと…もうすぐ応援が来ますので…」と言うと、「屋上は⁈上に逃げたんじゃないの⁈」夕子が畳み掛ける。
「管理人さんにも確認していただきましたが、屋上へのドアは施錠されていました。暴れる音が聞こえていた時から廊下で見ていた奥さんも、誰も出てきていないと証言しています」「裏口…でも無いなら…じゃぁ、窓から…」反論しかけた夕子が、気付いて黙り込む。
「当然、残るは窓からですが、下までは約30メートル。犯人だけならいざ知らず、人ひとり抱えては、屋上へも下の階へも行けないでしょう」「じゃぁ、隣だ。そのお隣さんが匿ってるか、裏から逃がしたんじゃないのか?」ロウが口を挟む。
「あのねぇ、安っぽい推理ドラマじゃ無いんだから…お隣の奥さん、怖がっちゃって、私の腕を掴んで放してくれなかったんですよ。今、防犯カメラの録画を見た限りでは、裏から逃げた者は居ないし、一応後でお隣の部屋も検めさせては貰いますがね」警官の眉間に皺が寄る。ロウがまた肩を竦める。
先の奴の行動からも、それは無いだろう。だとすると、一体奴は何処へ?どうやって姿を隠したのだろう?夕子は考え込んだ。方法は分からないが、やはり屋上へ逃れた可能性が一番高いのではないだろうか?もし奴が屋上に潜んでいるのだとしたら…
応援の警官と鑑識管らしき数名が到着して現場が慌しくなったところで、夕子とロウは一旦解放された。部屋は荒らされていたものの、死体は疎か怪我人も見つかっていないせいか、今ひとつ警察のやる気が感じられない。脅威は現在進行中だと云うのに。
「屋上しか考えられないじゃない。きっと何処かに隠れてるんだわ」夕子は苛ついた様子でロウを睨みつけると言った。「あんたが捕まえて!」
有無を言わさず急き立てると、ロウの背中に隠れるようにしながら屋上へのドアを開ける。
「へいへい。仰せの通りに」ロウがお道化て見せると、脛に蹴りが飛んだ。「ふざけないで!相手は殺人犯なのよ!」
奴がシリアルキラーである事は確かなのだが、それを伝えられないのがもどかしかった。腕を掴まれた時にイメージで見た、などと言って信じられる話では無いが、何の関係も無い女性を躊躇無く殺せるような奴を相手に、ロウがへらへらといつもの調子で居るのが怖かった。
ビクビクとロウの腰にしがみ付くようにして、部屋に入る。しっとりと落ち着いた空気の部屋に、侵入者の気配は無い。そのまま全ての部屋を巡り、身を隠せるような場所は全て改めた。しかし、奴も、奴が殺めたであろう女性も見つからなかった。貯水槽や階段室、周辺四方の手摺の向こう側まで覗いてみたが、影も形も無い。夕子とロウ以外、誰一人屋上には存在しなかった。
「よっぽど器用なヤツなのか…或いは空でも飛べるのか…」手摺に背中を預けたロウが傾き始めた太陽に向かって呟く。
夕子はボンヤリと、空を飛ぶ奴の姿を思い浮かべた。『飛んで逃げた…空を飛んで…飛ぶ?』馬鹿げた発想だと思ったが、妙に心に引っ掛かった。『確かそんな事が…何度か…』
膨大な記憶の片隅にそれを探し当てた時、数十メートル離れたビルの方から、じっと自分を見つめる強い視線に気が付いた。
奴だった。
遠く、思念は形を成していなかったが、どす黒い感情が伝わって来る。薄笑いを浮かべた口元が、ゆっくりと動く。『み・つ・け・た』
総毛立った腕でロウにしがみ付く「居たわ!奴よ!あのビル、看板の下!」
慌てたロウが身体を起こして身を乗り出す。広告塔の下でほくそ笑む奴を見つけると、「あんな処に⁉待ってろ!」言うが早いか、バネのように跳んで走り出す。
「待って!行っちゃ駄目よ!奴は!…」夕子は縋ろうとしたが、あっという間に階段室に消えてしまった。後を追おうとしたが、突然乱暴に腕を掴まれて引き戻される。
その瞬間、夕子は全てを理解した。耳元に奴の息がかかる。
「捕まえた。先生。僕の鳴無青雨先生!」