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前進の代償

朝、管理人が出勤してくるのを待って、警察に連絡をした。管理人は驚いていたが、自転車でおっとり刀でやって来た警官は、若い癖にやる気も気力も無く、終始ダルそうにしていた。『ストーカーとか、マジメンドクセェ。被害が出るまでは何もできねえし、最近は自意識過剰で被害者面してる女も多いしぃ…』夕子を見る目が疑いを孕んでいる。腸が沸騰したが、表面上は穏やかに状況説明を続けた。『やっぱり警察は駄目だ!住居侵入だって言ってるだろうが!それは税金泥棒と同じで犯罪じゃありません、とでも言うつもりか⁉』歯噛みしかけて、壁にもたれて突っ立っているロウを見た。ニヤけて肩を竦めて見せる。『どうせそんなとこだろうと思ってたよ』忌々しい。

管理人が監視カメラの映像を再生して見せる。玄関正面と各階エレベーターホール、エレベーター内の映像を順次確認したが、奴の姿は全く映っていなかった。唯一、外階段の出口から駐車場に繋がる裏口を映すカメラに、逃げて行く奴の後ろ姿だけが映っていた。最後に慌てて逃げた時以外は、巧妙にカメラの視界を避けていたのだろう。

在り来たりの対応をした警官が帰った後、管理人と少し話して、夕子は部屋に戻った。まだ時間が早い。少し休んでおきたかったのだが、眠れそうに無かった。奴はまた来るだろう。ここがバレるのも時間の問題だ。『やはりロウに来てもらうしか無さそうね。仕方がない…』「やるか!」

夕子は意を決して、父の部屋を片付けることにした。他に使える部屋は無い。父の帰りを諦めた訳ではないが、当面ロウにはここに寝泊まりしてもらうしかない。『その前に、荷物を物置にでも移動して置かなくては』

何年もの間、ただ主の帰りを待っていた部屋は、埃まみれで黴臭かった。カーテンを開けると、ガラス越しに差し込んだ日差しの中、夕子の歩いた跡を埃が舞っているのが見えた。堆積した埃が父の不在の長さを物語っていると思うと、やはり父はもう戻って来ないのだろうと感じた。突然消えた原因は不明だが、それだけに同じように突然帰って来る気がしていたので、父の痕跡には手を付けなかった。しかし、それももう、終わりにしても良いのでは無いか?諦めるのではなく、前進するのだ。

ずっと、理由が欲しかった。切っ掛けが無ければ、できなかったのだ。事の良し悪しは兎も角、今回の件を切っ掛けにして、過去に縛られて立ち止まっていた自分を前進させよう。ようやく踏み出せるのだ。

夕子は手始めに窓を開け、外の新鮮な空気を呼び込んだ。遮るものの無い日差しと同時に、薫風が流れ込んで来る。肺の中に溜まった悪い空気を追い出すように、春の風を胸一杯吸い込む。

その時だった。

「あなた誰⁉何を…あ、や、止め…」女性の叫ぶ声が聞こえ、次いでそれは悲鳴に変わった。「キャー!!」

夕子は吸い込んだ息を吐くのも忘れて外を凝視した。声の聞こえて来た南側は道路で、その向うには若干こちらよりも低いホテルの建物がある。ホテルの客だろうか?何か事件のようだが、離れているので思念までは感じられない。急いで外に出て、南側の手すりに手を掛け、下を覗き込んだ。途端に、あの吐き気を催す凶悪な思念が立ち上って来た。

奴だ!

膝の力が抜けそうになる。何とか踏みとどまったものの、再度下を見る事はできなかった。向かい側のホテルではない。このすぐ下、最上階の部屋からだった。

『誰だよ!このババア!先生は何処だよ!糞が!ひとりじゃ無かったのかよ!』

怒涛の害意が押し寄せる。狂った思念が撒き散らされる。夕子を探し回っているようだ。だが、それ以上に夕子を恐怖させたのは、奴の暴れる音以外聞こえなかった事だ。『女性の声がしない!』

僅かに感じられた弱々しい思念が、急速に消えて行く。形を掴む間も無く消失してしまった。『死んだ⁈…殺されたんだ!』

『糞!糞!糞が!居ないじゃないか!てか、ここには住んでねぇじゃん!違うじゃん!何で⁈何でだよ!』物が壊れる大きな音がした。夕子が居ない事に腹を立てた奴が、何かを破壊したのだ。

力が抜けて座り込みそうになるのを必死に堪えて、夕子は階下への階段へ向かった。あの時、エレベーターの先に残された部屋が一戸だけになったところで、夕子がそこに住んでいると思い込んだ奴は、昼日中にもかかわらず再来襲したのだ。今は当てが外れて癇癪を起しているが、屋上への道が残されている事に気が付くかも知れない。登って来られたら、逃げ場が無い。今の内に逃げなければ!

慎重に最上階への階段を降りる。ドア越しに様子を伺うが、気配は無い。薄く開けて確認してから素早く出て、音がしないように閉める。鍵を掛ける手が震えた。壁一枚向こうでは、まだ奴が暴れているようだった。小さくくぐもった音が聞こえて来るが、思念までは感じられない。

階段室のドアもそっとしめて、後は一目散に駆け降りた。一階に辿り着いた時には心臓が爆発しそうだった。念の為にエレベーターホールに出る前、最上階に止まったままの表示を確認してから転げ出すように外に出た。

荒い呼吸を整える間も無く”D"に向かって顔を上げると、店から首を出していたロウと目が合った。夕子を認めたロウが声をかける。

「さっき何か悲鳴が聞こえた気がしたんだが…あれ、お前じゃ無いよな?」

夕子は気が遠くなった。


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