孤独の観測者
「いやあ、本当に傑作でした。社内の何人かに読ませたんですが、最初は懐疑的だった者まで、みんな読後には目を腫らしてましたよ。最後に読んだ編集長も大感激で、早く次が読みたいと言っていました」担当君が電話の向こうで捲し立てる。こちらの様子はお構いなしで燥ぐのを聞いているのは正直辛かったが、編集長のお眼鏡に適って出版できるのはありがたいので我慢した。他社への持ち込みも吝かではなかったが、覆面作家としての扱いや事務手続きなどの煩雑さに加え、人付き合いを増やさざるを得ないのは面倒だ。このまま創作に没頭できるのが一番だ。
「しばらくは執筆に専念するので、また〆が近くなったら連絡を頂戴。それじゃ」返事も聞かずに電話を切る。ちゃんと、”月末までは連絡をしてくれるな”と伝わっただろうか?
この数日、筆が進んでいない。あのシリアルキラーが近所をうろついていると思うと、気が気ではなかった。唯一マンションから出るのは同じ建物の一階にある”D"への行き帰りだけだが、それにも細心の注意を払った。万が一にも奴と出くわしてしまったら、何をされるか分からない。いや、むしろ何をされるのか想像がつくだけに、絶対に嫌だった。
先日の一件以来、ロウもそれなりに気を使ってくれているようだが、相手が手出しをしてくるまでは、こちらに成す術はない。連続殺人犯を野放しにしているのは問題だが、致し方が無い。
既に起きている殺人事件で警察が動き、奴を逮捕してくれるのが最も良いのだが、今のところ望み薄のようだ。垣間見た情報を頼りに調べた限りでは、それらしい事件は見当たらない。現在、奴が殺めた人々の中に遺体で発見された者は居ないようだった。刹那のコンタクトで詳細までは見られなかったが、奴が巧妙に隠しているのだろう。連続殺人としてすら認識されてはいない。
地下アイドルと小学生の女の子については行方不明者として公開捜査がされていたので、近影で顔を確認できている。しかし、他の被害者達については情報が無い。恐らく、年間数万人に及ぶ行方不明者のひとりとして扱われているのだろう。ネットの情報だけでは、それ以上は分からなかった。奴の尻尾を掴んで警察にタレこんでやりたかったが、その手段がないのが歯痒い。
かと言って、個人で対峙する程の正義漢でもなければ義理も無い。自分の能力で暴き出し、暴力担当のロウに任せれば実力排除できるかもしれなかったが、下手をすれば、こちらが犯罪者だ。それどころか、能力が明るみに出てしまう危険さえある。どんなに危険が迫っていても、それだけは避けなければならなかった。
『ロウには言っておいた方がいいかしら?』ふと、自らを曝け出してしまいたい欲望が鎌首を擡げかける。『いや、やっぱりまだ駄目。止めておこう』目を閉じ、首を振って弱気を追い払う。
父以外に夕子の能力を知る者は居ない。父だけが、知ってなお変わらずに接してくれた。母ですら、化け物を見る目で遠ざけたのに。
故に幼い頃からその危険性を知り、徹底的に秘匿してきたのだ。今更同じ轍を踏む可能性は避けたい。出会って数か月のロウが理解を示してくれるとは限らないし、物理的にも孤立してしまう方が遥かに危険だ。
『番犬代わりに土間で寝泊まりさせるとか…?』ボディガードとしてなら、より身近に居た方がいい。四六時中、他人の思念を間近に感じる煩わしさはあるが、いざというときには頼りになるだろう。『でも、今日からそばに来てね…なんて言おうものなら…』裸足で逃げ出すかもしれない。きっとそうだろう。
「孤独に歩め。悪を為さず、求めるところは少なく…か…」孤独を愁いたことはない。むしろ望んで選んできた。しかし、脅威に直面してみると、やはり心細いものだ。賢者の言葉によらずとも、ひとりでできる事はたかが知れている。自分の身を守ることすら覚束ない。
とは言え、これ以上考えていても何も解決しそうもない。執筆の遅れも気になっている。今は自分にできる事に専念するのが得策だろう。「オーティア・ダント・ウィティアってね!働け働け!」
”D"が開くまでには、まだ時間がある。燃料補給前に一仕事しておこう。その方が酒も旨いし、その後の仕事にも弾みが付く。
夕子は自らを鼓舞して机に向かった。