不穏の種
書き下ろしの新作を受け取った担当君は、まるで卒業証書でも拝受するように大袈裟に腰を折った。「お預かり致しますです、はい」伏しているので顔は見えないが、心の声が不安と重圧を伝えて来る。『大丈夫かなぁ…編集長、読んでみて詰まらなかったら突っ返して来いって言ってたしなぁ…』
『あぁ、やっぱりね。ま、そしたら他を当たるだけだけどね』別段痛くも痒くもないので、夕子は黙って腰を掛けた。ウェイトレスが来たので注文すると、担当君が恐る恐る切り出す。「それで、あのう…ペンネームの件なんですが…」来る道すがら、何度も反芻していた考えを捻り出す。想定内だったので、交渉には値しない。「中に書いてあるわ。今まで通り、完全覆面でね。顔出しもインタビューも無し。素性も、他の名前との同一性も明かさないこと」絶対厳命の口調で言い渡す。
「しかしですねぇ、全くの新人作家として売り出すよりは、既にベストセラー作家として、ふたつもお名前がある訳ですし、弊社としましては…」説得して来いと言われているので、食い下がって来た。編集長も、この子の交渉などに応じるとは思っていないだろうに。
「言ったでしょ。ジャンルが違うから、名前も変えるんだって」冷たく突き放す。
「著名な作家先生が新たなジャンルで書かれるのは良くあることです。無名の新人よりは手に取ってもらいやすいですし、初版の部数だって全然違います」そんなことは分かっている。分かっていて変えると言っているんだよ、と思ったが、それは言わない。「何せ、逢魔時乃と鳴無青雨と言えば、どちらも初版20万部を超える…」
その瞬間、強い思念が飛んで来た。「鳴無青雨だって⁉この女性が⁉」
しまった!今まで意識外だったので気付かなかったが、客の中に聞き耳を立てていた輩が居たようだ。編集者と作家の打ち合わせという珍しい催事に、何となく興味を惹かれていた処へ好きな作家の名前が飛び出したのだ。増して、メディアにも全く素性が明かされていない覆面作家本人が居たのである。俄然興味のレベルが跳ね上がり、強く迸り出たのだ。
「シッ!!」強く担当君を睨みつける。「それは言わない!」ボリュームは落としたが、最大限きつい言い方をした。…筈だったのだが…
「は?あ、あぁ…すみません」業とらしく手を口の横に立てて「大丈夫、どうせ誰も聞いちゃいないですよ」と宣った。
『聞いてる奴が居るから言ってんのよ!』と口には出さず、目に怒りを込めた。
伝わったのか、担当君が引く。目に怯えの色が浮かぶ。『そんなに神経質にならなくても…あ、でも、ふたりが同一人物ってのは、社内でも数人しか知らないトップシークレットなんだっけ…』「申し訳ありません!以降気を付けます」コーヒーカップに顔を突っ込みかけて、慌ててどかしてからテーブルに伏せった。
『もう遅い!』思念の主がこちらに集中しているのが伝わって来ていた。次回からは打ち合わせの場所も変えなければ…
出版社にはマンションの住所しか伝えていない。郵便物も届け物も、一階集合ポストの部屋番号が書かれていない専用ボックスに届けられるので、ペントハウスの住人である事は編集長ですら知らない。こちらの素性を知られない為に、徹底して情報を遮断しているのだ。打ち合わせなども必ず外で行っている。原稿の受け渡し程度ならと、近所のこの店は頻繁に使っていたのだが、迂闊だった。
「読んで駄目なら送り返して頂戴。他には影響しないから御心配無く。話はそれだけだから」早口に捲し立てて、席を立つ。担当君が慌てて取り繕おうとした、そのすぐ後ろの席の男が反応するのが見えた。『この男だ』肩越しに盗み見ようとした男と目が合う。背筋に悪寒が走った。
『先生!先生だ!僕の鳴無青雨先生!大好きな先生!本は全部買った!新書も文庫もみんな持ってる!全て愛読してる!好きだ!愛してる!世界で一番!誰よりも!…』際限なく溢れ出す思念の強さにも圧倒されたが、その異常さに身の毛がよだった。並みのファンでは無い。かなり執着している。極度の偏愛者だ。
出口に向かって歩き出した背中に、情念が突き刺さってくる。『うわぁ、こいつはヤバい…」担当君が何か喚きながら追って来たが、耳に入らなかった。一目散に店を出て、小走りになる。
支払いに手間取って追うのを断念した担当君を追い越し、男が店を出てきた。『先生!先生だ!こんなに身近に居たなんて!僕の!僕だけの鳴無青雨!』まるで色が着いたような狂った情念が襲い掛かる。
『ひぃ!これは…コイツはホンモノだ!マトモじゃない!イカレてる!』走り出して、サンダル履きで出て来た事を後悔した。近隣住いも想像に難くないだろう。何とかして撒かなければ…
縦しんば今日は逃げ切れたとしても、当分外出には気を付けなければ。顔を見られたのは致命的だ。マンションとは反対方向、駅に向かって走るが、このままでは追いつかれるのも時間の問題だ。『交番に…いや、駄目だ。まだ何かされた訳じゃない。警察は何もしてくれない』考えている間にも、男が距離を詰めて来る。
「あれ?どうした?血相変えて?」闇雲に曲がった路地の先に、ロウが立っていた。驚いてつんのめりかける。後ろに気を取られていて、気が付かなかったのだ。手にはスーパーの買い物袋がぶら提げられている。恐らく食材の買い出し帰りだろう。
すかさず後ろに回り込み、空いていた右手の肘を取って身体を寄せる。ロウがギョっとして「何だ⁉何を…」と言いかけたのを、ドスを効かせた小声で圧し留める。「黙って!追われてる。合わせて!」
立ち止まり、ポカンと見ている男から半身を隠すようにして、ロウの肩越しに睨みつける。改めて見ると、背が高く、まだ若い。20歳そこそこだろうか、それにしても極端な童顔で、トッポいナリをしている。青白い顔に泣き笑いのような困惑が浮かぶ。『男?男が居たのか⁉僕の…僕が…僕と…僕というものがありながら⁉』
『いやいや、ついさっき偶然聞こえただけだろう?何でそうなる!やっぱりコイツは相当重症なアレだ』ロウの肩に口を押し付けて、他に聞こえないように話す。「恋人の振りして!やり過ごして!」
察したロウが男を見る。「あぁ、その、何だ、今日はもう帰れるんだろ?早めにメシにしようかぁ?」下手糞め。まともな相手だったら噴飯物だぞ。
「そうね!そうしましょ!」ロウの肘を引っ張って、男を避けるように歩き出す。ロウが躓きながらついて来る。男が目で追う。無視して擦れ違おうとしたところ、男が夕子の腕を掴んだ。「あ、あの!せんせ…」
間髪を入れず、ロウがその手首を掴んだ。「おい!何の真似だ!」逆手に捻り上げる。男の方がロウよりも幾分背が高かったが、捻られた腕の痛みで男が膝を着く。真上から見下ろすように睨みつけたロウが畳み掛ける。「ガキが昼間っから女の尻ィ追っかけてんじゃねえよ。人の女に手ぇ出すと沈めんぞコラ!」
男が何事か喚きながら手を振りほどき、這う這うの体で逃げていく。ロウはロウで、逃げる男を眺めながら”俺の女”と口走った事を後悔していた。『後でお叱りを受けるんだろうなぁ…」
だが、夕子はそれどころでは無かった。歯を食いしばり、下を向いて目を見開いていたが、何も見てはいなかった。腕を掴まれた刹那、男の過去が、行ってきた鬼畜の所業が見えてしまったのだ。
恐怖に歪む顔。絶望の淵に堕ちる顔。苦痛を浮かべる顔。命の灯が消えた顔、顔、顔。それらを満足げに見ている男の顔。
悪寒が走り、歯が鳴った。瞬時に見えただけでも数人、多分二桁は殺している。女性ばかり、子供から中年まで年齢を問わず。暴行などはせず、ただ殺す。純粋に殺人を目的とした殺人。男は稀に見る生粋の連続殺人鬼だったのだ。
『とんでもない奴と関わってしまった』足がふらつく。「おい、大丈夫か?」ロウが支えようと、手を伸ばすのが見えた。
「触らないで!」自分でも驚くほど大きな声が出た。道行く人々が何事かと見ている。ロウがバツの悪そうな顔をして、手を引込める。「あぁ、ごめんなさい。何でも無いわ」足取りも重く歩き出す。
マンションまでは数百メートル。まるで地の果てのように遠く感じられた。