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速筆の作家

いつもの喫茶店に入ると、既に担当の編集者が待っていた。近付く前に、立ち上がって深々と頭を下げる。

「お待たせ。これ、今回の分ね」座る前に、茶封筒に入れた原稿を差し出す。今時、紙の原稿を手渡しているのは自分位のものだろうが、これだけは一貫して続けている。

「ありがとうございます」恭しく受け取って、そそくさと鞄に仕舞う。「いつも助かってます。他の先生方にも見習っていただきたいもんです」

締め切りの事だろう。自慢では無いが、今まで一度も遅れた事は無い。他の作家連中は常習的に遅れる者も多く、中には大幅に遅らせたことを武勇伝のように吹聴している奴も居る。編集者を困らせるのがそんなに楽しいのだろうか?夕子には理解できなかった。

夕子が席に着くと、編集者はウェイトレスを呼んでから、畏まって腰を掛けた。

夕子よりも若い、多分まだ20代であろう好男子だ。何となく編集長の意図が透けて見えるような気がするのは、考え過ぎだろうか?水とおしぼりを持って来たウェイトレスに注文をして、使いっ走りの域を出ていない若造の整った顔を見つめる。

「確認しないの?」「先生はいつも完璧ですから。それで、来週の分ですが、月末ですので、もう一つの方の原稿も同時に頂ければと」せっかちな男だ。早く次の作家の処にでも行きたいのだろう。「大丈夫よ。予定通り渡すわ」「流石は先生!週刊連載とは別に、毎月必ず新刊を出されているのに、全くペースが落ちませんね」如何にも営業スマイルだが、自信があるのだろう、グイグイ押してくる感じが鬱陶しい。「全く違う作風を完璧に使い分けられていて、混乱とかしないものなんですか?」

中学生のような質問にウンザリしたが、今日は相談事もあるので、出かかった言葉は飲み込んだ。中堅どころの出版社にとって、夕子は稼ぎ頭らしく、待遇は悪くないし、無理も言って来ない。自分ではマイペースでやっているつもりだが、他の作家に比べてかなりのハイペースだという話だったので、気も遣うのだろう。

「それなんだけど、今の2本の他に、別のジャンルでも書いてみたいんだけど」直接編集長に持って行った方が話が早いのは分かっていたが、この坊やの顔を立ててやることにした。一寸面倒ではあるが、儀礼には答えておくのが大人と云うものだ。

「は?え?別の話ですか?もう一本?」目が点になっている。「そ、そんなことが…あ、いや、ちょ、一寸お持ちいただけますか?」慌てて携帯電話を取り出し、周りを見回してから立ち上がって外へ出て行った。編集長にお伺いを立てるのだろう。”マニュアルに無い事はモスクワの指示を仰げ”だ。

夕子が連載している文芸誌の編集長は小説全般の出版責任者も兼ねていて、中堅とはいえ、そこそこの規模の会社の現場をほぼひとりで切り盛りしている人物だった。夕子の本が売れ始めてから何度か会ったが、最後に打ち合わせをした時の夕子の反応に脅威を感じたらしく、それ以降は会おうとしない。『使えるが勘のいい女だ。ドライに距離を置こう』との考えだった。彼は好ましからざる人物だし、むしろそれは望むところだったので、新人が入る度に担当が変わり、いつまで経っても使いっ走りの教育係的な扱いなのも我慢した。

暫くすると、担当君が汗を拭きながら戻ってきた。「編集長からゴーが出ました。先生なら間違いないだろうって、即決でしたよ!」それにしては時間がかかったし、その冷や汗は何なんだ?と思ったが言わない。

構想も何も話していないのに許可を出すとは…ある意味信頼されてはいるのだろうが、現在進行中の作品に影響さえ無ければ好きにさせておこうというのが本当のところだろう。とは言え、概要位は話しておくことにする。

「今持っている週刊と月刊の合間に書くから、大体3ヶ月毎に250枚前後、年に4冊位を考えてるんだけど…」夕子が言うと、またしても担当君が目を剥いた。「えっ!そんなに?」「季刊って感じでどうかな?」夕子が事も無げに言うと、「てっきり単発ものだとばかり…ちょ、ちょっと失礼します」また出て行った。

メンドクサイ…やっぱりパシリにする話じゃなかったか…まぁ、駄目なら他へ持って行くだけだし、次で終わりにしよう。運ばれてきた紅茶を一口飲んで、夕子は待った。

先程の倍位の時間が経ち、夕子がイラつき始めた頃、ようやく担当君が戻ってきた。「お待たせして申し訳ありません。それだけの分量となると、社内での調整も必要になるので…」「駄目ならいいわ」夕子が席を立とうとすると、担当君の血相が変わる。「めめめ、滅相もございません!他を取りやめてでも、万難を排して、必ずや絶対に何としてでも出させていただきますです!」大慌てで押しとどめる。

『あぁ、そうか。この子はパシリであると同時に、緩衝材でもあるんだ』夕子は無力な若者を虐めているような気がしてきて、気分が悪くなった。『中にはそれが楽しい輩もいるんだろうなぁ…』印刷所を待たせた事もあると吹聴していた大御所作家の顔が浮かんだ。醜悪だ。ああはなりたくない。

「もう最初の分は書きあがってるの。推敲したらすぐに渡すので、そちらの事情で決めてもらって構わないから」言いながら席を立つ。止めるのも忘れた担当君が呆気に取られて「え?もう?書きあがってる?…んですか?250枚?」手元の茶封筒に目をやって、言葉を失っている。「明日にでも取りに来て頂戴。あぁ、それから、ペンネームはまた別のを考えておくのでよろしく」言いながら踵を返して歩き出す。

「あぁ!先生!ちょ、ちょっとお待ちを!先生!」追いすがる声を無視して店を出る。家はすぐそばだが、何だか疲れた。滅多に他人と会話することが無いからだろうが、余分な気遣いは消耗する。『少し早いけど、ロウはもう起きているだろう。今日は早めに店を開けさせて、いつもの倍呑むことにしよう。うん、そうしよう』

午後の商店街を歩きながら、夕子は”本日の一本”を何にするか考えていた。

角を曲がると、”D"の店先で丁度ロウがシャッターを開けて顔を出すのが見えた。

夕子は口元が緩むのを感じ、少しだけ早足になった。


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