各々の回想
長い時間をかけて玄関口に辿り着くまでに、男は今日の出来事を回想していた。記憶を整理し、現在の自分の立ち位置を確認しているようだった。
それにしても凄まじい、常識では考えられない体験だった。ほとんど非常識と言っても差し支えない超人的な活躍で、思考を読んでいた夕子にも俄かには信じられなかった。だが、事実だ。実際に、最後の一幕は目撃している。男の記憶とも完全に一致しているのだから、それ以前も推して知るべしだろう。
『この男、人間じゃない?』
見た目はボロボロだが、人の形をしている。しかし、あれだけの銃弾を浴びせられても全く影響がない人間など居るものか。落ちるときに指を切り落とされた以外の外傷は見当たらない。酷く疲労困憊してはいるが、あの跳躍力や回想中の馬鹿力は、そんな事と引き換えに出せるレベルの能力ではない。あれだけの高さから落ちても骨折すらしていないようだが、その衝撃の強さは無残に抉られた庭の土の下に見えているコンクリートの屋上が証明している。
男が一先ず自力で歩行できるようなので、夕子は安堵した。手を貸さなければならないようであれば、嫌でも男の内面を垣間見ることになる。一部でも肉体が接触すれば、記憶や感情、精神構造の全てにアクセスできてしまうのだ。離れていても感じることができる思考よりも、遥かに深く、人の心に立ち入ることになってしまう。それは避けたかった。
『普通じゃないのは、あたしも一緒だし…まぁ、いいか…』
過去の記憶も十二分に普通では無かったが、人間のそれだった。男は少なくとも昨日までは、普通の肉体を持つ、普通の人間だった筈なのだ。だが、病院で目を覚まして以降、ほとんど超能力と言ってもいい程の並外れたスピードとパワーを持ち、銃弾をも弾き返す強靭な肉体へと変貌している。きっかけは、恐らくあの女だろう。男のイメージは誇張されたものだとしても、ふざけた格好でふざけたことを抜かす女だ。満月だからしょうがないだと?満月…確かに昨日は満月だったが…
ふと、昔の記憶に引っかかるものがあった。『月の…住人…?』
正確には住人ではない。そこで生活している訳でも、肉体を持っている訳でもないからだ。月という天体の持つ意識…と言うのが一番近いだろうか。
『同族…ではないわね。でも、同種?なのかも…』
惑星と、その衛星とでは、思念体としての格が違う。しかしそれは、大人と子供で思考の方向性や範囲が違うのと同じようなもので、本質的には同種のものだ。地球に近い分、月の方が人間に親和性が高いのかもしれない。考えてみれば当然の事だ。遠くから、広い視野の一部分として眺めていただけの自分よりも、不自然なまでに地球だけを間近に見つめ続けて来た月の方が、より深く人を知り、強く影響するだろう。実際に、月の地球への影響力は、他に類を見ない程強力だ。地球にとっての月は、単なる惑星にとっての衛星である以上に大きく、そして重い。あの女の素性は知れないが、月の住人もしくはその一部、或いはそれと強く結びついた何かだろう。
男がようやく玄関に辿り着く。ドアにもたれ掛りながら、振り返って外を眺めている。傘を畳んで中に入るように促し、ドアを閉めると、男が済まなそうに言った。「世話になりついでに、もう一つお願いがあるんだが…」
夕子は驚愕した。この男は、腹を空かしているのだ。単車の事故で病院に担ぎ込まれ、弾丸のシャワーを浴びた上に指をちょん切られてヘリから落っこちてコンクリートの屋上に激突し、さっきまで死にかけていたこいつは、あろうことか”腹減った”と宣うつもりなのだ。
「実は昨日から何も食っていなくてね…」男の頭の中は極度の飢餓状態にあって、如何にしてあたしを説得して食い物にありつくかを必死に考えていた。『藁にも縋るとはこのことだが、急場で他に方法も無いし…』
『ムカつく。誰が藁だ。神妙なことを口にしながら、人を値踏みしやがって。ここはひとつ、芯のあるところを見せてやらねば。』「ここには食べるものなんて何も無いわよ。あんたが相応の見返りを約束できるなら、好きなものを食べさせてあげるけど、あんたは何をしてくれるの?」
男は一寸困った顔をした。『無一文だしなぁ…身体で返す、とか言ったら…』夕子が片眉を吊り上げて睨みつける。『屋上から放り出されかねんなぁ…土下座でも…って、感じでもないし…』「何でも言うことを聞くよ。必ず恩は返す。何なら、奴隷になってもいい。掃除洗濯下働き、パシリでも人間椅子でもお望みのままに。取り合えず、靴でも舐める?」恐る恐る、上目遣いでお伺いをたてる。
「変な事したら殺すわよ!」「はい…済みません…」「いいわ。近所の店から取り寄せるから、食べたいものを…」テーブルの下からタブレット端末を取り出して起動させる。「ここに書いて送れば、すぐに持って来てくれるわ」「ありがとう!恩に着るよ!」タブレットを受け取り、ソファーに腰掛けると早速入力し始めた。
『それにしても、この男は…こんな状態で、そんなに食えるのか?…そんなに…って、え?何だそりゃ?晩餐会でも開くつもりか?調理器具なんてほとんど無いわよ?フライパン位なら、どこかに仕舞ったような気が…』覗き込んでいた夕子の顔が曇る。何故か男は、すぐに食べられるものではなく、肉や卵といった食材を、それも大量に注文している。半病人の食い物でも、食える量でもない。
入力を終えて送信した男は、ズボンのポケットに手を入れながら、夕子を見上げて言った。「あぁ、それから、針と糸があったら借りたいんだが…」「針と糸?100均で買った裁縫セットなら、どこかに有ったと思うけど…」「それでいい」
安心したのか、男の意識が朦朧としてきた。とっくに体力の限界を超えていたのだ。ソファーに倒れ込むと、同時に意識を失った。
夕子は自室に戻ると、遥か昔に買った裁縫セットを探した。一度使っただけで、仕舞い込んである筈だが…
机の引き出しの奥の方に探し当て、掌の上で眺めてみる。ちっぽけな安物の裁縫セットだ。まだ独りになる前、買ってきてすぐに使った記憶がある。取れてしまったボタンを付ける為、必要だったから買いに走ったのだ。男物のシャツ。白いボタン。後にも先にも、その一度だけしかやったことが無い作業。仕上がりは不格好で、褒められたものでは無かった。だが、喜んでくれた。頑丈に付けてくれたから、もう取れる心配がないと褒めてもくれた。
そのシャツを着て出かけたまま、父は帰らなかった。何日経っても、何か月経っても、季節が移り、年が変わっても、戻っては来なかった。
夕子は立ったままボンヤリと掌の小箱を見つめていた。この身体の父親。唯一の身近な人間であり、守り、教え、育ててくれた。しかし、ある日突然、姿を消してしまった。理由は分からない。予兆も無かった。少なくとも、心当たりは無い。全てを与えてくれた人は、最後に心の欠損という痛みを残して行った。自らが姿を消すことによって。
玄関のインターフォンが鳴った。壁の端末のモニターが、重そうな荷物を抱えた配達員の仏頂面を映している。
裁縫セットをポケットに押し込むと、夕子は部屋を出た。