今日僕は、自殺することに決めた。
※こちらのお話は、自殺や死ぬなどのワードを何度も連呼しています。
そして、自死を推奨したりするものでは決してございませんので。
「さむ…」
11月の夜中の3時。見つかって補導されないように、僕は近所の公園の船の形をした遊具の中で静かに体を丸める。厚手のジャンパーを羽織り、膝にはブランケットを掛けているが…それでも寒すぎて寝られない。
母がまた、家に知らない男を連れてきたのだ。母が男を家に連れてくると、何時だろうと僕は必ず外に出る。母が「出てけ」って目で合図するし、僕も家にいたくないからすぐに出ていく。…母が、知らない男と愛し合ってる声なんて…聞きたくない。気持ち悪い。
父が亡くなって以来、母はとっかえひっかえ男と付き合っている。─いや、父が亡くなる前から、母は男に対してだらしなかった。父に隠れて男を自宅に連れ込んでいるところを、僕は幼い頃から何度も目撃していた。
けどある日、母の浮気が父にバレて。父は母のことを心から愛していたから、ショックで…首を吊って死んだ。
父が死んだのは母のせいなのに…母は反省することなく、寧ろ以前にも増して、男を家に連れてくるようになった。
「─ん?朝か…」
眩しくて目を開くと、遊具の丸い穴から一筋の光が射し込んでいて、僕の右目に当たっていた。いつの間にか眠っていたようだ。スマホの時間を見る。朝の7時前だ。
「今なら寝てるかな?帰って学校行くしたくしなきゃ…」
僕はもそもそと遊具から出ると、家へ向かってとぼとぼと歩いた。
◈
「…わっ!」
小さく溜め息を吐きながら家を開けた瞬間、目の前に母がいた。僕は驚いて変な声をあげる。すると母は僕と目が合うと、嫌そうな顔をしながら溜め息をつき、そして。
「─あら、帰ってきたの。昨日はけっこう寒かったから、野垂れ死んでるかもって期待してたけど…」
フッと鼻で笑いながら、母はそう言った。
母のその言葉を聞いた瞬間、僕の中の何かがぷっつんと音をたてて切れた。そして、胸の奥で閉じ込めていた「死にたい」という気持ちが、色濃く浮かび上がった。
死ぬ理由はそれだけでいいし、それ以外にも僕はもう、生きる理由が殆ど無かった。
それでも。
死ななくていい理由を─…僅でも、僕がこの世に生きてていい理由を探すように、僕はふらふらと学校へ向かった。
でも…
「……」
「ええー…とぉ~…あ、梓!お前机はどうした?机がないと授業受けられないだろ。今から朝のホームルーム始めるけど、授業が始まる前には机持ってこいよ」
教室の真ん中で椅子に座る僕に、教師は目を踊らせながらそう言うと、僕を視界にいれないように朝のホームルームを始めた。
朝教室に来たら、椅子だけを残して僕の机がなくなっていた。教室の中やベランダ、廊下や教室周辺を探してみたけど、僕の机はなかった。
僕の机をどこかにやった犯人は大体分かる。沢村たちだろう。昨日、僕の親友の僚を虐めているところを目撃して、僕が僚のことを庇ったから。
『んじゃあ、今日からこいつの代わりにお前を虐めてやるよ!』
そう言われて沢村たちにボコられた。お陰で、全身が青アザだらけで痛い。
「可哀想~」
「沢村に逆らうやつが悪いんだよ」
椅子に座っていると、周りからクスクスと不快な笑い声や悪口が小さく聞こえてきた。ふと、隣の席に座る僚に視線を向ける。僚は僕と目が合うと、まるで部外者だと言わんばかりの表情をし、ふいっと視線を反らせた。
周りの嘲笑が、揺れながらだんだん遠退く。
もう、どうでもいい。
家にも学校にも、僕の居場所はないと分かった。
これで僕は、死ぬことを決意した。
◈
僕は担任に体調が悪いと言い、早退した。学校から出る前に、被服室からハサミを、校舎裏の倉庫からはビニール紐を取り、それを鞄に入れた。
ふらふらと住宅街を歩いていると、廃れた小さな公園の向こうに、木々が鬱蒼と立ち並ぶ雑木林を見つけた。そこは、誰の目にも触れない誰の邪魔にもならない、死ぬのにうってつけの場所だった。
僕は吸い込まれるように、廃れた公園に入った。僕の身長より高く伸びた雑草を掻き分けながら、その向こうの雑木林に向かった。
雑草は雑木林の中でもぼうぼうと伸びていて、それを掻き分けながら歩いていると。
「ここでいいか…」
生気の無い音が唇から零れる。目の前には、太い枝を伸ばした1本の木があった。首を吊るのに丁度良い木だった。
僕はスクールバッグからビニール紐とハサミを取り出すと、紐をほどよい長さに切り、紐の先に輪っかを作った。その紐を肩にかけて木に登り、太い木の枝に紐を結ぶと。
「…お父さん、僕も今からそこに行くからね」
そう言って僕は、紐の輪っかになってる部分を首に通し、そして────
「おにいちゃん」
「…え?」
太い枝から飛び降りようとした時、微かに少女の声がした。けど、辺りを見ても誰もいない。
「気のせいか…」
僕は改めて、輪っかになった部分を首に通し、枝から飛び降りようとした。すると。
「おにいちゃんってばあ!!」
と、また少女の声がした。今度ははっきり聞こえ、恐る恐る太い木の枝の下を見た。そこには、麦わら帽子を被った幼稚園くらいの少女が僕を見上げていた。
「そこで何してるのー?きのぼりー?」
「え…っと、その…」
まさか「自殺しようとしてる」なんて言えるわけ無い。僕が答えに困っていると、揚羽蝶が目の前をひらりと通りすぎた。
「あー!いた!おにいちゃん、そのちょうちょさん捕まえて!!」
「へ?ええ?」
両手に紐を持ってて、その紐を首に掛けてる状態だ。もし今、蝶々を捕まえようとしてバランスを崩してしまったら、大変なことになるだろう。いや、そのために首に紐を掛けてるんだけど。でも、この少女が見てる目の前でそんなことはしたくない。
「あ、蝶々君のところに行ったよ」
蝶々は僕の前をひらりふわりと通りすぎると、少女の頭の上を通りすぎ、廃れた公園の方に飛んで行った。
「ちょうちょさん待てー!」
少女は両腕をいっぱいに伸ばして、長く伸びる雑草の向こうにがさがさと消えていった。
「はぁ…」
思わぬ邪魔が入ったが、これで僕はやっと────
「うわーあぁん!!」
「う、わっ!!」
ぎゅっと、紐の輪っかになっている部分を強く握り、今度こそ、太い枝から飛び降りようとした時。先ほどの少女が今度は泣きながら戻ってきた。驚いて片足がずるっと滑り落ち、木から落ちそうになった。僕は慌てて体勢を直し、大きく溜め息を吐いた。
「どうしたの?蝶々逃げられちゃったの?」
僕は首に通していた紐を外し、少女に聞いた。
「ふうう…ちょうちょさんもだけどね、ケガしたの。血がね、手からいっぱい出てきて…いたいのぉっ…!」
ひっくひっくと少女は泣きながらそう言った。
「はぁ~…わかった。僕絆創膏持ってるから、ちょっと待ってて」
そう言って僕は輪っかにした紐を枝の上に置き、ひらりと木から降りた。がさがさとスクールバッグを探って絆創膏の箱を見つけると、少女に近づいた。
「ケガしたところ見せてくれるかな?」
僕は少女の前にしゃがみ、少女の顔を見上げながら聞いた。すると少女はこくんと小さく頷き、右手の甲を差し出した。そこには、7cmくらいの細く縦長い切り傷が出来ていて、血がぷっくりと滲んでいた。僕は箱から絆創膏を3枚出して、その傷に貼り付けた。
「はい、これでもう大丈夫だよ」
「うぅっ…ありがと…」
少女は鼻を啜りながら、ぺこんと頭を下げた。
「お家に帰れそうかな?」
「ちょうちょさんをね、追いかけてたらここに来たの。でもね、ここ初めてきたからわからないの」
「そっか。じゃあ、お兄ちゃんと一緒に帰ろっか?」
「…いいの?」
「うん。手…繋ぐ?」
「うん!」
少女はにぱっと微笑むと、僕の右手をぎゅっと握った。小さくてあったかい手。
この子を家に送ってから、最期の続きをやろうと思うのだった。
◈
「ぴょんぴょんぴょんぴょこ、うさぎさんがぴょんこ♪おつきさんにおててのばして、ぴょんぴょんぴょんぴょこ♪」
少女は僕と手を繋ぎながら、嬉しそうに小さくスキップして歩く。
楽しそうだな…
この子を送った後、僕はこの世からサヨナラするつもりだけど…この子を見てると、今からそんなことをするという実感があまりわかない。
─そういえば、こうして誰かと手を繋いで歩くのはいつ以来だっけ?僕が小さい時、お母さんもこうして手を繋いでくれてたよね。いつから手を繋いでくれなくなったっけ?いつから、知らない男を家に連れてくるようになったっけ?いつから─…僕や、お父さんを見なくなったんだっけ?
そんなことをぼんやりと考えていると、遠くから誰かが僕を呼ぶような声が聞こえてきた。
「─ちゃん、おにいちゃんってば!!」
「え?あ、はい?」
どうやら少女が、僕のことを何度か呼んでいたようで。
「おにいちゃんのお名前なんて言うの?ゆりはね、たちばなゆりって言うんだ」
「そっか、ゆりちゃんか。僕はね、梓光だよ」
「あずさ…?女の子みたいな名前だね!」
「はは、よく言われるよ」
僕は昔から背が低くて女の子みたいな顔をしているし、その上姓名が女子っぽいから、よく女子に間違えられていた。それは、中学生になった今もよくあった。
「ねえ、あずさくんって絶対モテるよね?かわいいしかっこいいし、それにとーってもやさしいし!彼女さんいるの?」
「…僕が?はは、彼女さんなんていないよ。それに、モテないよ。…ていうか、どっちかって言うと、嫌われてるんだけどね…」
って、子供相手に変なこと言うなよ。そう思いながら僕は頭を横に振った。すると。
「じゃあさ!ゆりとけっこんしてください!」
「へ?」
「あずさくん彼女さんいないんでしょ?だったらゆりとけっこんして!」
「え~…」
小さな子供が年上の人に「結婚してください!」っていう、漫画や話でよく見かけるシチュエーションだけど…まさか僕が言われるとは。
…僕、これから死ぬんですけど。
「…ゆりちゃんには、僕より素敵な人がいつかきっと見つかるよ。だから─…」
「やだ!ゆりはあずさくんとけっこんしたいの!あずさくんはゆりのうんめーの人だもん!!」
「う~ん…困ったな…」
どう言って良いのか当惑しながら、少女と手を繋いで交番に向かって歩いていると。
「あ!この道しってる!」
「ちょ、ゆりちゃっ!…」
そう言って少女は、僕の手を引っ張りながらぱたぱたと走る。小さくてあったかい手。さらさらと走る度揺れる黒くて艶やかな長い髪。少女の小さな背中を見つめながら。
「…ねえ、ゆりちゃん。ちょっと聞いていいかな?」
「ん?なぁに?」
ぱたぱたと走っていた足を止め、少女は僕の方に振り向いた。僕は少女の手を離すと、しゃがんで少女と同じ目線になり。
「ゆりちゃんは…さ、僕と結婚したいって言ってくれたけど…じゃあさ、ゆりちゃんは僕がいなくなったら困る?…悲しいかな?」
少女相手に何聞いてるんだろう。ていうか、そんなこと聞いてどうするんだよ…これから僕は死ぬんだから。もう、どうでもいいでしょ。
内心でそう思いながら、視線をだんだん少女から地面の下へと落とすと。
─ぎゅっ。
ふわりと、やさしく抱きしめられた。首の後ろに回りきれていない小さくて細い腕が、耳元で揺れる鼓動が、やわらかな体温が、僕の心を…全身を包む。そして。
「なんで?なんでそんな悲しいこと聞くの?もしかしてあずさくん、おじいちゃんと同じおびょうきだったりするの?おじいちゃんみたいに…いなくなったりするの?そんなのゆり…いやだよ。大好きなあずさくんが死んじゃうなんて、いやだよ…ふう……うっ…」
うわああああああ!!!!と、少女は大声で泣いてしまった。
「ご、ごめ、ゆりちゃん。だ、大丈夫、僕病気とかじゃないから!死なないから!悲しいこと思い出させてごめんね」
少女の背中をさすりながら、僕は言う。
「うっ…ほんとに?あずさくんおびょうきじゃないの?死なない?」
「う、うん!死なない!絶対死なないから!」
「…じゃあ、ゆびきりして!」
少女は抱きつく僕の体から離れ、そう言いながら小指を立てた。僕は少女の小さくて細い小指に、ゆっくりと小指を絡めた。
「ゆーびきりゲンマン、うそついたらはりせんぼんのーます!ゆびきった!」
ゆびきりをすると、少女はまた僕に抱きついた。
「ぜったいぜったいぜーったい、あずさくんは死なないでね」
「うん」
「そして、ゆりとけっこんしてね」
「…うん、ゆりちゃんがもうちょっと大きくなったらね」
「大好きだよ、あずさくん」
「うん…ありがとう」
◈
その後少女を家に送り、僕はさっきの鬱蒼とした雑木林に戻った。すると、枝の上に引っかけていた輪っかにした紐がその枝の下に落ち、風にゆらゆらと揺れていた。
再び木に登ると、風に揺れる紐を手繰り、輪っかの部分を両手で持った。
そして。
「…ありがとう、ゆりちゃん─────」
雫がほろりと頬を伝った。
僕は、その紐を─────…
◈
「今日から新しい高校か。緊張するなぁ」
──────あれから十数年後。僕は、高校教師になり3年目を迎えようとしていた。
僕はあの少女に出会っていなければ、とっくの昔に死んでいただろう。そして霊魂となり、生前のことを呪い苦しみながら、あの雑木林の中を彷徨っていたかもしれない。
少女に出会ったおかげで、少女が泣いてくれたおかげで、死なないでって言ってくれたおかげで─…大好きって言ってくれたおかげで、僕はこうして生きている。生きていようって思える。
あれからも、色々と苦しかったり大変なことはたくさんあったけど…今は『楽しい』と思う時間の方が多くなってる。
あの少女に出会えたから、僕には『今』があり、笑顔でいられる。
あれ以来、少女には出会えていないけど、少女がくれたちいさな温もりや言葉が、僕の生きる糧になっている。
「…元気かな?あの子…」
新しい学舎に向かいながらふと、その少女のことを思い出す。
歩いていると、美しい桜並木通りが見えてきた。その向こうに、僕が通う高校があった。
するとその桜並木の入り口に女子生徒が一人佇み、桜並木を仰いでいた。どうやら、僕が今日から通う高校の生徒のようだ。女子はそこの制服を着ていた。
なんだか─…
足を止め、桜並木と女子の後ろ姿をぼんやりと見つめる。桜吹雪舞う桜並木と、風に靡く女子生徒の黒くて艶やかな長い髪、そしてその後ろ背が─…まるで、絵画の世界のような美しさを思わせる。
その幻想的な風景に少しばかり心奪われていると、その女子生徒が僕の方に振り向いた。
気のせいか、あの時の少女に似ている…気がした─────