ドヤ街を出る圭太
日雇いの仕事をこなしているうちに、圭太は鳶の親方に認めらら、その下で働くことになる。いよいよドヤ街最後の日、一人で飲みにでかける。酔い客がうろつく飲み屋街で出会ったのは、中学からの因縁の相手勝馬だった。
九 圭太 腐れ縁
昭和四十八年末、第四次中東戦争に端を発し、日本はオイルショックにより石油不足となった。以降、印刷用紙が枯渇し、トイレットペーパーの生産量が減り、石油から産みだす電気も削減せよと、街のネオンサインが深夜には消された。そんな暗い混乱の時代だった。
手配師が持ってくる鳶の仕事も減っていた。
それでもその日は幸運にも圭太が希望とする鳶の仕事にありつけた。マイクロバスに乗せられると、郊外のニュータウンの建設現場に到着した。不況でもニュータウンは数年来の継続工事だから、鳶の仕事も途切れることはなかった。
現場に行くと、たまたま顔見知りの鷲崎親方がいた。
親方は鳶の親方で、建設会社のほうから仕事を依頼されて、職人を集めて現場に来ている。親方のほうだけでは鳶の人数を集められないときは、この日の圭太のように、労働センターの手配師を通じて、鳶ができそうな連中をかき集める。
圭太は、鷲崎親方と縁があったのか、これまで延べ一か月以上、同じ現場で働いたことがあった。
その朝、圭太の顔を見るなり親方が話しかけてきた。
「おう、圭太。折り入って話があんだ。昼の休みに時間とってくんないか?」
それは十五歳の家出から、不遇な日々を送ってきた圭太に訪れたまたとない好機だった。すでに圭太は三十歳に手が届こうしていた。
昼休み、鷲崎親方と圭太は、建築物の鉄骨部分を椅子代わりに隣どうしにすわった。親方が圭太の分の弁当も買ってきてくれた。遠慮なくご馳走になることにした。
「鷲崎親方。話ってのは?」
親方は鳶らしくガタイがよく筋肉質だ。真っ黒に日焼けした顔をほころばせた。
「おれは知っての通り、鳶の四人の職人を抱えて親方をやっている。そうすると、仕事によっちゃあ、職人の人数が足らないこともある。そんなときは、まあ……、知り合いから職人をかき集めて、混成部隊で仕事をこなしている」
親方は弁当を食べながら話を進めた。
「だがよ、おれんとこの仲間もずいぶん歳くってきてよ。そばで見ていて危なっかしい奴も出てきたんだよ。そんな奴には安全な仕事を任せるなりして、若い奴も入れたいんだよ。それで筋のいい若い奴を探しているんだ」
親方いわく、圭太は鳶職として筋がいい。そのうえまだ二十歳代で若い。ドヤ街に住んでその日暮らしの生活をしていることはない。そんな生活などやめて、親方のところに来いということだった。
親方のもとに行けば、よほどの不況でない限り、賃金が途絶えることもない。そのうえ住む場所も、親方の家の近くにこぎれいなアパートがあり、そこならこれからの賃金で家賃も払えるという。悪くない話だった。
中学卒業後、家を飛び出した圭太は、長年、その場しのぎで食いつないできた。会社員ほどではないが、親方のもとで安定のある仕事につけるとしたら初めてのことだった。圭太は喜びを噛みしめた。
親方との話はとんとん拍子に進んだ。
その日、日雇い労働者としての最後の仕事を終えた。
いつもなら薄汚い食堂のコップ酒で一日の疲れをいやすのだが、ドヤ街も明日でお別れかと思うと、少し贅沢をしたくなった。
明日、ドヤ街を出るといっても、引っ越しでとりわけ準備をすることもなかった。持ち物は手さげ鞄ひとつと身軽なものだ。その後は、区をまたいで、親方の営業拠点の近くのアパートに移り住む。
僅かであるが、これまでの蓄えがあり、美味い酒を呑もうと、その夕刻は隣町の酒場町まで足を延ばした。
着るものといっても、冬物の作業着か、いま着ている春夏兼用の作業着しかなかった。灰色の作業着姿で、焼き鳥屋とおでん屋を梯子した。
「うぉ、はらわたに染みるってこのことだなぁ。もう一杯くれ」
店のカウンター席にすわりながら酒のおかわりをした。最初は銚子と御猪口で飲んでいたが、酒が進んでくるとコップで注文した。
酒に酔って現実から足が宙に浮いたとき、圭太の頭の中にはときとして、細切れに過去の記憶がよみがえる。それはまるで、大昔の白黒映画のように切れ切れでぎこちなかった。その夜がそうだった。酔いで揺らめく頭の中に動き出した。
辛い思い出だった。
すでにこの世を去った実の母が、着物姿で幼い圭太を抱きかかえていた。長い、長い電車旅だった。母は圭太の隣の席で泣いたままなにも相手をしてくれない。目の前には車窓ばかりを見る父がいた。
父と母と圭太の三人で家に帰った。
だが、それは家に親子で帰ったというだけで、母はもとの母ではなかった。日がな一日和室の隅で、待たされた客のように、ぼんやりすわったままで何をするでもなかった。
母は自分の身の回りのことはするが、他の家のことはいっさいしなくなった。ぼんやりしたまま圭太にもなにもしてくれなくなった。これまで読み聞かせてくれた本も部屋の隅で埃をかぶっている。抱いてくれようとしない。話しかけてもくれない。
母は父が鬼になった日から変わってしまったのだ。母がなにもできなくなったため、手伝いのお婆さんに来てもらうことになった。ご飯の支度から掃除、圭太の面倒まで、すべてお婆さんがしてくれた。
いっぽうで母は、いっこうに圭太に気をとめるでもなく、父にも口を開くこともない。食も進まず、見る見る痩せてゆくばかりだった。
そうして圭太が五歳のとき、母はやせ衰え死んでいった。父にも圭太にも残した言葉はなかった。
すべてが三歳のあの日から変わった。遠い地に、鬼となった父が追いかけてきてからだ。
小学校にあがるころには、作業所の裏で従業員たちが父に隠れて話をするのを耳にしたりして、長い電車旅をしたときの父と母の事情を知った。
母と駆け落ちした男が悪かった。そうならざるを得なかった父と母の関係が問題だったとか、そんなことはどうでも良かった。ただ、ひどく父が嫌いになった。
圭太はおでん屋の丸椅子にすわりながらコップ酒を浴びた。コップ酒を呑むのなら、ドヤ街の安食堂で呑んでいるのと一緒じゃあないかと苦笑した。
そのうち酔いがさらに進むと、不憫な母親への思いは鎮まり、ドヤ街で暮らしたことの思い出に浸るようになった。長年の日々の仕事探し、寝泊まりの場所探し――。苦労だらけのドヤ街とサヨナラするのかと思うと感慨もひとしおだった。
三軒目の店を出ると、酒場町では客引きの姿が目立つようになっていた。酔客を狙って高い金を巻き上げようという魂胆だ。
圭太も家出をした当初は、中学を出たばかりで雇ってくれるところならどこでも良かった。行く当てもなく、ネオンの光に誘われるまま、年齢をごまかして、飲み屋街の客引きや皿洗いの仕事をした。
だが、嘘のつけない武骨な圭太には、人をおだてたり、騙したりしながら、金をかすめとる虚飾だらけの飲み屋街の生活はなじめなかった。それなら肉体ひとつで生きてやれと、日雇い労働者の街に流れてきたのだ。
スーツを着て服装を整えた客引きの男がすり寄ってきた。
「どうですか? お客さん。これからどこか決まったところあるんですか。うちにはいい娘がいますよ」
圭太は自分が十代のころ、同じようなことをやっていたことを思い出した。
客引きが肩に手をかけようとしたのを軽く払った。
「間に合っている」
こういう手合いには相手をしないのが一番だ。
客引きをかわしながら、酔った足で酒場町の通りを歩いた。
一人で止まり木にすわりながら呑めるバーを探すか……。それとも、ここらあたりで引きあげてドヤ街の宿に帰るか……。そんなことを考え、心地よく圭太は歩いていた。
すると背後がなにやら騒がしくなった。女の抗うような声がする。
「いやです。困ります」
うるさいんだよ。せっかくいい気分でいるのによ。
他人事だ。勝手なことやってろ、と思いながらも振り返った。
一軒のスナックからもつれるように出てくるふたりの人影があった。男が女の手を引っぱっている。
「さぁ、いっしょに来るんだ。ママも了解しているんだから」
どうやら店のホステスを客が連れ出そうとしているようだ。薄闇のなかでも、男の白のスーツは、それなりの金をかけているとわかる。いっぽうの女は着物姿で髪を結いあげている。女は腰を引いて、男に連れていかれまいと抗っている。
圭太は十代のころ飲み屋街で働いていたが、こういう組み合わせは飽きるほど見てきた。
いい気分で酔っているのに、それを邪魔されたくなかった。
圭太は舌打ちをすると、もつれ合うようになった二人を見過ごし、立ち去ろうとした。厄介事に関わる気などもうとうなかった。
「なにをいまさら、おれに恥をかかせんなよ」
いらついた男の声が大きなものとなった。
ふと、圭太の足が止まった。
ホステスの手を引く男の声に聞きおぼえがあった。圭太は改めて振り返ると、女の肩を抱き寄せようとしている男の顔を見た。
「勝馬……」
よりによって女ともめているのは中学からの腐れ縁でつながる勝馬だった。
大学を卒業して父の鷹佐土建に勤めてからは、労働センターで手配師をしている。圭太の姿を見つけると必ず蔑んだような目をして、近づいてきた。俺のところで使ってやろうか――。
世話になるのは嫌だから、勝馬が持ちかけてくる仕事は決してしなかった。見るだけで反吐が出そうな奴だ。
スナックの戸口を照らす電飾看板の光が、腕を引かれ、抗う女のうなじを映す。その青白いうなじは、細くしなやかでなまめかしかった。勝馬の腕がその女の体を力任せに引き寄せる。
バリバリ――。いきなりの異音だった。青色の電飾看板が金属をひっかくような音を立てて点滅した。電気がショートしたらしい。
それと同時だった。圭太は脳に衝撃を受けて脚をもつれさせた。
つい先ほど、一人酒をしているとき蘇った、母親との長い列車旅での記憶がここでも蘇ったのだ。
過去の辛い記憶が暴れ出した。
幼いころ、実の母佐代子とどこか遠くに行った。知らない男と一緒だった。
父の龍吾がものすごく怒って追いかけてきた。母と圭太を庭先に出すと、龍吾は男と二人になって、古い田舎家で喧嘩をした。
ただただ怖かった。
佐代子は圭太を抱いて、耳元で
「ごめんね。ごめんね。圭太」
と泣きながらひたすら謝っていた。
幼い圭太は、母がなにに対して謝っているのかがわからなかった。
その母のうなじは白く、細く、はかなげで美しかった。
圭太は母が気の毒でならなかった。
父はいつも暴力をふるう。母にも周りの人たちにも、だれかれかまわず怯えさせて、自分の思い通りにする。父が嫌いだ! 嫌いだ!
酔いの回った目で、圭太は、勝馬に抗うホステスのうなじと母の佐代子のものをダブらせた。
これまでの勝馬への恨みがこみ上げてきた。中学のころから憎んでいた。なにかと喧嘩を吹っかけてきて、圭太にも手を挙げさせた。そのうえ、どうだ? ここ数年のあの男の自分を見下す目つきはどうだ? 鷹佐土建の手配師がどんなもんでぇ。許せん!
足が自然と動いた。
二人のもとに歩み寄ると、勝馬の腕をつかんで女から引き離した。「女が嫌がっているのに手を離してやれよ」
それまで女にだらしない顔を見せていた勝馬の顔が怒りで変わった。
「誰だ。てめぇ!」
圭太は勝馬の腕をつかんだまま
「行け」
と女を逃がした。
女は怯えた顔で圭太を見ると、小さく頭を下げた。振り返ることなく小走りで立ち去っていった。
勝馬は、ここでようやく腕をつかんだ相手が誰かが分かり、声を上げた。
「圭太か! なんで、おまえがこんなところにいるんだ!」
相手が圭太であることがわかると
「ここは、れっきとした飲み屋街だ。おまえのような文無しのドヤ街の住人が来るところじゃねぇ!」
怒りで声を震わせた。
勝馬からしたら相手は中学時代からの因縁の圭太。それも、いまでは落ちぶれたその日暮らし労働者。ものにした女とのことを邪魔されて、最高にプライドを傷つけられただろう。
今度は勝馬のほうが大声をあげると、
「この野郎、ただですむかぁ! こっちに来い!」
圭太の襟首をつかみ、圭太を路地裏に引っ張り込んだ。
照明がなく、ゴミのポリバケツや麦酒の木箱が散乱している。
勝馬はいきなり圭太に殴りかかった。
「おめぇみたいなやつは中学のときにやっておかなきゃならなかったんだ。どこまでも目障りだぁ!」
二発、三発と拳が顎に入り、圭太はのけ反って後ろによろけた。だが、父親の会社に入って営業をしている勝馬の腕力はさほどでもなかった。毎日、体を使って肉体労働をしている圭太の腕っぷしに比べれば非力だった。
圭太はすぐに立ち直ると、次には振り回してきた勝馬の拳を腕や手で防いだ。この程度なら中学のときの勝馬の拳のほうが力があったと哀れんだ。
軽くやっちまうか――。
足を踏ん張って、体勢をととのえると、今度は逆に勝馬の顎と腹に数発素早く攻撃を加えた。
あっけないものだった。
勝馬は海老のように体を折り曲げると、腐臭立ちこめる路地の側溝に顔を埋めるように倒れた。簡単に勝負はついた。
腹を押えてゲェゲェいっている。胃の内容物とともに、勝馬は弱々しく喚いた。
「くそうぅ、おぼえていろよ。今度会ったら殺してやる……」
圭太は踵を返すと、背後で呪い続ける負け犬を残し、酒場町を後にした。酔いは回っているが、解放感に浸った。
明日にはドヤ街の宿を引き払う。それでおしまいだ。路地裏で身をよじっている腐れ縁ともこれでお別れだ。ドヤ街にも隣町のこの飲み屋街にも、もう二度と来ることもない。
とりわけ、酒場町で勝馬と遭遇したのは絶好のタイミングだった。よく目の前に現われてくれたかと思う。
勝馬にはこれまで何年もの間、手配師と日雇い労働者の関係で、まるで野良犬のような扱われかたをしてきた。それもこの夜精算できた。
この日を境に新しい人生に踏み出せるのだ。
( 続く )