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龍吾と佐野の決闘

龍吾は、佐代子と圭太を奪い返すために部屋のなかに飛び込んで闘う。そのとき軒にかかっていた鉄製の風鈴が妙に心に残る。

 八 佐代子 戦後(その三)


 部屋のなかに残ったのは龍吾と佐野の二人だった。障子戸を通して、屋外からは連れ出された圭太の泣き声が聞こえた。

 龍吾は目の前の若造にありったけの怒気をぶつけた。

「佐野! てめぇ、佐代子と一緒になるつもりか!」

 問いつめると佐野はいきなり土下座をした。

「社長。申しわけございません。わたしはどうしても佐代子さんと一緒になりたいのです。息子の圭太くんも、わたしが責任を持ちます。許してください。佐代子さんもそのつもりです」

 佐野は両手をついて、畳に頭を押しつけた。

 龍吾は怒りとともに佐野という男にあきれ果てた。ここまであからさまに、人の妻を欲しいというか? その一方で、佐代子と佐野が愛し合っているのも思い知らされた。

 そのうえ、佐野は圭太まで奪い取ろうとしている。

 龍吾の怒りは頂点に達していた、これまで生きてきたなかで一番の屈辱だった。佐野をいますぐ殺す。

「ぬけぬけと、人の女房を! そのうえ息子もだと! この場で叩き殺してやる!」

 佐野の襟首を両手でつかんだ。

「佐野! 立ち上がれ。おれと勝負だ。おめぇが勝ったら佐代子と圭太をくれてやる! だが、おめぇが負けたら、おれが佐代子と息子を連れて帰る」

 頭一つ分上背のある佐野を立ち上がらせた。

 これまで腕力で周りを押さえてきたといっても、歳を考えたら対の勝負で二十代の壮健な若者に勝てるかは不安だった。だが、命をかけてでもやるしかなかった。

 龍吾は襟首をつかんだまま力を込めて佐野の体を持ち上げた。目を閉じて佐野は唇を噛みしめている。それまで青ざめていた顔がしだいに般若の面のように歪み、真っ赤に膨れ上がってきた。

 いきなり龍吾の手首が想像以上の力で捻じ曲げられた。

 佐野の両腕によって体を引き離されると、つぎにわき腹に膝蹴りが飛んできた。呼吸が止まった。

 龍吾の若くない体は持ちこたえられずに畳一畳分跳ね飛ばされた。本が好きだといっても佐野はひ弱ではない。戦地では敵を相手に戦ってきた兵隊だ。

 間髪を入れずに佐野の拳が襲いかかってきた。顎を殴られてぐらついた。倒れそうになるのを踏ん張った。

 龍吾は敏捷性では太刀打ちできないが、腕力ではまだ負けないと信じた。喧嘩では若いころから場数を踏んだぶん勝算もある。

 体を低く曲げて猪のように突進した。

 佐野の拳をかいくぐって猛然と腰に組みついた。そのまま押して、佐野の背中と後頭部を激しく壁にぶつけた。

 砂壁の粉が舞い、壁面に亀裂が走った。衝撃で佐野の体が力を失い、尻から崩れ落ちた。ここぞとばかり、龍吾はその体に何発も蹴りを入れた。

 壁際で横たわり、戦意を喪失した佐野を見下ろした。鼻と口から血を流していた。唇と目の周りがはれ上がってきていた。

 目は龍吾をまっすぐに見上げている。闘い終わってなにかいいたげだった。すると、佐野の目が真っ赤に腫れあがってきた。その目からは涙が溢れてきた。

 龍吾からは佐野に対する憎しみが急速に失せていった。

 声には出さないがなにか語っているようだ。

 ――社長。すみませんでした……。

 そんなことをいっているのか? 

 佐代子を奪おうとした男なのに不思議と憎み切れなかった。涙のなかの眼差しにどこか誠実さを感じた。

 自分から殴り倒されようとしていたのかも知れない……。

 龍吾は目をそらした。


 体がふらついているのがわかった。心も揺れているようだった。

 これ以上ここにいる理由はなかった。早く泣いている圭太のもとへと行かなければならなかった。

 屋外に通じる障子戸を開けて濡れ縁に立った。

 離れの前では井沢が立ち、その足元に佐代子がうずくまるようにしてすわっていた。泣きながら圭太を抱きかかえていた。

 佐代子と圭太のもとに――。

 龍吾がふらついた足で濡れ縁を踏みつけたときだ。左目のわきを何者かが鋭く突いた。龍吾は一瞬にして身構えた。

 佐野には顎と頬を殴られていたが、それとは別にいま、左瞼の上を何者かが出刃の先で襲ってきたように思えたのだ。

 立ち止まって、左目を手でおさえると、無傷の右目で見回した。

 近くで乾いたようなカラカラとした音色が聞こえた。庇の陰に隠れるように鉄製の風鈴がひとつ吊るされていた。

 風に短冊をなびかせ、寺の梵鐘ぼんしょうの形をした風鈴が、左右に振れたり、上下に跳ねたりしていた。


 龍吾は自分の左瞼を襲った黒い塊を眼で追った。

 ――風鈴がおれの目を切る? 今この場で、佐代子を寝取った相手を叩きのめした、このおれを? 

 風鈴ごときが、こしゃくな奴と思いながら、風に揺らぐ風鈴を指先でつまんだ。すっぽりと手のなかに収まった。しげしげと見る。鉄さび色をして、いかめしく、やけに威厳がある。強そうで、まるで昔の武将の兜を彷彿とさせた。

「おめぇ、兜をかぶっているのかよ。おれに一刺しするなんざぁ、強すぎるぞ」

 龍吾は風鈴相手に苦笑いをすると、指を離して風に揺るがせた。風鈴が奏でる硬質な音は、妙に心に沁み渡った。

 佐野の隠れ家に飛び込むときから靴をはいたままだった。龍吾は背筋を伸ばすと、濡れ縁から佐代子と啓介のもとに降りた。

 幸運なことに、佐野をかくまった家の母屋には人の気配はなかった。農作業に出ていたのかもしれない。そこの家人と顔を合わすことはなかった。

 翌日、長い鉄道旅だった。

 上野へ向かう国鉄東北本線のなかで佐代子はハンカチで目を押さえてうつむくばかりだった。圭太はずぅっと隣の席で黙ったまま佐代子にもたれかかっていた。龍吾が話しかけても佐代子はなにもこたえなかった。

 龍吾はこの長い旅が終われば、家族三人でやり直せると信じていた。

 もう三十年近くも前のことであった。


 病床の龍吾の腕は老木の木肌に巻かれているようだ。やっとのことでうつ伏せになると、震える手で水差しからコップに水を注いだ。それを飲み終えると、ゆっくりと布団のなかにもぐった。

 襖を隔てて隣の部屋にいる恵子は、龍吾が床から、水を苦労しながら、飲んでいた気配に気がつかなかったようだ。いや、気づいていたかもしれないが、龍吾が呼ばなかったから来なかっただけかもしれない。こちらから注文を出せばよくしてくれる女房だが、どこか物足りないところがある。

 日に日に枕の堅さが首すじを圧迫するようになっていた。

 目を閉じて、くり返し思い出すのは、佐代子とともに暮らした日々だった。六年という短い間だった。また、世のなかから見れば悪妻であったかも知れない……。

 いま、床で仰向けになる龍吾の眼に映るのは、黒々と浮かぶ天井の木目と節だった。佐代子がいたころは、若妻と暮らすのにふさわしい家だった。木肌は美しい艶を見せていた。 

 佐野と駆け落ちした佐代子を岩手から連れ戻すと、表面上はこれまでと変わらない生活がはじまった。龍武土建に勤める従業員たちもわきまえており、表だって龍吾と佐代子の醜行しゅうこうを口にするものはいなかった。龍吾はこれですべてが元通りになると思っていた。


 ところが家に連れ戻してからの佐代子は、どこか空虚で、自分の世界に閉じこもっているようなのだ。

 圭太が絵を描いていようと、積み木をしていようと、隣にすわる圭太に気をとめるのではなく、ただぼんやり窓から遠くの景色に目をやるだけだった。料理をつくっても生煮えのものを出すようになって、以前の佐代子ではなくなっていた。

 龍吾はそんな佐代子を見て、しばらくの間、年配のお手伝いさんを雇って、家と圭太のことを見てもらうようにした。

 家事と子守をとって、佐代子が精神的に楽になったら、体が快方に向かうだろうと考えたのだ。

 お手伝いさんが来ると、佐代子は彼女について、家のことや圭太のことをみようと立ち上がった。だが、すぐにヘナヘナとすわりこんで、結局はたいしたことはできなかった。謝りながら笑顔を見せるのだが、それも作り笑いであった。

 健康のほうにも大きな問題があった。佐代子はもとから食べるほうではなかったが、これまで以上に食が細くなっていった。痩せていく一方で、少し動いても、座り込んでしまうありさまだった。医者に診せたが、もっと食べることですねの一言だった。

 龍吾はそんな佐代子を見るにつけ、佐野は佐代子のなかで永遠に居座り続けるのであろうと怯えた。


 枯れ枝のようにやせ細った佐代子は、結局、体調が好転することなく、佐野との一件から三年でこの世を去った。

 愛する母を五歳という幼さでなくした圭太はそれ以降、寂しさを拭い去れなかったのだろう。行動が荒っぽくなってゆき、小学校に入学したころからよく喧嘩をするようになった。

 圭太のためにも、母親が必要だと考えて、龍吾は五十五歳のときに歳が十五歳離れた恵子を次の妻に迎えた。恵子も戦争により夫に死なれていた。問屋の娘で、さっぱりとしていて気立てがよく、気難しい龍吾ともうまくやれた。圭太が十歳のときだった。

 それまで佐代子の代わりに身の周りを見てもらっていた年配のお手伝いさんは、恵子が家に入る時期に合わせてやめてもらった。

 龍吾は天井をぼんやり見つめたまま、名前を口に出した。

「佐代子……」

 とうにこの世を去った佐代子が何かを答えてくれるわけではない。

 その代わりだろうか……。窓を通して、軒にかけた鉄製の風鈴の音が硬質な音を伝えてくれる。

 いま軒先にかかっているものは、岩手に佐代子を連れ戻しに行ったとき、佐野と身を隠していた離れに吊るされていたものと同じ鉄製の風鈴であった。

 佐代子が死ぬ少し前だったろうか? 圭太がまだ小学校に入学する前だ。龍吾は圭太を連れ出して近所の祭りを見に行った。そこの露店で買った風鈴であった。


  ( 続く )

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