佐代子のあとを追う龍吾
佐代子は圭太を連れて失踪した。龍吾は部下の井沢を引き連れて、その後を追う。
七 佐代子 戦後(その二)
便箋五枚に及ぶ手紙を、龍吾は震える手で何度も読み返した。
佐代子を初めて抱いたときのことが苦い記憶としてよみがえっていた。空襲で崩れ落ちた佐代子の住む家を、龍吾が自らの手で直した。そのなかで、自由に振舞ってなにが悪い。
無理やりだった。
愛情があれば許されるとねじ伏せた。佐代子は抵抗した。それでも世の中を喧嘩上等で生きてきた龍吾の力から、逃げおおせるだけの力は佐代子にはなかった。顔をそむけ、苦しみと恐怖で顔を歪ませた佐代子の表情は、今でも鋭いトゲとなって龍吾の胸に突き刺さっている。
結ばれたあと佐代子にあらん限りの愛情を注げば、その行為は帳消しになると考えた。
結婚をして、龍吾は不自由のない生活を送らせた。息子の圭太もできて幸せそうに土建屋の女房をつとめていた。
佐代子と龍吾の関係はうまくいっていた。そのつもりだった。
「それなのに……、それなのに、おれとはだめなのか!」
佐代子と圭太の立ち去ったあとの静まり返った家で、龍吾は手紙を握りしめて泣き喚いた。
「おれが歳をとっているからいやなのか! 若い男がいいのか!」
佐代子が駆け落ちした男が誰であるかは見当がついていた。現場監督のほうから、従業員の佐野がいきなり姿を消したということを聞いていた。
龍吾は目の前の卓袱台をひっくり返した。
「おれが無学で乱暴者だからいやか!」
卓袱台返しを誰に見せるわけでもない。ただ、こうでもしなければ暴発した感情のはけ口がなかった。
いったん絶望したものの、龍吾は持ち直した。
佐代子をあきらめるわけにはいかなかった。他の男に走ろうと、そんなことは一時の気の迷いだ。龍吾の汚点にはならないと考えた。一人息子の圭太も取り戻さねばならない。将来、龍武土建を継いでもらう大事な一粒種だった。
龍吾は面目を失うことをためらわなかった。翌朝、仕事の前に従業員たちを集めて叫んだ。
「恥をさらすようだが正直に話す。おれの女房が昨日、駆け落ちをした。相手はお前たちも知っている佐野だ。このまま放っておくわけにはいかない。おれは女房を取り戻したい! 誰か、なんでもいい、どんな小さなことでも手がかりになるようなことを教えてくれないか? 佐野の素性だっていい!」
従業員たちは最初、驚きでざわめいたが、龍吾のいちずで深刻な思いを感じ取り、すぐにも静まった。
一人が佐野のことを少しは知っていると手をあげた。口数が少ない佐野であったが、佐代子以外にも身の上話をした相手がいたのだ。
その男によると、佐野は満州からの復員兵だそうだ。一時満州で捕虜になっており、帰還すると東京に残っていた父母は空襲で死んでいたそうだ。悲しいけれど、当時としてはよくある話だ。
職もなく、行くあてもないので、遠縁の親戚を頼って東北に行くことも考えていたようだが、東北に行っても仕事にはありつけそうもなく、うろうろしていたところを、龍吾の経営する龍武土建に拾われたという。
――東北か……。頼る先がない佐野なら、佐代子を連れてゆく可能性がある。この東京から隠れる場所としてはうってつけの地だ。
龍吾は唸った。当てにならない手がかりでも、それに賭けてみるしかなかった。
動くなら早いほうがいい。
仕事は現場監督に任せておいて、さっそくあくる日、若い井沢という従業員を連れて佐代子を捜しはじめた。井沢は龍吾が龍武土建を立ち上げたころからの部下で、従業員のなかでは一番信頼できた。
まずは都内にあるという佐野の住まいへと出向いた。多くの焼け出された民家がそうであるように、いまだ戦後復興とまではいかず、佐野の家も、半壊した住居の隙間を、寄せ集めの材木やトタン板で塞いでいた。
表戸を井沢にバールでこじ開けさせて、家のなかに入った。三和土は小さな畳敷きの部屋につながっていた。がらんとした部屋に卓袱台が置かれ、そこにふたつの湯飲み茶碗が並べて残されていた。
茶碗の口はところどころ欠け落ちていて、底のほうには変色した茶が少し残っていた。
二人が駆け落ちする前に、茶を飲んでいたようだ。
「あいつらはいったんここに立ち寄ったあと姿を消したんだ。くそう、佐野の奴、殺してやる!」
龍吾は怒りでかたわらの柱を握りこぶしで殴りつけた。安普請が揺らぎ、天井から砂ぼこりが落ちた。
「親分、家が壊れますよ」
従業員のなかには、井沢のように昔から仕えていると、龍吾のことを親分と呼ぶものもいた。戦争直後、土建会社の社長におさまるまでは、集団のボスとしていろいろな労役をこなしていた。そのときの名残で親分と呼ぶ従業員もいた。
襖を開け、隣の部屋を見た。読書好きの佐野らしく、部屋の隅の板の間には文机が置かれ、その両脇には山と本が積まれていた。
いずれにせよ、空襲で半壊したあと、ベニヤとトタンで雨だけを防いだ家屋だ。狭いうえに置き場もないためか、家具はほとんどなく、男物の衣服が壁にかけっぱなしだった。
「なにか手がかりになるようなものはねぇか?」
龍吾は胡坐をかいて、文机の引き出しのなかを調べはじめた。
そのかたわらで、井沢は山と積まれた本を手に感嘆の声をあげた。
「えれぇ、本を読んでいるんだなぁ。永井荷風、火野葦平、太宰治……。佐野って男。おれには想像できねぇような頭をしてやがる」
「おれにもわからん」
苦虫を嚙み潰したような顔で、龍吾はつぶやくと思った。
――佐野という男のことは、本が好きな佐代子だけがわかるのだろう。そして二人はどちらからともなく惹かれ合った。
佐代子は龍吾との生活で、衣食住になんら不自由をしていなかった。それなのに読書好きなだけで貧乏な男のもとへ走った。
龍吾には不可解であった。
駆け落ちした佐代子への怒りは膨れ上がるばかりだった。いっぽうで理解できない世界を好む人間たちがいて、その者たちからは、疎外されていると思うと、ひどく傷ついた。
引き出しから出てきたものは、多くは光熱水費など生活に係わるものの領収書や、役所からの広報などであったが、そのなかに数枚の人物の写真があった。
龍吾が見たことのない夫婦が二人で写っていたり、その夫婦と幼い息子の三人が映っていたりする。十歳ほどの息子は、子どもながらに頭が良さそうにみえる。佐野の子どものころの写真のようだ。夫婦のほうは佐野の東京空襲によって死んだ両親だろう。
「これでは逃亡先の手がかりにならない……」
と口にしたところに、別の人物が写る一枚が出てきた。
小さな佐野と、母親ではない誰だかわからない婦人が山を背景に映っている。
「ここはどこだ?」
隣から井沢も写真を覗き込んできた。
「いやぁー、わかりませんね。山だけですね。東京じゃないっすね。これが遠縁のいるっていう東北の山ですかねぇ」
どこの山かはわからないが、龍吾はその一枚の写真を持ち帰ることにした。
つぎに龍吾と井沢が向かったのは役所だ。
当時は他人の戸籍であろうと簡単に閲覧できた。佐野の出身は岩手県盛岡のとある村だと分かった。
一家は全員東京で暮らしていたのだから、以前住んでいた盛岡の家が残っているかどうかは分からない。ただ、佐野が同僚に話していたように、そこには遠縁の親戚がいるかもしれない。
佐代子が駆け落ちしてから三日後には、龍吾は井沢を引き連れて上野駅から朝一番の国鉄東北本線に乗った。
長い列車の旅が始まった。椅子に向かい合わせにすわると、龍吾は井沢にいい聞かせた。
「いいか。こうして、わしがお前を連れて佐野を追いかけているのは、佐代子と息子の圭太を取り戻すためだ。佐野を半殺しにするためじゃねぇ」
こうして念を押したのは、裏を返せば、龍吾とともに井沢は厄介事を乗りきるために、荒っぽいこともしてきたということだ。
「井沢。お前は佐代子と息子の居場所を見つけたところで、身を引いてくれ。あとはおれ一人で解決する」
井沢までが手を出し、二人で襲いかかれば、佐野のほうが命を落としかねなかった。この件は龍吾と佐代子、佐野の問題であって最後は自分一人の力で解決したかった。
「へい、わかりやした」
酒で赤くなった顔で井沢は返事をした。
長い国鉄の旅で時間を持て余す、酒もずいぶん進んでいた。
列車が盛岡駅に着くころには、あたりは暗闇でおおわれていた。この日は、酔って足元のおぼつかない井沢と旅館に泊まることにした。
あくる朝、日が昇るのを待って龍吾たちは佐代子たちの追跡を続けた。盛岡駅から運行本数の少ない路線バスに乗り、戸籍が示す村へと向かった。戸籍謄本に記載された住所が手がかりとなり、当てのない旅でもなかった。
到着したのは午前十時を過ぎていた。
遠神山の麓にある小さな集落だった。東京の佐野の家から持ち出した写真と、いま龍吾たちがいる場所から、山の景色を比較してみた。なだらかな山の形状は同じ角度で映した三角錐をしていた。ぴったりだった。何年前のことだろう。この方角から山を背景に幼い佐野と婦人を撮ったに違いなかった。
龍吾たちは写真の場所までたどり着いた。
つぎに、集落の民家の数は見たところ五、六十件ほどのものだ。ここから、どう母子を捜しにゆくかが問題となった。
手元のメモには、東京に本籍地を移すまでの、岩手県での本籍地がある。それが手がかりにはなる。
ただ、本籍地といっても、佐野の戸籍が岩手から東京に移された時点で、昔の岩手のものは抹消されるのだから、そこに佐野の家が残っているかどうかは疑問だ。すでに解体されて跡形もないかもしれない。
そう考えると、いっそのこと親子連れの三人が、最近、この集落にやってこなかったかと、聞き回るほうが早いかもしれない。
ただ、それにも問題があった。
この界隈では龍吾と井沢の服装は目立ちすぎる。龍吾はカンカン帽に白の上下のスーツ。井沢も縦縞の派手なシャツを着て、こちらも白いズボンを履いている。この集落の住人はもっぱら農家だから、二人のことをやくざ者と見るだろう。
二人を目撃すれば、すぐにもやくざ者が厄介事を持ち込んできたと思い、佐野が潜んでいる家にも伝わって、龍吾がたどり着く前に逃がしてしまう恐れもあった。
龍吾としては、集落をひっそり回って、住人にも極力接触せずにい合場所までたどり着きたかった。
佐野と佐代子は幼い圭太を連れている。そこで思いついたことは、小さな集落で圭太の存在を消しておくのは簡単ではないということだ。
敷地内で遊ばせているかもしれないし、家のなかにいたとしても、子供が声を出していたのなら表まで聞こえるだろう。圭太は龍吾の可愛い一粒種だ。声を聞いたら圭太のものとわかるはずだ。
ぽつりぽつりと、まばらに建ち並ぶ田舎家を一回りしてみようと考えた。
十数件もまわると、同じ敷地内に古びた母屋と離れが並んだ一軒の家があった。離れのほうは、座敷二間に小さな炊事場がついたほどのこじんまりしたものであった。敷地に面して、短いながらも濡れ縁が設けられていた。
二人は足音を潜めながら敷地内を歩いていった、すると離れのほうから幼い声がした。
衝撃が走った。間違いなく圭太のものだ。
「おかぁさん。おかぁさん。これ読んでよ」
佐代子に絵本を読んでくれとせがんでいるのだ。
龍吾と井沢は顔を見合わせると、乗り込む前にもう一度念を押した。
「井沢。これはおれと佐野の問題だ。どんなことがあっても、絶対に手を出すんじゃねぇぞ」
「親分が負けるとは思っちゃいねぇが、佐野の奴は若いし、それに戦争帰りで敵と戦ってきた奴だ。もしものときは……」
「おれが歳だっていうのかぃ。確かにおれは五十歳に手が届こうとしている。だがよ、これは男と男の問題でぇ。おれ一人で絶対に佐代子を取り返してやらぁ!」
龍吾は離れの濡れ縁の前に立った。
井沢には離れに近づくな。敷地の隅で待っていろと念を押しておいた。ここからは龍吾一人だった。
唾をのみ込んだ。
どんなことがあろうと素手で勝負するつもりだった。相手が逆上して刃物を持ち出しても、素手で佐代子を取り返すことが男の証に思えた。
障子戸に無言で手をかけた。古い造りで、ひどく耳障りな音を立てた。いっきに開くと、龍吾は土足のままなかへと飛び込んだ。
旅館の使用人の部屋を思わせた。小さな和室には、畳んだ蒲団を背にもたれかかって、煙草を吸う佐野の姿があった。そのかたわらには絵本を読み聞かせている佐代子と、寄りそう圭太の姿があった。
圭太は絵本を見ながら、さかんに佐代子に、これなぁにと聞いたり、笑ったりしていた。事情を知らないものが見たのなら、それはどこから見ても幸せな家族であった。
佐代子と佐野は仁王立ちの龍吾に気がつくと、化け物を見たように面相を引きつらせた。
圭太だけが龍吾を見て喜んだ。
「おとうさん!」
普段と変わらない笑顔を向けてきた。父親のもとに駆け寄ろうとする圭太を、佐代子は腕をとって行かせまいとした。
龍吾が口火を切った。
「おれの女房と息子を返してもらう」
顔を真っ青にした佐野が、煙草を灰皿に押しつぶすと跳ねるように立ち上がった。
「待ってくれ! 社長。おれは悪気があって……、おれたちは愛し……」
龍吾は佐野の言葉を遮った。
「うるせぇ!」
佐野にはしゃべらせない! 「この野郎!」
小さな離れを吹き飛ばすほどに龍吾は吠えた。佐野がなにをいったって同じことだ。
佐野は真っ青な顔で、肩を震わせ立っている。文学を好むが、それでも、長身で肩幅は広い。
佐代子は圭太を抱いてうずくまった。
そこに井沢が入ってきた。さんざん離れにまで来るなといっておいたものを。井沢は、ちらりと龍吾を見ると、母子のもと駆け寄った。
「さ、さぁ、若奥さま。坊ちゃんを連れて、外に出ましょう」
圭太を抱いたままうずくまる、佐代子の身体を支え、立ち上がらせた。
佐代子は涙を流し、なにかいおうとしている。しゃくりあげて言葉にならない。圭太のほうも子供心に不穏な空気を感じとって泣き出した。井沢はそんな親子を抱きかかえるようにして、屋外へと出た。
( 続く )