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佐代子の思いとは

戦後の混乱期、龍吾は齢の離れた佐代子と結婚したが、それは穏やかなものではなかった。

 六 佐代子 戦後(その一)


 苦々しい記憶だった……。喉が渇いた。水を飲みたいと思った。龍吾は布団の上でうつ伏せにゆっくりと姿勢を変えると、そばに置いてある水差しへと体を這わせた。震える手でコップに水を注ぐと、ひりつく喉に流し込んだ。


 昭和二十四年のことだった。龍吾はその年の佐代子の事件を思い出すたびに動悸が激しくなる。頭に血がのぼって呼吸が乱れる。

 終戦後、職にあぶれて路頭に迷っている連中をつぎからつぎへと働き手にした。龍吾が立ち上げた龍武土建は、二十代三十代の壮健な若者であふれ返っていた。

 そのなかの一人に佐野という名前の男がいた。下の名前までは憶えていない。満州からの復員兵で年齢は二十代後半だったように思う。

 佐野も佐代子と同じように、東京に住んでいた父母を空襲により亡くしていた。そして独り身だった。

 龍吾の家の横には、龍武土建と、会社の看板を掲げた社屋を設けていた。当時はまだ板張りのあばら家のようなそまつなものだった。

 その社屋の前には家一軒分ほどの空き地があって、そこに資材やトラックなどを置いていた。晴れた日には、従業員は、積まれた木材の前やトラックの脇で、雑談や、花札やトランプのゲームなどで休憩時間をつぶしていた。

 がさつで話好きな従業員のなかにあって、無口な佐野は、その輪に入らずに、一人、積まれた材木に背をもたれかけ、本ばかり読んでいた。

 当時、佐代子は三歳になる圭太の子育てのかたわら、土建屋のたった一人の女手として従業員たちの世話もしていた。まだ二十二歳という若さであった。休憩時間には資材置き場でくつろぐ武骨な従業員たちにお茶を出し、ときには彼らの作業着も洗った。みなからは『若女将』と呼ばれていた。 


 龍吾とその従業員たちは、戦後の復興という波に乗って、がむしゃらに働いた。龍武土建の請負数は増え、会社の規模も順調に大きくなっていった。その裏では、龍吾は腕っぷしで同業者を脅かして仕事をとるようなこともしていた。そんな時代だった。

 その年の暮れには、稼いだ金で龍吾の家を建て増しした。社屋もゆくゆくは立派なものにしたいと計画もたてていた。もちろん従業員たちへの給料も増やした。

 龍吾も若いものたちもみんな浮かれていた。そのなかで一人、佐野はなにも変わらずに、いつも隅っこで本を読んでいた。

 そんな佐野に対して、佐代子は他の従業員たちより、お茶をだし、作業着の破れを繕ったりと、多くの世話を焼くようになっていった。何かと佐野のそばにいて、他愛のない話をするようになっていった。

 二人が近づくきっかけは本であった。

 佐代子は、死んだ両親がともに教師であったこともあり、龍吾の家に嫁いでからも時間があると本の頁をめくっていた。

 他の従業員が、酒、たばこ、賭け事と、文字とは縁のない生活を送っているなか、佐野だけは本が好きであった。いつも佐野がいる資材置き場の陰で、佐代子と佐野が話をするようになるのは自然なことだった。


 志賀直哉とか太宰治とか、龍吾や他の従業員にとっては、うろ覚えの作家の本の内容を語り合った。

「ねぇ、佐野さん。太宰の本もよく読まれるとおっしゃっていましたが、そのなかでどれがお好きですか?」

「うん、人間失格かな」

「まぁ、ずいぶん人生に悲観的なのですね」

「いや、待てよ。あれがいい。走れメロス」

「まぁ、走れメロス。わたしも好きです。人間への希望が持てます」

 他愛のない会話で二人は笑いあった。

 龍吾は通りすがりに、資材置き場の裏で話す二人の会話を耳にすることもあったが、こんな会話がなぜ楽しいのか理解できなかった。だが、がさつな男ばかりのなかで、佐代子にとっての話し相手がいることもよいことあろうと、見て見ぬふりをしていた。その一方で、妻と楽しく話す佐野に対して、嫉妬心がないかといえば嘘になった。


 息子の圭太がいるといっても佐代子は、まだ二十二歳の若さ。所帯じみるどころが、ようやく女としての艶めきを身にまとう年齢になったといったところか。亭主の龍吾からしたら、佐代子が日ごと危うさを増しているようにも見えた。

 いっぽうの佐野であるが、こいつは文学青年のくせをして、背が高く痩せ型のわりには頑健な体つきをおり、土方作業でも根を上げることがなかった。まもなく五十歳に手が届こうとする龍吾から見て、うらやましくもあった。 


 こおろぎが家の濡れ縁の下で鳴いていた。

 その日、現場作業を早く終えて、龍吾は玄関の引き戸を開けた。三和土たたきに腰を下ろし、作業靴を脱いでいると、いつになく家のなかが静かだった。三歳になる圭太が家のなかで遊ぶ声が聞こえず、家事をする佐代子の気配も感じられなかった。

 龍吾は佐代子の名前を呼びながら座敷の襖を開けた。きれいに片づけられた部屋には人の気配はなかった。卓袱台ちゃぶだいだけが妙に浮き上がって見え、急須も湯飲みも置かれていない、その上に、ぽつりと白い封筒だけが置かれていた。

 すぐに何が起こったかがわかった。佐代子の置手紙だった。焦る気持ちで乱暴に封を切った。

 動揺していたのだろう。いつも整った文字を書く佐代子であったが、インクで書かれたその文字は乱れていた。


 手紙の内容は以下のようなものだった。

 ――龍吾様 空襲で焼け落ちた家に一人残され、生きる望みを捨てていた私を救ってくれてありがとうございました――から始まっていた。

 文面はおおむね以下の通りであった。

 あのときは飢えでいつ死んでいてもおかしくない状況でした。そんな自分を拾い上げ、人並みの暮らしをさせてくれたことは感謝してもしきれません。

 そして息子の圭太をこの世に授かり、仕事で一生懸命がんばっている龍吾様を支え、愛しい圭太と三人でがんばって暮らしていこうとしていました。幸せといってよい日々でした。

 この生活が何年も続くのだと思っていました。そんなときに、予期しないことが起きてしまいました。それは、これまでの私の人生を変えることでした。

 夫としてできすぎた龍吾様のことを嫌ったわけではありません。でも、それは今にして思えば、女としての愛ではなかったような気がいたします。

 いまは、戦争で肉親を失って、天涯孤独になった私が、癒しの時を経て、本当の愛に目覚めた、そんな気がしております。二十二年生きてきて初めて愛する人ができたのです。

 これまで龍吾様に抱いた感情とはまったく別のものです。

 夫と子供があっても、真剣に人を愛してしまったら、その人と一緒になりたい、心の底から押し寄せる波には抗えない。それが女です。

 一人息子の圭太はこれまで自分が育ててきました。仕事で忙しかった龍吾様には、幼子の育て方に関してはわからないことも多いでしょう。圭太を連れていきます。必ずや一人前の男に育て上げます。

 誰とこの地を去るのかは詮索しないでください。

 これまで、あふれんばかりの愛情をこんな不肖な私に注いでいただきましたことに感謝申し上げます。

 今までありがとうございました――

 最後にそう結ばれていた。


  ( 続く)

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