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労働センターでの圭太

昭和43年、中学卒業後、家を飛び出した圭太は青年になった圭太はドヤ街に流れ着いていた。一日の食い扶持を求めて、労働センタ―に朝早く仕事を求めにいく生活だった。

 五 圭太 青年


 昭和四十三年が終わろうとしていた。寒風が吹き抜ける広場に、厚手の作業着で防寒した男たちが群れをなしていた。分厚い土方ジャンバーを着て、圭太はその列の最後尾に並んでいた。

 寒さで息が白い。かじかんだ手でボアのついた襟を立てた。

 中学卒業とともに家を飛び出し、しばらくは身元保証人がなくとも雇ってくれるような飲食店を転々とした。どの店も長くは続かなかった。圭太の武骨な性格は客を相手にしたとき、決まってトラブルを起こした。嫌気がさし、数年間、働いた飲食業界からは足を洗い、いまは日雇い労働者が多く住むドヤ街の、三畳一間の安宿で寝泊まりをしながら、仕事を求めていた。二十二歳になっていた。

 この日は周りに並ぶ男たちの口から、同じ話題ばかりがのぼっていた。

「マイクつきの白のヘルメットかぶっているモンタージュ写真見たか?」

「おう、見た、見た。きのう食堂で、飯食って、酒飲んでいるとき、テレビでやっていたぜ。うまくやりよったのぉ」

「ははぁーー。三億円とはね。おいらもあやかりてぇぜ。その日暮らしのおれたちとはえれぇ違いだ」

「馬鹿いうな。おれたちのような文無しがそんな大金見たら、それで心臓が止まって一貫の終わりよ」

「ははは、それもそうか。おれたちはその日暮らしがお似合いかぁ」

 男たちは笑いあった。

 当時、空前絶後の計画的強奪といわれた三億円事件がおきたのは、ほんの十日ほど前のことだった。

 東芝工場の従業員の給料を乗せた現金輸送車が、府中市で白バイ警官に変装した犯人に三億円を奪われた。そしてモンタージュ写真が公表されたのが昨日のことだった。

 この労働センターの寄せ場には、男たちのような日雇いの労働者が、その日の仕事を得るために朝早く集まっていた。圭太も同じように一日の仕事を求めて並んでいた。

 午前六時半にセンターのシャッターが開くと手配師たちが姿を見せた。数えたことはないが、十数人はいるのか。仕事を求める男たちを値踏みするように見回す。

 求人がはじまった。求人内容を書いた看板が掲げられ、いっせいに労働者たちが団子状態になって、希望の職種の場所に動く。魚や野菜の卸売市場と同じように場が騒然とする。

 しばらくして手配師と男たちの騒ぎがおさまる。これで一日を食いつないだと喜びいさむものと、食い扶持にあぶれ落胆するものとがはっきりする。仕事にありつけたものだけが、手配師の配送車に乗せられて各々の仕事場へと消えていく。

 右往左往する男たちが立ち去ったあと、寄せ場は水を打ったように静まり返った。

 圭太は立ち尽くした。仕事にあぶれた少数派のなかに入ったのだ。

 この日、寝過ごして、朝、簡易宿舎を出るのが人より少し遅れた。寄せ場に着いたときには、すでに仕事を求める労働者たちで溢れていた。

 仕事内容によって、人を選ぶこともあるが、多くは早い者勝ちだった。この日のように仕事にありつけないときは、当然、収入はない。ドヤ街の生活では、その日得た収入は、一日分の食費、宿代でほとんど飛んでしまう、その日暮らしの生活だった。

 寝坊したことに舌打ちした。昨日の晩にコップ酒を一杯多く飲んだことを後悔した。

 極寒の季節であるから、野宿というわけにもいかない。財布のなかに残る少しの金で宿を探すしかない。

 手持ち無沙汰だった。夕方に宿の帳場が開くまで、どこかで時間をつぶそうと、センターの前から立ち去ろうとした。

 そのときだった。

「おめぇ、道場圭太じゃねぇのか?」

 いきなり背後から名前を呼ばれた。振り返ると、髪を肩まで伸ばした若い男が黒のロングコートを着て立っていた。最初は初めて見る男だと思ったが、人を射るような三白眼の鋭い目つきで思い出した。

「勝馬……」

 中学のときに何度も喧嘩をした相手だった。卒業式直後に喧嘩をふっかけられたときには腕の骨も折ってやった。

 勝馬は冷ややかな笑いを浮かべながら近づいてきた。

「ずいぶん前に家を飛び出したとは聞いていたが、こんなところにいたとはよ」

 その態度から、ふたりの関係は中学のころのままだ。よりによって一番会いたくない相手とでくわした。

 勝馬はわざとらしく、昔、圭太に折られた右腕を曲げたり伸ばしたりした。

「おいおい、元気かい。そのジャンバー似合ってるじゃねぇか」

 そういうと、親しげに、土方ジャンバーを着る圭太の肩を二度三度と叩いてきた。それでいて目をぎらつかせて睨みつけてくる。

 圭太は堅く唇を結んだ。昔のことを根にもっているのは明らかだ。

 早くこの場を離れたいのだが、勝馬は話すのをやめようとしなかった。

「仕事にあぶれたのか? うちの鷹佐土建は土建業のほかにここで手配師もしているんだ。おれはまもなく大学を卒業だ。卒業後は親父の後を継ぐために、鷹佐土建に入社して会社経営ってやつを学ばなきゃならねぇんだ。入社の前に、一度社会見学してこいっていわれてよ。今朝、こうしてここにいるんだよ。おめぇ。仕事にあぶれたのなら、うちの担当の手配師にいえば、どこかにもぐり込ませてもらえるかも知れねえぜ。仕事欲しいんだろ。手配師に頼んでやろうか?」

 圭太は首を横にふった。

「いや、今日は働く気はなくなった。せっかくだが、いらねぇよ」

 仕事は欲しいが、勝馬はいまもって圭太への敵愾心てきがいしんを抱いている。そんな奴の世話になりたくない。

「そうかい。残念だねぇ」

 勝馬はわざとらしく肩をすくめた。圭太が日雇い労働者をしていることが、楽しくてしかたがないといったようすだ。

「おまえ、家に帰らなくてもいいのか? おまえんところの龍武土建は経営がうまくいってないみたいだぜ」

 圭太は、一瞬、返事に窮した。

 家出して六年も七年もたっている。飛び出した家のことは考えないことにしていた。その後、父の会社がどのようになっているかはまったくは知らなかった。

「知らないなぁ。もう何年も家には近づいちゃいない」

 勝馬は楽しくてしかたがないといったように、満面に笑みをたたえた。

「そうか、知ったことじゃねぇか。じゃあ……、おれは、家の会社の手配師にくっついて仕事を見学するわ。圭太に寄せ場で会ったことは、おめぇの家族には内緒にしておくからな」

 笑い声をあげると、背を向けた勝馬はコートの裾を翻し、労働会館の脇に駐車するマイクロバスのほうへ歩いていった。マイクロバスには、ついさっき集められた労働者でぎっしりだった。

 圭太はその後ろ姿を見ながら、舌打ちした。嫌な奴に出会ったもんだ。勝馬のほうからしたら、何年かぶりで、中学時代の憎い相手に出会い、その相手がその日暮らしだと知って、さぞ溜飲が下がったであろう。

 この先、父親の会社の仕事の見学でここに来たといっていたが、社員になってから、労働センターに顔を出すことになりはしないか。

 この世界では、勝馬が上で、圭太はその下で言いなりの世界であった。雇うも雇わないも、勝馬の手の内にある。中学のころのように目の敵にされて、今度はこき使われるのだ。

 考えるだけで憂鬱になった。圭太は重い足取りで、あてもなく街中へと向かった。


 鷹佐土建のマイクロバスは、分厚い防寒用の作業着を着込んだ男たちで溢れていた。今朝、労働センターで雇い入れた作業員たちである。

 勝馬は運転手のすぐ後ろの席にすわっていた。その顔には冷ややかな笑みが浮かんでいた。

 鷹佐土建の社長である父に言われて、気が乗らないながらも、連れてこられた労働センターであったが、こんなに面白いことに遭遇するとはが起こるとは思いもよらなかった。

 まもなく大学も卒業だから、社会人となるために現場を見てこいと父にいわれた。——なぜ大学生のおれが? 会社に入ってからでもいいじゃないか。不満たらたらだった。鷹佐土建の担当者に連れられて、工事現場やら資材置き場やら、あちらこちら回らされた。

 なんにもならねぇやと思っていたそのとき、労働センターで驚くべき収穫があった。

 中学の卒業式のあと、河原で圭太に折られた右腕を、左の掌でさすってみた。後遺症もなく、筋肉もそれなりについている。

 だが、記憶のなかには骨が折れたときの感覚がいまだ棲みついていた。

 全身に走った激痛。つぎに襲った腕が持ち上がらないという無力感と喪失感。

 高校、大学と進学しても、体の傷は癒えても、心の奥底に棲みついた憎しみは消えなかった。圭太の顔を思い出すたびに、胸が苦しくなって、落ちつきがなくなった。

 走り出したマイクロバスの窓から見える労働センターの寄せ場には、もはや数人の男たちを残すだけとなっていた。ばらけたまままで、誰も近づいて話をすることもない。ぼんやり立っている。

 勝馬は笑いを押し殺した。

 中学のころ――。圭太の父親の経営する龍武土建は業績も好調で地域で幅を利かせていた。逆に勝馬の父の鷹佐土建の経営のほうが危うかった。勝馬は、景気のいい同業者の息子の圭太のことが憎くてしかたがなかった。何かといちゃもんをつけて喧嘩ばかり売っていた。だが、腕力で劣る勝馬はやられるいっぽうで、最後には卒業式のあと、腕の骨を折られるという、屈辱的な負け方をした。それからというもの、勝馬の圭太に対する憎しみは消えることなく、体に巣くった悪虫のように増殖していた。

 ところがここに来て千載一遇の好機が訪れた。

 ――おれの抱き続けてきた怨念が消え去る日が来たんだ。あの殺しても飽き足らない圭太が落ちぶれてドヤ街でその日暮らしをしている。おれの勝ちだ。圭太、おめぇは地に落ちたんだ。親父の会社とともに浮き上がることはできねぇ。もう、おれを打ちのめすことはできない。

 勝馬は人生の勝ちを確信した。

 もはや圭太を自らの拳で叩きのめして、仕返しをすることはない。ここからは、ゆっくりと追いつめてやると。

 ガタリとマイクロバスが揺れた。ゆっくりと速度を落とすと、とある現場で停まった。

 マイクロバスはあちらこちらの建設現場へ行く。

 現場に到着したら、後ろの席に詰め込まれた作業着姿の日雇い労働者はこの日に割り当てられた仕事につく。シャベルやツルハシを持ち、汗を流して体力を削りながら安い労賃で働く。

 勝馬はバスから降りていく作業員たちの背中を見ながら考えた。

 いつか同じように圭太もこのマイクロバスに乗せてやる。そうして目いっぱい汗を流させてやり、うちの会社の金を受け取らせてやる。

 勝馬は楽しくてしかたがなかった。


 数年が経過した。

 圭太はドヤ街で同じように日雇いの仕事を求めていた。

 勝馬のほうは大学を卒業して鷹佐土建に入社したのち、案の定、半年もすると手配師の仕事も任されるようになった。

 早朝に労働センターに行くと、求人内容を書いた看板を掲げた勝馬がいることもある。髪の毛は学生のころと同じように長いままだ。社会に出ることをなめているのかとも思う。

 圭太は他の労働者たちに紛れながら、勝馬と目を合わせないようにした。当然のことながら、勝馬の持ってきた仕事はいっさいしなかった。

 世の中は昭和四十九年。周りの労働者たちは、仕事にあぶれたときにコップ酒をあおり、わびしい歌詞を口ずさんだ。

 町も追われ、貧乏にも負けたと、世間に背を向けた歌だった。最後には死んでしまおうかと口ずさむ。

 この界隈の男たちにとっては、心情を吐露するのに持ってこいの歌だった。

 圭太はこの日も労働センターへ行くと、鳶の仕事を選んだ。

 遥かかなたに小さくなった地上の景色を前に、風に吹かれながら鉄骨や足場を歩く、これが自分には合っていると思った。

 鳶の魅力に取りつかれるまでは、若さを生かして土木系のビルの解体や基礎工事などの単調労働をやってきた。

 ある日のことだった。ひとりの手配師が

「鳶が足らない。若いもんで誰か手伝わないか」

 と人を探していた。これが鳶へのきっかけだった。

 それまで圭太は鳶の経験はなかったが、試しにその仕事を引き受けてみることにした。

 最初は地上で支柱や手すり、踏板をトラックから下ろしたり、建築中の建物の横に置いたりする仕事だった。慣れてくるとベテラン鳶の補助で足場にも昇るようになり、一通りやらされたところで、鉄骨にも昇らされた。

 地上に近い鉄骨ならともかく、上に行けば何十メートルもの高所になる。強い風が吹くと揺れて体のバランスをとるのもたいへんだ。

 労働者仲間には仕事を引き受けたものの、鉄骨の上で腰が引けて動けなくなる者もいた。

 だが、圭太は初めてだというのに高所に立ってもなんの恐怖も感じなかった。鉄材を肩にかかえて歩いても、一瞬たりともバランスを崩すこともなかった。むしろ平地で歩いているより遠方まで望めてすがすがしい気分になれた。

 ベテラン鳶がそんな圭太を見て感心した。

「どんなやつでも初めのうちは腰が引けるもんだぜ。どうやっても、この仕事に向いてないやつは、足場の三段目に上がったところで、ギブアップさ。怖くて、その先には昇ってこられねぇ。恐怖に耐えられないやつは、もうこの仕事を二度と引き受けないんだ。それに比べ、おめぇには高いところにいる素質がある」

 圭太のほうもいわれて、この仕事こそが自分の天職ではないかと思った。

 以来、朝の労働センターで鳶の仕事があれば、真っ先に手を挙げて引き受けるようになった。

 仕事の好みができたということは、先の見えないドヤ街の生活においてひとつの光明だった。運よく、好きな鳶の仕事についたときはやりがいを感じた。

 いっぽうで、勝馬の煩わしい問題は依然続いていた。勝馬が手配師の仕事についてからは、週に二度、多い時は四度と顔を合わせるようになった。日ごと勝馬の存在が大きくなってきていた。

 無視しようとしても、背中から声をかけてくる。いつも薄笑いを浮かべている。

「おめぇ、鳶の仕事ばかり狙ってんだなぁ。今朝はあぶれたんだろ。たまにゃ、おれんとこのコンクリ打ちや穴掘りもせんか。仕事にえり好みなんていえる立場かよ」

 圭太は声をかけられるたびに「いらないよ」と断る。

 勝馬が近づいてこようとしているのを感じ取って、足早にその場から立ち去ることもあった。そんなときは、小さく首を傾げて背後を見ると、勝馬は決まって唇をゆがめて薄ら笑いを浮かべていた。

 嫌な思いもしながら、圭太の鳶の仕事に関していえば、続けるうちに技術はあがり、鉄骨の上でクレーンで持ち上げられた鉄材をスパナで締め上げる仕事も任されるようになっていた。


 ( 続く )

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