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龍吾の戦後と佐代子との生活

戦後の混乱期、いかにして龍吾は会社をおこし、妻の佐代子と出会ったか

 四 龍吾 戦争直後


 窓の外からは、建設工事のクレーン車が放つ金属音やショベルカーが放つ振動音、荷台を揺らすトラックのエンジン音と、建設工事での雑多な音がなだれ込んでいる。

 掛布団は脇に追いやられていた。龍吾の浴衣から覗く脚は、細く干からびていた。

 細くなった腕をゆっくりと持ち上げると、浴衣の衿元に通した。

 心臓に手のひらをあてると、肋骨の浮き出る胸から、微かな鼓動を感じ取った。まだ、生きているのだ――、そんな気持ちだった。

 つぎに耳をそばだてた。工事の騒音のなかから、ひとつの小さな音を聞き分けた。

 鉄製の風鈴の音であった。

 龍吾のいる部屋は濡れ縁に続き、その縁側を隠すようによしずが立てられている。そのよしずの内側の軒に風鈴は吊り下げられていた。

 伏せる生活を続けるようになってからは、風鈴の乾いた音色に耳を傾けながら、事あるごとに、隣の部屋にいる恵子の名を口に出した。身体の状態が悪くなったときならず、訳もなく不安を感じたときも、隣の部屋にいる恵子を呼びつけた。

 そのたびに恵子は嫌な顔ひとつせずに、龍吾の傍らで見守ってくれた。平凡だがよくやってくれる女房だった。

 だが、余命いくばくとない、いまとなっては、瞼に浮かぶのは尽くしてくれる恵子ではなく、遠い過去に龍吾の前から姿を消した佐代子のことであった。

 龍吾が初めて佐代子を見たのは、戦後の焼け跡のなかだった。他の女と同じもんぺ姿でありながら、無造作に束ねた髪の下に覗くうなじがひときわ美しい女であった。


 第二次大戦終結後の混乱期であった。焼け跡の東京に広がる闇市に、人々は食料、衣料品を求めて群がった。復員兵、引揚者、戦災孤児などが氾濫しており、犯罪が横行し、発砲騒ぎも日常茶飯事だった。

 だがこの混乱期が道場龍吾に味方した。

 明治生まれの龍吾は、その日暮らしの労働者の家庭に生まれ、龍吾自身も二十代、三十代と労働者の寄せ場で仕事を見つけながらその日の食をつなぐ生活をしていた。だが、身体が人一倍大きいため喧嘩が強く、そのうえ押しが強かったこともあり、年齢とともに地域への影響力を持つようになっていった。

 荒れ果てた被災地から使える資材を集めて、仕事のない若いものを従えて、土建屋の真似事をはじめ、金と力を得ていった。

 仕事のほうで成功すると、所帯を持ちたいという願望が膨れ上がった。ところが年齢はすでに四十五歳で、そのうえ仕事は荒っぽい土建業。嫁をもらうにしても、若く美しい嫁は自分には回ってこないとあきらめていた。

 そんなとき見つけたのが佐代子だった。


 親を空襲で亡くし、半壊した家で、頼る人間がいないまま十八歳の若さで独り暮らしをしていた。

 生活に疲れているのだろう。煤けた衣服を身に着け、顔には生気がなかった。ところが、髪を後ろに束ねているだけなのに、その美しさは人目を惹いた。

 龍吾の一目ぼれだった。独身の生活をやめて所帯を持つなら、この女だと思った。

 事あるごとに佐代子の家の前を通り、龍吾は近づく機会を狙った。ある日、壁が焼け落ち、半壊した家のなかからカンカンという音がした。庭に入ってなかを覗くと、佐代子が空襲で歪んだ柱を立て直し、固定しようとしているのだ。危なっかしい手つきで釘を打ちつけている。

「大工仕事をしているのかい。そんなやりかたではすぐ倒れてしまう。わしに貸しなさい」

 龍吾はずげずげと佐代子の家に入っていくと、金槌をその手から取り上げた。

「いえ、そんなことをしてもらっては……」

「いいんだ。いいんだ。わしに任せとけ。建設業をやっているが、今日は手が空いているんだ。困っている娘さんをほうっとけないわ」

 慌てて断ろうとする佐代子を押しやって、龍吾はいとも簡単に柱を補強して立てかけた。

 その日、他にも簡単にできる箇所は補修した。一区切りつくと佐代子がお茶を出してくれた。お茶といっても白湯(さゆ)と飴玉だった。

「もうしわけありません。お口汚しに……。こんなものしかございませんが……」

 恐縮しきっているようすだ。佐代子の出した飲み物と菓子はこの日できる最高のもてなしだったのだろう。

 佐代子は痩せて、生気をなくしていた。国からの配給だけで飢えをしのいでいたのは明らかだ。両親が教員だったことと、若い乙女だったことで、闇市で食料を調達するような、がむしゃらに生きぬくという行動ができないでいたのだ。

「なんも、あんたは引け目を感じることはない。いまは誰もが困っているときじゃ。お互いが助けあっていかなければならん。これから、手が空いたときには立ち寄ってやる」

 佐代子は笑顔をつくったが、内心困惑しているようすだった。いっぽうの龍吾は、これから家の修理という、口実をつけて会えることが出来ると、内心小躍りしていた。食料もその都度運んでやろうと考えた。


 時間を見つけては、龍吾は佐代子の家へ上がり込んだ。世話好きのお人よしを演じ、天井から板の間からいたるところを補修していった。心苦しく思う佐代子に、気にせんでいい、どうせ材料はうちの作業場に転がっているただ同然のものだと言い聞かせた。

 加えて、佐代子の顔を見にいくときは、必ず闇市で仕入れた食料をおすそ分けだと持っていった。そのかいあって、少しずつ健康的な顔色を取り戻してきた。

 多くの男たちが同じように佐代子に目をつけていたが、龍吾はそいつらを腕力と小金で蹴散らした。龍吾だけに眼が向くようにした。

 初めて龍吾に抱かれるとき、佐代子は凍ったような表情をしていた。いやがって龍吾の分厚い胸を二、三度腕で押し返した。だが、それ以上抗うことはせず、龍吾のなすままになった。

 その一か月後には龍吾と佐代子は祝言を挙げた。新郎と新婦の歳の差が二十七歳と親子ほど年齢が離れていた。どちらにも祝いに呼ぶような親族はおらず、土建屋の従業員だけが祝うものだった。


 佐代子と所帯を持つとすぐに、龍吾ははりきって、新生活のために自分たちの家を建てた。土建業をやっていたのでお手の物だった。当時の都会の家屋としてはなかなか豪勢なものだった。

 佐代子は感情を表に出さない物静かな女だった。その新居を前にしたときも

「まぁ、立派な家ですこと」

 そう口にしただけで、喜びを感じているかどうかはわからなかった。

 つぎに新居の隣にバラック建ての社屋を建てた。最初は小さな社屋でも、これからどんどん大きくしてやろうと意気込んでいた。こちらのほうは十年後のことではあるが、建て直してコンクリート造りの三階建てにした。

 結婚してから新たな喜びがやってきた。一年もしないうちに、龍吾の子どもが佐代子の腹にいることがわかったのだ。

 龍吾は佐代子の膨らんだ腹に耳を当てながら思った。このような幸せが自分に訪れることなどあっていいのか? 腕力で人を押し倒してきたばかりの男が、こんなに幸せになってよいものか?

 それからというもの、いきなり信心深くなって、何度も何度も安産祈願のために神社にお参りにいった。


 そして翌年、ついに龍吾と佐代子の間に子供が産まれた。自分に子供ができたことが幸せすぎて、なかなか現実のものとして受け止められなかった。佐代子が抱く小さなわが子に何度も何度も頬ずりをした。

 その一粒種を圭太と名づけた。

 龍吾、四十六歳にしてできた初めてにして最後の子どもだった。

 戦後復興の波に乗って仕事のほうは順調で、龍吾の統率力に寄り集まった連中が従業員となって、会社の形態が整ってきた。戦争直後が、龍吾にとって人生における最高に輝ける時期だった。

 たしか敗戦から四年ほどたったころのことだ。敗戦から復興してゆこうという日本で、湯川秀樹という大学教授がノーベル賞をとったことで、日本中が沸いた。どこの親もノーベル賞とまではいわないが、わが子がなにかの形で成功してほしいと願ったものだ。そのころ、圭太はたしか三歳になっていたはずだ。

 佐代子がその年に事件を起こした。


 ( 続く )

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