中学時代、圭太は喧嘩を繰り返した
圭太の中学時代、父親の龍吾と同じ土建業を営む家の息子で、勝馬という同級生がいた。勝馬は何かと圭太に喧嘩を売ってきた。
三 圭太 中学時代
古びたうえに静まり返っている。見下ろす実家と建設会社の社屋は、まるで身を潜めているようだ。誰の眼にも触れたくないと言っている。
鉄骨の上から圭太は見下ろしながら、若き日の記憶を呼び起こした。どうしようもなかったころの――。十五年前……。
昭和三十年代半ば、世の中は高度経済成長期にあって、中学卒業者が金の卵だともてはやされて、集団就職で都会に出てくる。そんな時代だった。
都内の墨都川中学の校長室。
校長の前で圭太の父親の龍吾は頭を低く下げていた。その隣には圭太も立っていた。
「すいません。こいつにゃあ、しっかり言い聞かせますんで」
龍吾は、憮然とした顔で突っ立ったままの圭太の頭を押さえつけると、腰をかがめさせた。
「おめぇも謝らんかい!」
龍吾は戦後の混乱期に土建会社を腕一本で、それも剛力で立ち上げた男だ。丸太のような腕を持ち、声も周りのものが震えあがるほどにでかかった。圭太もその場は従わざるを得なかった。
「すみませんでした」
圭太はボソボソと謝った。
頭を下げたものの、血は争えないもので、その顔つきは親に似て反骨精神丸出しだった。
校長室には、生徒指導の教員も二人居合わせたが、ちらちら見るだけで、親子とは眼を合わそうとしなかった。黙ったまま部屋のすみで突っ立っていた。
校長のかたわらに立つ担任の男子教員は、
「気をつけてくださいよ。さいわい相手の生徒の怪我は軽く、応急処置ですむようです。病院に通わなければいけないようになったら一大事ですよ。暴力は二度とふるわないと約束してくださいよ」
そう忠告しながらも、親子から目をそらした。
校長も形ばかりの注意を与えた。
「道場圭太くんだったね。お父さんを困らせるようなことをしてはいけないね。これを最後に二度と喧嘩をしてはいけない。三年のきみはしばらくしたら本校も卒業だ。高校へ進学しても喧嘩をやらないこと。約束してくれるね」
小学校のときから圭太の日常は喧嘩で明け暮れていた。
体が大きく、顔つきもふてぶてしかった。そのため、周りからは喧嘩好きなやつだろうと見られたことも原因だった。
こちらがその気でなくても、あちらこちらで血の気の多い連中からちょっかいをかけられた。学校内であったり、街中であったりと場所を選ばなかった。
圭太のほうも、売られた喧嘩をやり過ごすほど、温厚な性格を持ち合わせていなかった。持ち前の腕力と敏捷性で相手を叩きのめした。
当然のことながら、問題を起こすたびに、周りの目もうるさくなっていった。喧嘩をすると、目撃され報告されたり、相手が怪我をして保護者から文句をいわれたりと、必ずといっていいほど教員の耳にも伝わった。
小学校でも中学校でも、喧嘩をすると、最初のころは職員室に本人だけが呼ばれて、担任からの注意だった。しかし、それでおさまらないと、継母の恵子が呼ばれ、最後には父親の龍吾が呼ばれた。
この日は中学入学のときから、幾度となく喧嘩をしてきた同級生の佐伯勝馬とのことで呼ばれた。
勝馬のほうがなにかと言いがかりをつけてくるのだ。
昨日のことだ。
廊下を歩いていると、すれ違いざまに勝馬がわざと肩をぶつけてきた。それで取っ組み合いの喧嘩となった。圭太が馬乗りになりやり込めていると、三人の教員から羽交い絞めにされて喧嘩を止められた。
そこで父の龍吾と二人で校長室に呼ばれることになった。
校長と教員からの注意がひと通り終わると、龍吾は急ににこやかな顔をして、持ってきた紙袋を差し出した。
「ほんとに本日はお手間をとらせました。お詫びのしようもありませんが、ひとつこれをお口直しにお受け取りくだせぃ」
家の近くの老舗和菓子屋で一番高価なものを、学校の教員の人数分買ってきた。菓子箱が何個も大きな手提げ袋に入っていた。
どんなときも龍吾は手土産を忘れなかった。土建屋を営んでいるため、相手を手ぶらで帰らせてはならないという考えが日常的となっているのだ。
校長は、手土産などもらうのは困ると断るものの、最後には龍吾の押しに負けて受け取った。
「それじゃあ、教員のみんなで食べさせていただきます」
顔を赤らめ、しぶしぶと頭を下げた。
学校への謝罪が終わり、龍吾と圭太が校舎の玄関口から外へ出ると、教室棟の前の植木にもたれかかるようにして一人の生徒の姿があった。頬に四角いガーゼを貼って、右手の甲は包帯で巻いて、こちらを見ている。三白眼で目つきが鋭い。喧嘩の相手の勝馬であった。
圭太がその姿に気づいて眼が合うと、勝馬が挑発するようにニヤニヤと笑った。
龍吾もそれに気がついた。
「あの生徒がおまえと喧嘩した相手か?」
圭太が肯くと、龍吾は
「謝らんといかんのじゃないか?」
そう促してきた。
こちらを見続ける勝馬はニヤついて唇を動かしている。なにかの言葉を口にだしているようだ。ここまでは聞こえてこないが、毒づいているような唇の動きだ。
中学入学したときからいつも勝馬のほうから手を出してきた。
いつかの喧嘩のときには、
「てめぇの親父がこの界隈を仕切っていたって、それがなんだ! でかい面はさせねぇぞ」
と怒鳴っていた。
勝馬が同じ土建業者の息子であることは、龍吾には内緒にしておいてある。
「あいつからチョッカイをかけてきたんだ」
「そうか……」
龍吾も相手の態度を見て、厄介なやつだとわかったようだ。
「もう、あいつを見るな。駐車場まで前を向いて歩け」
放っておくように言った。
ここは龍吾に従うしかなかった。
圭太は、すぐにでも飛びかかって、立ち上がれないほどに叩きのめしたいという怒りを抑えて、龍吾の愛車である黒のトヨタクラウンに乗った。
その日、龍吾は自宅に戻ると、出迎えた妻恵子を別の部屋へ追いやり、圭太だけを残した。
圭太をすわらせると、怒り狂って殴りつけてきた。剛力だった。頬をビンタで殴られるごとに部屋の景色が回った。
「てめぇ、何度いったらわかるんだ! こんなことしていたら、街のチンピラになっちまうぞ! おめぇには真面目に生きてもらわないと困るんじゃ。おれの会社を継いでもらいたいんじゃ」
龍吾の望みは、歳をとってからできた、一人息子の圭太に真面目に生きてもらい、一代で築き上げた龍武土建を継いでもらうことだった。
圭太はふらついて立ち上がった。よほど腹に据えかねていたのだろう。龍吾は手を緩めることはなかった。張り倒されるたびに、圭太は襖や柱にぶち当たった。バキバキと音を立てると、襖が圭太の身体ごと倒れた。
龍吾は圭太の上に馬乗りになってきた。
圭太は分厚い手のひらに頬をはたかれながらも言い返した。
「うるせい! 親父だって、喧嘩でのし上がってきた人生だったんだろ! おれはお前の息子だぁ」
龍吾の振り上げた手が止まった。
圭太のいうことは間違っていなかった。
明治生まれの龍吾は、ろくすっぽ食事も食えない、貧乏家庭に生まれ、まともな教育も受けられなかった。それでも、体力だけには恵まれていて、十歳を過ぎたころから、河川や道路の工事で食い扶持を稼ぐようになった。そんな龍吾は喧嘩も押しも強く、建設業の作業員をしながら、年を経るにつれて、住民どうしや、外者と地元民とのトラブルなどを解決することで、地域のボス的存在になっていった。そして運よく、太平洋戦争終結後の混乱期には、流民や荒くれどもを束ねて土建会社を立ち上げることができたのだ。
龍吾は圭太の反抗的な眼にあらためて怒りを抑えきれなくなった。いったん止めた手を振り下ろした。
「時代が違うんじゃ、いまは戦前、戦後の、生きるか、死ぬかの時代じゃないんじゃ! 一人前の口をきくな!」
圭太の頬に拳がめり込んだ。
校舎の周りにある梅の木が花を咲かせていた。喧嘩で退学処分になることもなく、圭太は無事に中学の卒業式を終えた。
本人は、中学卒業後、働けばいいと思っていたが、龍吾の意向で進学することにした。
一人息子の圭太を会社の後継者にしたい。それには勉学もある程度必要だと考えたのだ。圭太は龍吾の考えに従って、四月からは工業高校への進学を決めていた。
その圭太を狙い、校門の外で勝馬が待ち構えていた。黙って近づいてくると、学校の裏手にある墨田川の河原へ行こう、と目くばせをしてきた。
勝馬は、圭太とは別の、普通科の高校へ進学することが決まっていた。やられっぱなしのままで中学生活を終えることに我慢ならないのだ。
河川敷に二人っきりになると、いきなり勝馬は飛び出しナイフを取り出した。
「てめぇにコケにされたまま終われるかい! 殺してやる!」
圭太は、さすがに勝馬がナイフまで持ち出すとは考えてもいなかった。だが、ここで逃げ出すことは面子にかかわる。とっさに学ランを脱ぎ、それを片手に持った。
「けっ、おれをやれるならやってみろ!」
それが号令となった。
「うぉぉぉー、ぶっ殺してやる」
大声をあげると、勝馬はナイフを右手に、圭太の腹めがけてぶつかってきた。
圭太のほうも死に物狂いだった。これまで何度も喧嘩をしたが、相手が凶器を持ち出したのは初めてだった。
とっさに勝馬の右腕に学ランを被せると、学ランごと力の限りねじあげた。
「てめぇ、おれを殺すだとぉ! てめぇこそ死ね!」
手加減などしていられない。死ぬか生きるかの気持ちだった。
鈍くて低い、気味の悪い音がした。勝馬の腕の骨が折れた。
耳をつんざくような、おぞましい叫び声だった。勝馬はナイフを放り出すと、圭太の足元で転げ回った。釣り上げられたハゼのように長身の体をくねらせ、河川敷の雑草にまみれた。
圭太は落ちたナイフを蹴り飛ばすと、勝馬の腹に、顎にと、蹴りを入れた。二度と圭太の前に姿を現わさないようにと徹底的にやっつけた。
倒れたままの勝馬は、動かなくなった右手を押えて、血まみれになった顔で圭太の名前を呼び続けた。
圭太の背中が小さくなっていく。
――殺してやる……
勝馬は、河川敷で這いつくばりながら、決して消えることのない憎しみの炎をたぎらせ、圭太の後ろ姿を睨み続けた。
勝馬の父親の家業は、圭太の親の龍吾と同じ土建屋であった。社屋も隣接する町に置いていたため、土建屋どうしの仕事の取り合いになることも多かった。
勝馬の父親はこぼしていた。
「また、道場さんとこの龍武土建に仕事を持っていかれた。あそこの親父さんは腕力で仕事をとっていくからなぁ。うちの会社はまた仕事にあぶれた。こんな状態では、副業を増やさなければ食っていけない……」
勝馬の父親は将来、息子の勝馬に自分の会社である鷹佐土建を継がせるつもりであった。そのためか、仕事の愚痴も時々、中学生の勝馬に話していた。
実際、鷹佐土建では、そのときの請け負った作業量によっては、すべての従業員に仕事をあてがうことができないこともあった。そこで、苦肉の策として他の仕事にも手を出していた。労働者を集めて必要な会社に送り込む、手配師などである。
勝馬は父親の苦労を知っていたため、龍武土建の息子の圭太を目の敵にしたのだ。
もとより勝馬は気性が荒く、自分の気持ちを抑えられない。入学してから卒業式のこの日まで、龍武土建の社長の息子である圭太に何度も喧嘩を売った。
だが、そのたびに負け続け、卒業式のこの日には、とうとう腕の骨まで折られることになった。圭太を殺してやりたいという憎しみの感情は膨れ上がるばかりだった。
高校への入学を間近に控えたある日の夜だった。乱暴に圭太の部屋の襖が開かれた。龍吾は飛び込んでくるなり、壁にもたれて漫画を読む圭太の前に仁王立ちになった。
「てめぇってやつは! この前、校長室に呼ばれたとき、散々もう喧嘩はするなと言っただろう! それがなんだぁ? 卒業式のあとに、河原で出向いて、以前に問題を起こした相手の腕を折ったって!」
怒り狂った龍吾は歯止めが効かない。二発三発と立て続けに蹴りが飛んできた。圭太は倒され、腹を押えて言い返した。
「あいつのほうからだ! あいつがおれを河原に引っぱって、そのうえナイフで刺そうとしたんだ!」
「黙れ! 抵抗せずに逃げたらいいじゃねぇか!」
龍吾は襟首をひっぱると、その強力で圭太をすわらせた。今度は胡坐をかいた圭太の横っ面をはたいた。首が大きく傾ぐ。
「あいつは隣町の鷹佐土建の息子じゃねぇか! そこの親父が今日、おれの会社の現場に現れて、よくも息子の腕の骨を折ったな、といちゃもんをつけてきたんだ。同業者の息子とトラブルを起こすなんて、もっての外だ」
さすがの圭太も驚いた、息子どうしの喧嘩が父親たちにも飛び火するとは思ってもみなかった。
龍吾の怒りはおさまらない。
「くそぅ、このわしに頭を下げさせやがって、そのうえに治療費だといって、大枚を持っていきやがった」
真っ赤に膨れ上がった龍吾の顔を真ん前にしながら、圭太にも抑えきれない怒りがこみ上げた。
――おれは悪くない。襲ってくる奴を返り討ちにしてなにが悪い。
なんでもかんでも喧嘩が悪いと言われたくなかった。父の龍吾こそ、喧嘩ばかりしながら会社を大きくしてきたヤクザみたいなもんだ。
袖で鼻血を拭いながら、圭太は立ち上がった。
横幅ではかなわないが、背の高さは今では龍吾を越えている。そのうえ龍吾の年齢はすでに六十歳になっている。
圭太は、驚きで顔を引き攣らせた、体力的に盛りの過ぎた父親の両の手首をつかむと、持ち上げて万歳をするようなかっこうにした。
「おまえ、親に向かって……」
無防備な恰好にさせられた龍吾は言葉を詰まらせた。
これまで、圭太は龍吾相手に歯向かったことはない。殴られても怒りを込めて睨みつけるだけだった。
「こんな家出て行ってやる!」
圭太は怒鳴りつけると、無防備な龍吾の腹に蹴りを入れた。
「う……、ぐ……、け、圭太、おまえ……」
息ができなかっただろう。龍吾は腕を放されると、腹を押さえてしゃがみ込んだ。部屋を立ち去ろうとする圭太を、怒りに満ちた眼で見上げた。
「もう、二度とこの家には戻らない!」
圭太は啖呵を切ると、その日を最後に、家を出た。
( 続く )