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鎧の風鈴

鳶職の片瀬は年老いて先が見えなかった。そんなやさき鷹佐土建の勝馬に声をかけられる。

 十二 足場にて(その二)


 足場の最上段だった。年配の鳶である片瀬は風が横から吹きつけるたびによろめいた。その前方を、若造の圭太が涼しい顔で、何本もの足場用の支柱を肩にかついで歩いていく。

 ――はな垂らしくせに大きな面して歩いてやがる。おれのほうこそこけちまいそうだ。くそったれが!

 歳のせいで腰の少し曲がった片瀬は、ちょこまかと足を速めると、圭太の背中を追った。

 一週間前のことだった。

 半そでからは黒々と日焼けした腕が突き出ている。それでも、昔ほどの張りはない。夕刻、仕事を終えた片瀬は、現場から商店街の路地を歩いていた。出るのはため息ばかりだった。

 体力的なことから、そろそろ自分にも鳶の肩たたきが回ってくることを感じていた。鷲崎親方から引退宣告されたらこの先なんの仕事があるんだろう。地上におりて技術もない連中といっしょに下作業か……? 給料減るなぁ。まだ家族のためには金がいる。

 鬱々とそんなことを考えていると、路地を曲がったところで背後から声をかけられた。


「片瀬さんじゃないか。捜したぜ」

 振り返って、呼び止めた相手の顔を見てもすぐには思い出せなかった。

「だれじゃ? 若いの?」

 薄いサングラスをかけ、高級そうなスーツを着こなす男はニヤニヤと笑っていた。

「おれだよ。おれ。鷹佐土建の息子の勝馬だよ。おぼえていないかい?」

 思い出した。以前、鷹佐建設のもとで作業をしたとき、紹介された覚えがあった。相手が土建会社の息子だと知って、急にていねいな口調になった。

「あぁ、これは鷹佐さんの坊ちゃんでしたか。ごぶさたしております」

 片瀬が自分のことを覚えていたことで、何やらホッとしたように勝馬は笑みをこぼした。片瀬としたら、土建会社の社長の息子に直々に声をかけられるなど生まれてはじめてのことだった。

「あんたにあらためて話があるんだよ。ここではなんだから少し場所を変えて話をしないか?」

 勝馬の誘いで客の少ない喫茶店の、それも人目のつきにくい隅の席にすわった。

 珈琲を啜りながら、よもやま話のように勝馬は鷹佐土建の状況を話した。そのうち、厄介事に愚痴をこぼすようになった。

 いろいろな鳶の親方に仕事を頼んでいるのだが、なかなかこれはという親方に当たらない。そこで会社で、信頼のおける専属の鳶の親方を一人抱えるのはどうかとなった。そこで、思い当たったのが、これまで鳶としてほうぼうで腕前を披露してきた片瀬というのだ。

 片瀬にとっては渡りに船だった。

 年齢もかさんできて、一日中の現場作業がこたえるようになっていた。周りからも爺扱いされている。一介の職人でいるのなら、この先、もっと簡易な仕事をするしかなかった。だが、親方となると話は変わる。これまでの経験を活かして作業員を束ねる。周りの親方連中を見ても、自分に出来ないわけはないと思っていた。

 そんな折に、勝馬の会社で親方にしてもらえたのなら願ってもない話だった。


 片瀬はすっかりその気になった。

 しばしの間をおくと、「話は変わるんだが……」

 勝馬はそう言って、サングラスをはずした。

「これ見てくれよ。おれの鼻筋。歪んでいるだろ。以前、鼻の骨を折られたんだ」

 自嘲的に笑うと、段がついた自分の鼻筋を見せた。

 ちょっと見たところ曲がっているようには見えなかった。しかし、いわれてみると、鼻筋の段もそのときのもののように思われて、片瀬はうなずいた。

「おまえさんの知っている奴にやられたんだよ」

「誰っすかそいつは? 放っとけないですね。坊ちゃんの鼻を折るなんぞ」

「そいつの名前は……」

 勝馬の口から出た人物は、片瀬と同じ現場で働く圭太であった。勝馬が暴行を受けた相手が圭太と聞いてなるほどと思った。片瀬も同じように圭太のことを憎んでいた。

 片瀬の親方である、鷲崎親方は、扱っている鳶の老齢化で若返りを図りたいと思っている。圭太は、中高年の鳶に混じって、一年前から鷲崎親方に雇われるようになった若い鳶だ。

 圭太は筋がよく、親方のほうは将来自分の後継者にしたいと思っているようだ。

 いっぽうで片瀬のような年老いた鳶は、いつ切られてもおかしくない。将来のない片瀬は、若く、これからの圭太には憎しみさえ覚える。

 そんな圭太が、鷹佐建設の御曹司である勝馬の鼻の骨を折ったとなると勝馬と一緒になって怒りを覚えた。

 抜け目のない勝馬は、片瀬が圭太の名前を聞いて、あからさまに憎しみを見せたのを見逃さなかった。

「おれは中学のころから、あの圭太に叩きのめされてきた。同じことが最近もおこった。一年前に、たまたま飲み屋街で出会うと、あいつがいきなり殴りかかってきたんだよ。わけもなくな。この鼻を折られたのはそのときだ。中学のときだって、あいつの暴力で右腕の骨をへし折られた。今度や鼻の骨だ。おれは十年以上もの間、あいつのサンドバッグでしかないのだ。わかるだろう。おれがあいつを恐れているのを……。なんとかしてあいつの暴力から逃れたい。あいつのいない世界に行きたい」

 勝馬の話に心を揺すぶられ、片瀬の義侠心に火がついたようだ。

「坊ちゃん。気の毒だ。こんなことほうっておけない」


 勝馬が飲み屋街で圭太に叩きのめされたのは一年前のことだった。ドヤ街から姿をくらませた圭太を捜した。案の定、鷲崎親方のもとで鳶として雇われていることを突き止めた。鷹佐建設もその親方と関わったことがある。そこで雇われる鳶で、誰か自分の自由になりそうな奴がいないかと捜したところ、片瀬に行き着いたのだ。

「片瀬さん。うちの会社のお抱えの鳶の親方になってくれないか?」

「もちろんですよ。わしならよう若いもんをまとめられますよ」

 片瀬はテーブルの上に身を乗り出した。

 曲がった鼻ばかりでなく、勝馬は心までズタボロになったようにしょげて見せた。

「ああ……、片瀬さんにそういってもらえると嬉しいよ。だったら、おれの会社の仕事をあんたに全部回してやる。そうなりゃ、あんたが晴れて親方だ。いまのように使われていることはない。金だって、もっと儲かる」

 片瀬の年齢では鳶を続けるには限界だ。勝馬の誘いにのることはわかっていた。

 勝馬は、こんな話を覚えておいて欲しいと前置きして、こう言った。

「鳶職は危険な仕事だ。鳶が足場から転落することは、よく起こることだ。珍しいことじゃない。鳶のほうはその危険を知って仕事をしている。足場を昇り降りして、踏板や支柱を運んでいるときには安全帯などしていないだろう。落ちたとしても、周りの連中は残念な事故だったと片づける」

 それを聞いた片瀬はひとつ唾を飲んだ。

「あいつの背中を押してくれるだけでいいんだ。そうすりゃあ、あんたも……」

 声を落として、勝馬は最後にそう言った。


 *      *


 風で足場が揺れるたびに、勝馬の誘惑は波をうつように、片瀬の耳の奥に強弱をつけながらこだました。

 足場の最上部であった。前を歩く圭太の肩に担いだ支柱が揺れている。支柱を肩に片瀬のほうも圭太の後についた。長年の労苦で腰が少し曲がって歩きにくいが、意識していつも以上に足を速く動かした。

 すると前を行く圭太が、足場の角で足を止めた。仕事をさぼろうってのか。なにかを考えるように地上の景色を見下ろしている。

 片瀬は音もたてずに、その背に近づいた。圭太の持つ支柱の先が射程距離に入った。そいつと自分が持つ支柱をからめるだけでいいのだ。


 圭太は最上部の足場、いつもの西側の一角で、立ち止まっていた。地上のトラックのラジオからは湊はるみの歌が先月に続いて流れていた。ラジオのリスナーから根強い人気があるようだ。

 心地よい風が流れた。踏板もゆったりと揺れている。

 圭太がいる足場からは、これまでと変わりなく、ひっそりした青色の瓦屋根が見えた。その軒下には、風鈴が忘れ去られたように吊るされている。そいつは小さな黒い影となって、ときに小鳥が餌をついばむように、ときに波間を泳ぐ小魚のように、上下左右に揺れた。

 年老いた父の姿が圭太の胸の奥深いところで浮かび上がった。聞こえもしない、風鈴の音が聞こえてくるようだ。

 夏祭りのとき親父が指先にぶら下げて、幼い圭太に聞かせてくれた図太い硬質の音だ。こんな高い足場の上まで、鎧の風鈴がその音色を圭太のところまで届けてくれる。

 圭太は思った。この現場があるうちに、自分はよしずが取り外されることを密かに望んでいたのだろうか? 

 はるか下方に小さく映る濡れ縁には、開け放した引き戸の枠を支えにして、いまにも龍吾が姿を現わしそうだ。足がおぼつかないが、ちょっとばかり眩暈を起しただけさ。誰にだってある。

 その龍吾の姿は、いまだ頑強でいかめしく、そのうえ怖い。圭太にとって龍吾は年老いても、いつまでも屈強な鎧をかぶっている。

 きょうの夕刻に、仕事が終わったら、この足で玄関の扉を叩いてみようと思った。

 中学校まで迷惑をかけっぱなしだった義母の恵子さんが、行方不明だった大人になった息子を見て、驚きつつも、親切に出迎えてくれる。

 父親の龍吾も怒るのは最初だけだろう。殴りかかってくるかもしれない。それでいい。歳をとっても、そんな元気があればいい。そして、荒れ狂ったあと、怒りがおさまれば、圭太を家のなかに入れてくれるだろう。

 鎧の風鈴が呼んでいる。


 背中側でガチャンと金属があたる音がした。なんの音だ? いきなり圭太の膝が曲がった。肩にかついだ支柱になんらかの力が加わり、圭太の体が大きく傾いた。


 (完)



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