夏祭りでの思い出
季節が変わり、圭太が足場から見下ろす家では、よしずが外され、軒には風鈴が吊るされていた。その風鈴には父と子の思い出があった。
十一 足場にて(その一)
乾いた秋風がニッカポッカの股の間を吹き抜けた。ビル建設工事は順調に進んでいた。
この日も圭太は足場の一角に立っていた。
ビルの鉄骨工事を終え、その後に続く、電気、塗装、機械等もろもろの工事のための足場組立だった。
地上から支柱を立て、踏板を敷き、地上層から順番に一段、二段と足場となる踏板を積み上げていく。支柱と手すりの接合はハンマーで叩いた。取りつけた階段を昇り降りして、更に上階の支柱や手すり、踏板を運んだ。残すは最上部の足場となっていた。
圭太は一角で足を止めた。足場の西側の角である。いっときの息抜き。この現場に来てからの習慣となっていた。そこから圭太が以前住んでいた家を見下ろすことができた。二階建ての青い瓦屋根の家だった。
いまの八階建ての中層ビルの現場がある間、仕事の合間でも、仕事の終わりにでも、ほんの少しの時間を割けば、実家の父母のもとに顔を出すことができた。
もっとも、母のほうは実の母佐代子が死んでから、父の後妻となった恵子であった。圭太が一緒に住んだのは、短い間だったが、いつも穏やかな表情をして感情を表に出さない人だった。
この日、青い瓦屋根の家が変わっていた。
一階の屋根に立てかけられていた大きなよしずが取り外されて、濡れ縁が覗けるようになっていた。季節の移り変わりを知った。日差しを避ける必要がなくなったようだ。
ぼんやりと見るうちに、ふいっと、軒下から出たり入ったりと動く、小さな黒い影に目がとまった。古びて灰色に朽ちかけた濡れ縁の上を飛んでいた。
最初は黒い蜻蛉が軒の近くを飛んでいるのかと思った。圭太の視力は良かった。目を凝らすと、黒い塊の下から短冊のようなものがぶら下がっていた。夏が過ぎたのだから、よしずとともに取り外せばよいものを、一階の屋根の軒に吊るされたままなのだ。それは風鈴であった。
ずいぶんの間、圭太の足は足場の一角で止まっていた。
遠い日の映像が蘇ってきた。
夏の日差しが強く、幼い圭太には眩しくて、空を見上げられないほどだった。確か、四歳のときだったと思う。父の龍吾に手を引かれて、近所の夏祭りに来ていた。
神社の境内には、赤や黄色、青の原色と色とりどりの暖簾をつるした屋台が並んでいた。たこ焼き、みたらし、氷などを扱っており、ソースや醤油のこうばしい香りがあたり一面に漂っていた。お面やプラモデルなどの商品を陳列している露店もあり、そのなかのひとつが風鈴を扱っていた。
可愛いいキャラクターが装飾に使われている子ども向けの風鈴に混じって、大人しか興味を持たない通常のものも並べられていた。
圭太は風鈴には興味がなく、露店の前を通り過ぎようとした。ところが、龍吾に握られた手で引き戻された。
これまで圭太の興味の向くままに露店を覗いたりしてきたのだが、ここにきて、龍吾が風鈴の屋台の前で立ち止まったのだ。
「いこうよ」
圭太が急かすと、龍吾は
「待て、ひとつ欲しいものがある」
そういうと、屋台に吊るされている多くの風鈴のなかから、ひとつの鉄製の風鈴を選んだ。太い眉のしたの、厳めしい目を光らせると、ゆらゆらと揺らした。鈍い陶質の音がした。
「風鈴はかん高い音をたてる硝子製より、こっちのほうがいいんだ」
幼いながらも、圭太はそのときの龍吾を、なんでこんなものに興味を持つのだろうかと思った。
その風鈴は子どもが好む可愛いキャラクターがついているわけでもなく、美しい装飾が施されているわけでもなかった。錆びたような色合いで鐘の形をしている。そのときの圭太は、なぜ龍吾はこのごつごつした風鈴に引き寄せられるのだろうかと思った。頑丈そうに見えることが利点だろうか?
そのあと龍吾は、露店で購入した風鈴をぶら下げて、圭太の手を引き、屋台が並ぶ参道を歩いた。
圭太の希望でかき氷屋の前に止まった。
すると屋台の若い店番の男がうやうやしく龍吾に頭をさげた。髪が短く、鋭い目つきをしていた。そのくせ似つかわしくない笑みをたたえていた。
「旦那、ご無沙汰しております」
当時、龍吾は、土建業にかかわる職人だけでなく、ほうぼうでさまざまな世話をしていた。祭りの出店の連中にも顔がきいたようだ。詳しいことは圭太の知るところではない。
龍吾は店番にタダでかき氷をつくらせた。店番のほうも、それが当然だといわんばかりの振舞いだった。まだ小学校にもあがらない圭太は、幼心に氷屋の若い衆を顎で従える龍吾を偉いと感じた。
圭太が小さな両手で受けとったのは、貝の殻のようなウエハスの皿に紙のスプーンのかき氷だった。
喜び勇んで紙スプーンを持ってかき氷をほおばった。すると氷の冷たさで、いっきに歯の奥から頭のてっぺんまでキーンとした痛みが走った。圭太は目に涙を浮かべて、隣に立つ巨木のような龍吾を見上げた。
当時すでに五十歳を過ぎて胡麻塩頭だった龍吾は、これまで見たことのない穏やかな表情で目を細めた。
「そうだろう。かき氷ってやつは脳天に突き刺さるように痛いだろう」
龍吾は指から吊るした風鈴を圭太の目の前で揺らした。涙で歪んで映る風鈴が、カラカラと硬質な音を奏でた。
「どうだ? この音。ちんけな硝子製の風鈴は、おまえがかき氷を食ったときのようにキンキンと頭に響くけど、こいつは決して耳障りじゃなく、その鈍重な音が力を感じさせてくれるんだ。見た目からして、昔の武将の鎧を感じさせねぇか。なんだかよう、おれに闘えっていってくれているようなんだよ」
龍吾のいう硝子製ではなく、こっちのほうがいいという風鈴は、鋳物で作られた岩手県産の南部風鈴のことだ。音は硝子のように甲高くなくて、鋳物の重さからくる鈍重な響きをもっていた。
鋳物の鈍い光が、子供心にも鎧のようなたくましさと威厳きを感じさせてくれた。襲い来るものを返り討ちにする力強さがあり、父親の龍吾そのもののように見えた。
圭太は龍吾の気に入るものを、当時、まだ生きていた佐代子がどう思うか気になった。
「その風鈴。お母さん。見たらよろこぶかなぁ?」
母の佐代子はそのころ家で臥せていて、外出はしなくなっていた。
「……。ああ、きっと気に入る」
確か、そう答えてくれたように記憶している。
圭太が過去の記憶をたぐっていると、いきなり背後から怒鳴り声が飛んできた。
「ぼさぁっとしているんじゃねぇ!」
( 続く )