圭太の見下ろす先にあるもの
ビル建設の鉄骨の最上部に立つ圭太の肌をじりじりと9月の太陽が焼きつけてきた。首に巻いたタオルは熱い汗で粘つき、荒縄のように強張って、圭太の首を絞めつけた。自然と呼吸も荒くなる。
いっぽうで、そこから見下ろす町並みは、古い瓦屋根が並ぶ老人の町であった。そこに生息していることすら悟られたくないかのように、静かに息をひそめている。
一 炎天下の鉄骨
九月になるというのに、肌を焼きつくす殺人的な太陽が照りつけていた。焦げた肌から、汗が音を立ててふき出していた。ヘルメットの内側で汗は熱湯となり、肌を伝う滝に変わる。
首に巻いたタオルがその滝湯を吸った。粘つき、ねばつき、荒縄のように強張り、じわじわと首を絞めつける。蛭に汗を吸いつくされるようなうとましさだ。
道場圭太は、皮膚に吸いついた蛭を、ゆっくりと引きはがすように手の甲で汗を拭った。
圭太が立つ鉄骨は三十メートル以上の高さになる。地下足袋からは焼けたプライパンのような熱が伝わる。
昭和五十一年、第一次オイルショックのあと、日本は不況にあえいでいた。鳶の親方である鷲崎親方ならずとも、一年前からその下で働きだした新入りの圭太にとっても、もらった仕事がいかに大切かはわかっていた。
親方はよくこぼしていた。でかいニュータウンの建設工事が行われているが、そこの仕事をものにできたのなら、何年もの間、金の心配はいらないのにと――。
今回は大手不動産会社が施主の八階建ての中層ビルの建設工事だ。完成した暁には、いろんな会社の事務室やら、小売店舗、飲食店が入って賑わうそうだ。不況のときこそ、大手の会社が仕事を生みださなければ、日本人の多くが死に絶えてしまう。
一か月前にこの現場の仕事が決まったとき、親方は職人たちを前にして檄を飛ばした。
「この不況で仕事があるのはありがてぇことだ。みんな、手を抜かずにがんばってくれ! 手ぇ抜いた奴はすぐ馘にする! おめぇら、そうなりゃオマンマの食い上げだぜ!」
親方のもとで、圭太ら総勢七人がでかい声で、ウォー、と気勢をあげた。新しい仕事を始めるときの恒例の行事だった。
圭太は汗で滲む眼を見開くと、長ったらしい梁用の鉄材がクレーンで吊り上げられるのを待った。足袋の指先から先は断崖絶壁だ。
緊張が走る。揺れながら昇ってくる鉄材を、間違って落下させようものなら、小さな会社ならすぐにも吹っ飛ぶ。
作業用手袋をつけた圭太と、もう一人の鳶が両端を受け止める。
この時ばかりは、普段、仲の悪い同僚とも息を合わせ、寸部の狂いがないように、鉄材をはめ込む。ずれがないかを慎重に確かめると、すかさず、ボルトをスパナでとめる。最後に、鉄材からワイヤーをはずし、一丁あがりだ。
ビルの骨組みをつくる鉄骨工事も、最上階の屋上部分を残すだけとなっていた。圭太は、命綱である安全帯を、あらかじめ張り巡らせてあるロープにひっかけて、肩幅もない狭い、鉄骨のうえを歩いた。ニッカポッカの股の割れ目から下方に町が見えた。
小さく見える屋根が長々と何列にも連なっていた。屋根瓦が抜け落ちているところもなかにはある。どれも煤けた古いものが多く、まるで畑の畝に、干ばつで枯れた作物が植わっているようなものだ。
また、古びたそれらの屋根の間を縫って、大昔に作った道だろう、舗装されてはいるが、車二台がぎりぎり通れるだけの、幅の狭い道が十字を描くように走っている。電信柱が立つところでは、対向車が柱の手前で待っていてくれなければ、すれ違いができない。
そんな道には、さほど車も通らない。近所に住むものが走るのか、渋滞を嫌って国道からの抜け道として使うぐらいか……。そこに自転車が現れた。
道の端を年配者がゆらゆらと自転車を走らせている。鉄骨のうえから見ると、背中の丸まった老人の人形が、おもちゃの自転車をこいでいるかのようだ。
圭太は小さく舌を鳴らした。
町そのものが老いぼれてきている。誰よりもそのことを知っているのは住民たちだ。それでも住民たちは、町が変化することを拒んでいる。
そんなことを考えていると、圭太がいる鉄骨の最上部にも、地上にいるトラックの開け放たれた窓からラジオの音が聞こえてきた。
雪で覆われた北国の宿で、ひとりで遠くにいる男を思う女の歌だ。いまや演歌の大御所となった女性演歌歌手湊はるみが歌う。
昨年の冬から今年にかけてずいぶん歌われてきた。
冬の歌なのに、この暑い季節にも流れている。
鉄骨を歩く鳶の一人が演歌に合わせて、鼻歌を歌っている。鳶で演歌が好むものは多い。歳をとったものだけでなく、若いものも好む。下っ腹に力をこめて、こぶしをきかせて歌うと、女性歌手の曲であろうと、男気を感じるらしい。
圭太が鉄骨の上を歩いていると、
「ぼさぁっとしているんじゃねぇ!」
いきなり背後から怒鳴り声が飛んできた。
なかには圭太と相性の悪い鳶もいる。片瀬というベテラン鳶だ。周りは片瀬の爺さんと呼んでいる。腰が曲がりかけた年配の鳶だ。
親しみからではない。なにかと圭太のやり方にいちゃもんをつけたがるのだ。
多少腹がたつが、若手としては大人しくしているほかない。
地上では新しい鉄材をクレーンが持ち上げようとしていた。
圭太はしばらくの待ち時間をやり過ごすと、次の位置へと鉄骨の上を歩きだした。
片瀬の爺さんように鳶仲間で気に入らない奴もいるが、いまの生活は以前と比べてずいぶんよくなった。
親方に拾われてからは、毎月のアパート代を払い、健康的な食事をするだけの、それなりの給料をもらっていた。ここでクビにでもされたら一年前の生活に逆戻りだ。
以前の生活といえば、あるかないかの仕事を探すために、毎朝六時に日雇い労働者が集まるドヤ街の労働センターに行っていた。
そこに来た手配師から仕事をもらえたら、その日の食いぶちは何とかなる。どんぶり飯を食って、コップ酒を飲んで、ドヤ街に三畳の宿をとったら一日が終わる。手元に金はほとんど残らない。その日暮らしの生活だった。
ちっぽけな幸運に見放され、仕事にあぶれたら、その日に食う金にも困る。もちろん宿代など払っている余裕などない。そういう日は、稼ぎがない同類が集まる公園で野宿をする。
そんな生活を何年も続けてきた。
二十九歳にして親方に拾われたのは幸運だった。圭太はいまのこの生活を捨てたくはないと思った。
組み上げた鉄骨の下のほうから、残暑の熱風が渦を巻いて吹きあがってくる。
言わずもがな、頭上の太陽からも高温が襲ってくる。焼肉なら、両面をもれなく、こんがりと焦がすってやつだ。
その熱風のなか、鉄骨の上を周りながらも、圭太が決まって脚を止めて見下ろす一点があった。ヘルメットのつばの下で、太陽の眩しさを堪えると、眼に力を込めた。
建設現場から二十メートルと離れていないところにあった。青い瓦屋根の二階建ての家だ。
ご多聞にもれず、ところどころ瓦は欠け落ち、モルタルの壁は薄墨を塗ったように汚れていた。庭木は手入れされておらず、伸び放題で、一本の枯れ木の陰になるように濡縁があった。その濡れ縁も大きなよしずで覆い隠されて、世間からは背を向けていると言っている。
その青い瓦屋根はかれこれ十五年間遠ざかっている圭太の家だった。
また、隣には三階建ての古びたビルがある。圭太が十代のころ、その小粒なビルで、父の龍吾は社長をやっていた。
いまでは会社の看板は外されている。遠目にも何年かの間、放置されたビルだとわかる。窓ガラスにはところどこに養生テープが貼られ、壁にはいくつもの亀裂が走っていた。
( 続く )
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