さあ、ここにサインをして下さい。契約は無事に遂行しましたので・・・
妊娠出産といった女性にとって微妙なテーマの話を書きましたので、この手の話が苦手な方はどうか読まずにパスして下さい。
よくある、子供が結婚したらサヨウナラ・・・の話なのですが、この夫婦は二十代のまだ若い夫婦です。
とうとう私の待ち望んでいた日がやって来ました。一人娘が第三王子と無事に結婚をしたのです。
華やかな結婚披露パーティーが催されて、みんなの祝福を受ける若いカップルはとても幸せそうでした。夫は嬉し過ぎて笑顔なのに涙をこぼしています。そして彼らに負けず劣らず私も幸せです。いや、もしかしたら彼らより私の方が幸福感に浸っているかも知れません。なにせ八年もの間、この日が来るのを誰よりも願っていたのですから。
出産年齢が限られている女性にとって、この八年はあまりにも長いものでした。しかし私はじっと耐えました。耐え忍びました。しかしこれを夫だけの責任にするつもりはありません。あの時の私は愚かで、何が己にとって本当に大切なのかを全く気付けなかったのですから。よってこれは自分の罪なのです……
そして貴族として生まれてきたからには、私はその義務と契約は守らなければなりませんでした。
しかし私は今日、ようやくその義務と契約を無事に遂行し終えたのです。
結婚披露パーティーが終わり、新婚夫婦は新婚旅行へと出かけて行きました。残された夫と私は居間のソファーに向かい合ってお茶を飲んでいます。夫はお酒を飲もうと言ってきましたが、ただでさえ昼間に沢山の祝い酒を頂いたのですから、もう結構ですわと断りました。
大体これから大事な話があるのですから、酒など飲む気にはなれません。
「今日は本当にありがとう。君の行き届いた差配によって、滞りなく無事娘の結婚式を執り行う事が出来たよ。王家からもお褒めの言葉を頂いた。全て君のおかげだ」
「とんでもないことでございます。そのように言って頂けるとは思ってもおりませんでしたから、とても嬉しいですわ」
「君にはずっと感謝していたのだよ。口には出さなかったが。娘を立派に育てくれてありがとう。王子殿下が我が公爵家の婿に入って下さるなんて、思いもよらなかったよ。
これでさぞかし兄夫婦も天で喜んでおられる事だろう。私もようやく肩の荷が下ろせるよ」
夫はそれこそ満面の笑みを浮かべ、結婚して初めて私に礼を述べられました。それを聞いて、私も心からの笑みを浮かべました。最後に夫に礼を言ってもらえたのが嬉しくて。
娘は前公爵夫妻の遺した一人娘です。公爵夫妻は領地から王都に戻る道中で事故に遭って亡くなりました。そして弟だった夫が爵位を継ぎ、十四しか年の違わない姪を自分の養女にしたのです。
早くに流行り病で両親を亡くしていた夫にとって、年の離れた兄は父親同然でした。そして兄弟にとっては幼馴染みであった義姉は、夫の初恋の人であり、義姉であり、永遠の思い人でもあったのです。
夫は思い人であった義姉に瓜二つだった義娘を溺愛していました。彼の生活の中心は娘であり、娘の事が公爵家にとっては何よりも優先される事でした。
当時夫には十年にも及ぶ婚約者がいたそうですが、彼が娘の事ばかりにかまっていたので、婚約者に婚約を解消されてしまったようです。
いくら彼が公爵で爵位が高かろうと、王家主催のパーティーで娘が少し熱を出したという位で、婚約者を放置して席を外すという事が何度も続けば、彼女も流石に我慢が出来なかったのでしょう。デートや誕生日をすっぽかされたのとは違い、公の場で蔑ろにされたのでは、彼女もいたたまれなかったに違いありません。
彼女は伯母の嫁ぎ先である義理の伯父であった王弟殿下に泣きつき、彼との婚約を解消してもらいました。もちろん、表面上は円満な解消だったそうです。彼がした行為は破棄されるほどの瑕疵ではなかったからです。心情的にいくら思いやりのない非常識な行いだったとしても。
まあ彼にとっても、大事な娘を一番に考えてくれない彼女には不満を抱いていたそうなので、解消の申し出は喜ばしい事だったようです。
それに、もしそのまま彼女と結婚をしていたならば、間違いなく王家の不興を買って、今日の佳き日を迎える事はなかったでしょう。
夫は婚約解消になっても、一向に気にしませんでした。とは言え、まだ六歳だった娘には女手が必要でした。しかも、それは侍女やメイド、家庭教師だけでは足りないと彼は思いました。娘は将来婿を取って公爵夫人になるのだから、きちんとした淑女となるように育てなければならない。となると、やはり母親が必要でした。
夫は色々な伝手を使い、立派な公爵夫人と成り得る女性を探したそうです。
当時夫は二十代前半でまだ若く、眉目秀麗、しかも名門の公爵家当主でした。彼と結婚したいと望む者は山のようにいたそうです。(まあ、それは今も変わりありません。彼の本来持つ冷酷さや変人さは結婚しなければわかりませんもの)
それ故に当初は、結婚相手なんて直ぐに見つかると思っていたようです。
ところが一年経っても彼は結婚相手を見つけられませんでした。それは彼が妻に望む条件があまりにも酷く、人間性を疑うものだったからです。
執事長は常識的な人物でしたので、主に苦言を呈したそうです。結婚するからには相手に対してきちんと妻として敬うべきですと。
しかし主はきちんと自分は妻を敬うつもりだと言ってきかない。自分の結婚の条件は決して妻を蔑ろにするものではないと。
病気がちだった娘も、近頃では滅多に熱も出さなくなった。元の婚約者の時のようにパーティーをドタキャンしたり、途中退場する事もそうはないだろう。イベント事もきちんとしてやるつもりだし、なるべく妻を外へ連れ出して息抜きもさせてやるつもりだと。
そう主は言ったが、執事長にはわかっていたのです。たとえ奥方の誕生日パーティーであろうと、その中心になるのはお嬢様。お出かけも親子三人で出かけられる場所だけで、大人向けのオペラや音楽会などは出かけないのだろうと。
そしてお嬢様の贈り物には頭を悩ませても、奥方様への贈り物は自分任せなのだろうと……
ええ。執事長の想像した通りになりましたよ。私との結婚生活は。でも私は一切不満には思いませんでした。最初からの契約でしたから。
私は、名門と言われながら、すっかり傾いてしまった貧乏伯爵家の一人娘でした。多額の借金を返す見込みもなく、屋敷や領地を手放す算段をし始めていた時、私に思いもよらない縁談話が舞い込みました。
私達家族はその話に眉を顰めました。だってそうでしょう? こんな取り潰し寸前の伯爵家の娘に、名門公爵家が結婚を申し込むなんて普通じゃ考えられません。訳ありに決まっているじゃないですか。
普通の家なら格上の家と縁を結べると大喜びするところでしょうが、貴族社会にもう疲れ切っていた両親は、面倒な事に巻き込まれたと浮かない顔でした。
借金は先代の時代に大災害があって出来たもので、今更どうしようもないほどの金額でした。
既に両親は田舎に引っ込んで、娘夫婦や孫達と貧しくとものんびり暮らす事を夢見ていたのです。そう。私には当時婚約者がいたのです。
その婚約者は我が家の若い執事で、二つ年上の幼馴染みでした。何故使用人と思われるかもしれませんが、執事は男爵位を持っていましたので、婚約にはなんの問題もありませんでした。むしろ借金だらけの我が家に婿入りだなんて、なんのメリットもないと申し訳なく思っていました。
それでも、幼くして母親を亡くしていた彼は、実の子のように育ててもらったと言って、私の母親を慕って尽くしてくれていました。そして執事だった彼の父親が二年前に亡くなってからは、両親と私と彼は肩を寄せ合って、貧しいながらも仲良く幸せに暮らしていたのです。それなのに・・・
何故私に白羽の矢が立ったのかと言えば、
「あの方がお母様になってくれたらいいのに…」
と言った娘の一言だったようです。実は、私と十歳違いの娘は元々顔見知りでした。前公爵夫人と私は同じ養護施設で奉仕活動をしていたのです。
その方はとても美しく優しく素晴らしい方で、私は彼女を年の離れた姉のように思い、慕っていました。そして時々彼女と一緒に来ていた彼女の娘さんの事も私は大好きで、とても可愛がっていたのです。
娘の一言で彼は私の事を調べたようです。そして、私を彼が求めていた妻、いいえ、娘の母親に最適だと考えたようです。
私はその頃王宮の侍女になって、少しでも家にお金を入れようと、とにかく勉強やマナーやダンスに励んでいました。そして王立学院に入学してからずっと首席でしたので、王宮の侍女試験にも間違いなく合格出来ると言われていたのです。
そして夫からの結婚の打診があってから三か月後、私は卒業間近になって、とうとう逃げ道がなくなりました。というのも母親が重い病気にかかったからです。
夫は実家の再建のための無利子の融資と、母親の治療費を出すと提示してきました。
しかし、家を再建出来ても一人娘を嫁に出したら、どうせ後継者がいなくなる。それでは意味がないから娘は嫁には出さないと父親は言ってくれました。
私の幸せは娘夫婦と孫達と貧しくても一緒に暮らす事だ。援助をしてもらって病がよくなっても、娘夫婦と暮らせないのなら意味はない、と母親も言いました。
しかし夫はこう言ったのです。
「私と結婚して子供を二人つくれば、二人目を伯爵家の跡取りにすればいいのですよ。それにお嬢さんも頻繁にあなた方に会えるように配慮しますよ」
と。
そして私にはこう言いました。
「君の婚約者は学生時代は将来を期待されるほど優秀だったらしいね。君と結婚して平民落ちしたら、せっかくの才能も無駄になってしまうね」
その言葉はまるで鉛のように私の心にのしかかりました。私は婚約者の事を誰よりも愛していたからです。
彼は容姿が整っているだけではなく、文武両道に優れ、学生時代から皆から大変人気がある人でした。私は婚約者として少しでも彼に相応しくありたいとは必死に努力を続けていました。そう、ただ家のため、両親のために頑張っていたわけではありませんでした。
あの頃、私は愚かにも婚約者に愛されているという自覚がありませんでした。彼が婚約者になってくれたのは、ただの同情、あるいは育ててもらった母への恩義のためだと思い込んでいたのです。
私は簡単に夫に誘導され、口車に乗せられてしまいました。私が公爵家に嫁げば、実家の伯爵家は復興し、母の病気も治せる。婚約者も彼に相応しい相手を見つけて幸せになれると。私だけが我慢すれば皆幸せになれるのだと。
自分が悲劇のヒロインにでもなったつもりだったのですかね。今になると笑えますが、あの時私はまだ十八になったばかりだったのです。成人したとはいえ、まだまだ子供だったのです。
私と婚約者は半ば脅しのような圧力を受け、無理矢理婚約を破棄させられました。それから私は直ぐに夫と婚約させられ、二月も経たずに結婚する事となりました。
そしてその結婚式の前日になって、私は夫に例の結婚の契約書を見せられたのです。
つまりこの結婚は娘を立派な淑女に育て上げ、婿を取って公爵家を継がせるためのもの。故に夫婦としての体裁はとるが、実際は白い結婚である。何故なら子供を作って、もしそれが男子であったら、娘夫婦に爵位を譲れなくなるから。
お互い自由に愛人を作っても良しとするが、それを娘には決して知られてはいけない。仲の良い夫婦を演じる事。そして他所に子供は絶対に作ってはいけない。もし出来たら処分させる。
娘を一人前になるまで育て上げてくれたら、融資した資金の返済は求めない。離縁をしたいというのなら、それにも応じよう。
その契約書を見た時、私は夫の娘への異常な偏愛にぞっとしました。そして白い結婚になる事をむしろ喜ばしいと思いました。夫婦というのは名ばかりで、単なる娘の母親業という仕事に就いたと思えばよいのだから。
それでも、私の両親を騙した事だけは許せませんでした。夫は自分達の子供の一人を実家の跡取りにすると、母に孫の顔を見せると約束したのですから。
夫は娘の事だけが大切で、それ以外の人がどうなろうが知った事ではないのです。人の気持ちがわからない、わかろうとしない自分本位の人間でした。
私は契約書を前にして当然躊躇いました。しかし、実家への融資は既にされていました。そう。債権者へお金は支払われてしまったのです。我が家にはそのお金を公爵家に返す事など出来ません。私は涙を堪えて震える手でサインをしたのでした。
こうして私の結婚生活は始まりました。私達は世間的には仲の良い夫婦、娘の前では優しい良い両親を演じました。いえ、娘の事は演技ではなく本当に愛していました。娘は本当に素直な良い子で、私を実の母親のように慕ってくれましたから。
私は夫に言われずとも、娘を立派な淑女に育て、彼女が幸せになれる相手を見つける努力をしました。
優しくて思いやりがあり、領地経営も上手くやっていけそうな第三王子と娘が、自然に出会う機会を作ったのもこの私です。
見目麗しい上に心優しく、そして完璧な淑女である娘を王子が気に入らないわけがありません。二人は直ぐに恋に落ちました。
私は心底ホッとしました。というのも、娘の成長と共に、夫の目が怪しくなってきたのです。そう。娘は夫の最愛の人に生き写しでしたから。
まあ、常識のない夫でも流石にその感情がまずい位はわかっていたようで、気を紛らわせるために、毎日のように高級娼館へ通っていました。
そして私は娘と夫を二人きりにさせないように、娘にへばり付いていましたよ。夫は邪魔そうに私を胡乱な目で見ていましたが、何も言いませんでした。そりゃ文句など言えなかったでしょうよ。娘から一切目を離すなと命じたのは自分だったのですから。
その命令のせいで私は殆ど実家に帰る事が出来ず、母親の看病すらろくに出来なかったのですから。
私は母の葬式の時に誓ったのです。あの男を決して許さないと。あの男が幸福の絶頂に登りつめた時に、谷底に突き落としてやろうと。もちろん、精神的にですよ。まあ、図太い神経の持ち主ですから、私に何をされても痛くも痒くもないかもしれませんが、そうでも思わないと、私の方の神経が持ちませんでした。
第三王子殿下は娘との婚約が決まると、毎日のように公爵家に通ってくるようになりました。夫から領地経営を学ぶ為にです。
最初のうちは夫が王子殿下に嫉妬してそれを顔に出しはしないかとハラハラしましたが、それは杞憂に終わりました。夫は厳しくも愛情を持って将来の婿殿に指導していましたし、若い二人が仲良くしているのを微笑ましそうに見つめていました。
どういう心境の変化か、夫は娼館通いもすっぱり止めました。そして、なんと私と二人だけで外出しようと誘ってくるようになりました。どうも娘に言われたようです。
「お父様、今まで私を守って下さってありがとうございました。でもこれから私の事は殿下が守って下さるので、これからはお母様だけを守ってあげて下さい」
と。娘の気持ちは嬉しかったのですが、私は今更夫に守って貰わなくても良かったのです。私には第二の両親と呼べる人達がこの屋敷にはいましたので。そう。執事長と彼の妻である侍女長です。
彼らは私達夫婦の実情を唯一知っていました。執事長は非常識で人の尊厳を軽んじる夫に苦言を呈し続けていましたが、その努力虚しく主を矯正出来ませんでした。
そこで彼は主の事は諦めて、私を全力でサポートしてくれました。母親の死後、私を支え、新しい希望の道筋を示してくれたのも彼らでした。
「奥様。お辛いでしょうが、契約が解消するまでの後数年辛抱して下さい。今はその日の為に計画を練りましょう」
侍女長は慈愛の籠もった目で私を見つめてこう言ってくれました。
そんな彼女も結婚当初は私を警戒し、厳しい目で私を見ていました。私が娘に何かしないかと心配だったのでしょう。まあ、そう考える方が普通でしょう。
むしろ、私が娘を愛し、大切するのが当然だと思い込んでいた夫の方が異常です。私の人生を自分の都合だけで縛りつけ、飼い殺しをしていたというのに。私が娘を愛したのは本当にたまたまです。
私がただ甘やかすだけではなく、優しく厳しく、愛情を持って接する様子を見て、侍女長は段々と態度を軟化させていきました。そして、母親の死に打ちのめされた私に、彼女が先程の言葉をかけてくれたのです。
彼女はこうも言いました。
「私は先日、ふとこう思ったのです。ああ、私はもう子供を産めないのだと…
私は二人の子供を授かり、既に孫さえいるというのにですよ。この年になってもまだ子供が産みたい、産みたかったと思うのは、やはり理屈ではなく、女性の性なんでしょうね。
欲しいと望んでも恵まれなかった方や、欲しいと願っても叶えられない状況の方はどれほどお辛いか、改めて思い知りましたよ。
奥様は結婚をなさったのですから、たとえ夫へ愛情がなかったとしても自分の子供を欲しいと思うのは当然の事です。そしてそれに協力するのは夫としての義務です。もし、それができないのであれば、離縁するなり、自分の代わりの相手を見つけるべきです。国の法でそう決まっているのですから。
それを平然と破って何とも思わない旦那様を、私は同じ女性として許せません。
ええ、奥様が旦那様との子供なんて望んでいらっしゃらない事はわかっておりますよ。ですから、奥様が本当に愛している方のお子様をお産みになれるようにこれから準備していきましょう・・・」
執事長夫妻は自由に外出したり、外との連絡が取れない私の代わりに、実家とやり取りをしてくれました。
私の実情を父と元婚約者に説明し、必ず清らかな体で実家へ戻す事を約束するので、どうか私を受け入れて欲しいと、二人は頭を下げてくれたそうです。
その時、私が結婚してから既に四年が経っていましたが、元婚約者は私を忘れられず、誰とも結婚せずに、実家の再建の為に死に物狂いで取り組んでくれていたそうです。借金を返して私を取り返すつもりで。たとえ私が穢されていたとしても…
私はそれを聞いて泣き崩れました。彼がそこまで自分を思ってくれていたとは思ってもいなかったからです。私はなんと愚かだったのでしょう。
たとえ平民に身を落としたとしても、両親と彼と一緒だったら、貧しくとも幸せに暮らせたものを。両親もそれを望んでくれていたのに。
私は激しい後悔の念に押し潰されそうになりながらも、元婚約者に手紙を書きました。
・・・どうか後四年私を待っていて欲しいと。私はきちんと契約を全うして、その上で堂々と離縁してもらうので、それまで待っていてと。昔も今もそして未来も貴方だけを愛していますと・・・
私の手紙を元婚約者に届けてくれた執事長は、そのまま彼の返事を持ち帰ってきてくれました。その手紙にはこう書かれてありました。
・・・僕も、昔も今もそして未来も貴方だけを愛しています。いつまでも貴方を待っていますと・・・
その後私は今まで以上に、娘の教育と共に公爵夫人としての執務に励みました。私は必要最低限しか社交場には出られませんでしたが、それでも裏方として誠心誠意社交に務めました。相手の方を思いやった手紙や贈り物をし、人との繋がりを大切にしました。
そのおかげで私には確かな人脈が出来、社交界での評判も上がり、いつしか賢婦人、賢母と呼ばれるようになりました。
私には沢山の情報が入ってくるようになり、私はその情報を実家へも伝え、私達はそれを元に資産を増やしました。そして、借金の返済と将来の資金作りに励んだのでした。
また、私の評判が上がった事で、娘の評判もますます上がり、良い方との縁談も次から次へと来るようになりました。
まあ、元々娘の評判は良かったのですよ。ただ、何せ夫の娘への溺愛ぶりは当然有名で、色々と勘ぐり、尻込みする家も多かったのです。まあ、夫が異常なのは事実でしたから仕方ないですよね。
しかし、私は娘には幸せになって欲しかったし、私が居なくなってもしっかりと彼女を守って下さる方との縁を結びたかったので、必死に夫の評判を上げるように努力しましたよ。
夫の悪い噂を追い払うために、彼を説得し、私は徐々に社交界に出る回数を増やしていきました。そして夫とはそれはそれは仲良く振る舞いました。ええ、それこそ私達は熱愛夫婦です!と。
その結果、娘は第三王子と無事結婚することと相成ったのです。
「娘をもう心配する必要がなくなった。これからは二人でゆっくりと旅行にでも行こう。その前に、オペラでも観にいくかい? 今評判のオペラがあるんだってね」
夫が優雅にお茶を飲みながら言いました。
「ええ。久しぶりに大人向けの良いオペラだと人気だそうですよ。でも旦那様は私とはご覧にならない方がいいと思いますわ。カップルで観劇すると、その夜は盛り上がると、専らの評判ですもの。恋人と観にいく事をお勧めしますわ」
私がこう言うと、夫は嬉しそうに目を細めて言いました。
「おや、珍しいね、君が僕にそんな事を言うなんて。嫉妬してくれるの? 嬉しいけど、僕には今恋人はいないよ。いや、一年以上誰とも関係を持っていない。君みたいな最高の女性が側にいて、他所の女性になんか目が向く訳がないじゃないか」
「まあ、どうなさったのですか、旦那様。そんな事を仰るなんて。子育ても終わった事ですし、隠す必要もなくなったのですから、もうご自由に女性と付き合って下さいな」
「いいや。君がいればもう他の女性は要らないよ」
夫が私の手を握ろうとしたので、私はサッと手を引っ込めました。そしてソファーの横に置いておいた大きな封筒を手に取ると、そこから書類を取り出してサイドテーブルの上に置きました。
「ここに旦那様のサインをお願いします。私のサインはもうしてありますので」
「なんの書類だね?」
「契約を無事に遂行し、終了したという書類と、離縁届けですわ」
夫は瞠目しました。そして何を言われたのかわからないという顔をしました。私はそれをただ黙って見つめていました。
「離縁? 何故?」
暫くして夫はようやくこう言ったので、私もこう尋ねました。
「何故とはどういう意味ですか?私の方がお聞きしたいわ。
契約が終了したから離縁するだけですよ。そもそも貴方がご自分でそうおっしゃったのでしょ。
この結婚は娘を立派な淑女に育て上げ、婿をとって公爵家を継がせるためのもの。故に夫婦としての体裁はとるが、実際は白い結婚であると。
お互い自由に愛人を作っても良しとするが、それを娘には決して知られてはいけない。仲の良い夫婦を演じる事。
娘を一人前になるまで育て上げてくれたら、融資した資金の返済は求めない。離縁をしたいというのなら、それにも応じようと……」
夫は口をポカンとあけ、私の顔を見つめました。
「私はきちんと契約を守りました。だから、貴方も契約を守って下さい。えっ? 離縁しない? 何故ですか? 私は娘を一人前にしましたよ。契約通りに。えっ? 妻としての役目を果たせですって? 貴方は夫の役目を一切果たさなかったのに? その上、私の両親を騙して、母を寂しく死なせたくせに。
えっ? 今から約束を遂行するですって? 冗談じゃありません。母はもういないんですよ。それに、貴方との子供なんて絶対に要りません。
もし応じて貰えないのなら、訴えますよ。白い結婚が三年続いた場合、片方が望めば離縁は認められます。私達は八年です。間違いなく認められ、その上貴方には慰謝料も要求出来ますよ。まあ、そんな事はしませんけれど。借金と相殺してあげますわ。本当は借金も返さなくてもいい契約でしたが、貴方に借りを作るようで、それも気分が悪いですからね。
表沙汰にしたくないのなら、さっさとサインをして下さい。
私は貴重な八年間を無駄に使ってしまったので、これ以上一分一秒でも無駄にしたくないのですよ」
「君と離縁したくない。君が居ないと生きて行けない。君が必要だ…」
夫がそう叫んで私に迫ろうとした瞬間、夫婦の居間の扉が開いて、執事長夫婦が飛び込んで来て私を守ってくれました。そして執事長は冷たい目で主に対してこう言い放ちました。
「旦那様、お嬢様がご両親の真実を知ったらどう思われるでしょうか? きっと自分のせいで奥様に辛い思いをさせてしまったと悲しまれる事でしょうね。そして旦那様を軽蔑される事でしょう。それが嫌なら、サッサとサインをして下さい」
「しかし、離縁の理由を何と娘に説明すればいいんだ……」
「それくらい、ご自分でお考え下さい。さあ、早くサインを!!」
執事長に攻め立てられ、夫は否応なしに二枚の書類にサインをしました。
私はその書類を再び封筒にしまうと徐に立ち上がり、夫に最後のカーテシーを完璧に決めると部屋を後にしました。その私の背後から侍女長の声が聞こえました。
「奥様、この八年が全て無駄だった訳ではございません。貴方は立派に娘を一人育てあげたのですから。次のお子様を育てる時には必ずそれが役に立ちますよ」
「ありがとう」
私は振り返って、彼女にニッコリと微笑んだのでした。
その後すぐに妻は実家へ戻り、元婚約者と結ばれました。しかし、色々と世間が煩くなる事は予想していたので、その後、彼が前もって準備をしてくれていた隣国の地に父親と共に移り住み、やがて子供にも恵まれて、家族仲良く暮らしました。
夫の方もまだ若いのでやり直して欲しいところですが、まずは、自分を省みて、十分に反省してからの再生を望みます。そうでないと、また別の人を不幸にしますので。
ただ、最高の女性を二人を見てきたので、新しい人を見つけるのは難しいかもしれません。もしかしたら、それが彼女の復讐なのかもしれませんが……
是非とも、相手にばかり一方的に自分の高い要求をせず、お互いを思いやり、妥協しながら幸せにはなって欲しいものです。
もしかしたら、今度はそれを娘に教わるかもしれませんね。