落とし穴
※本項には、安部公房『方舟さくら丸』のネタバレが含まれます。
フワフワさんは、安倍公房のスレッドの常連である。そのことは誰にも判らない。ずっと名無しのまま書き込んでいるからだ。他の人の書き込みもほぼ全てが名無しである。誰が誰だか、誰にも判らない。
最初のログは、『方舟さくら丸』についての会話から抜粋する。他の人には判らないことだが、このときフワフワさんは自分の問いに対して、自分で答えている。そうやって他の人のレスポンスを誘うのだ。これはフワフワさんのいつもの要領である。
◆(フワフワさん)
最後の透明な街ってどういうこと?
◆(フワフワさん)
美しい景色の描写かな
◆
洞窟の中より表のほうが居心地良いぞみたいなことだろ。
◆
意味は分からんが、
この文章を最後に持ってきたって事は
重要なメッセージだろうな。
ところでフワフワさんは無数の名無しの中に、とある特定できる人物を見出していた。まるで文章に色が着いているかのように、他の名無しと区別できるのだ。そうした「色着きの名無し」がフワフワさんと揉める。のちにモグラと呼ばれるその名無しは、突然の長文を特徴としていた。
◆(フワフワさん)
主人公はなぜ「ブタ」もしくは「モグラ」なのか
◆(モグラ)
決まってるだろ。
格好良くて頭が良くて金持ちで、仲間がたくさん居て人生を謳歌しているようなリア充が、
廃坑に住み着いてシェルターに改造して、世界の破滅に怯えながらも、
新世界にワンチャン掛けようなんて思うかね?
そんな真似をする人間は、
人に勝るような要素を何一つ持ち合わせていない……、
それこそ「ブタ」か「モグラ」のようなやつだけだ。
◆(フワフワさん)
他人を招待してたじゃない
いい友達の溜まり場になれば主人公だってリア充になれたかも
◆(モグラ)
そんなこと考えたから、追い出される羽目になったんだ。
◆(フワフワさん)
追い出されたんじゃなくって自分から出て行ったのよ
◆(モグラ)
同じことさ。
いいや、違うね。やっぱり追い出されたんだ。
滑稽じゃないか。誰も見向きもしない廃坑を改造して、
楽園とはいかないまでも結構な住処にして、
でもそこへ押しかけてきた連中に叩き出されるように、本人は退場する。
自分のためにした筈の努力は全て、他人のものになるんだ。
ヤドカリのために立派な殻を拵えてやる貝みたいなもんさ。
自分から出て行ったのなら、いっそ潔い。
もちろん自己欺瞞だよ。外の街に居場所なんか無い。
コンクリートに這い出たミミズさ。
何も出来ず、逃げ隠れするための穴さえ掘れずに、干からびるだけだ。
それでも自分で選んだだけ恰好は付くだろう。
だけどモグラは追い出されたんだ。ひとりぼっちで。
同じひとりでも、自分で選んでひとりになるのなら孤高を気取れる。
モグラは違う。女は一緒に来てくれると思ってスカートを引っ張るんだ。
そのままゴムのエプロンと一緒に闇の中を転がり落ちてゆく。
無様すぎるよ。目も当てられない。
まるで、自分で掘った落とし穴に自分で転がり落ちてるみたいだ。
そしたら落とし穴の底が抜けて、その向こうは外の街だ。
モグラにとってはいちばん嫌な場所の、外の街。
あの「透明な街」は美しい景色の描写なんかじゃない。
死の予言だ。
目の前に広がるこの大きな街のどこにも、おまえの居場所なんか無い、
っていう絶望の宣告だよ。
◆(フワフワさん)
そのコピペ、どこにあったの?
◆(モグラ)
オレが今、書いた。
◆(フワフワさん)
たったの23分で?
◆(モグラ)
時間なんか知らないよ。
でもあんたが計ったんなら、そうなんじゃないの。
◆(フワフワさん)
早すぎる
◆(モグラ)
そうかな。そうでもないよ。
◆(フワフワさん)
コピペならそうかもしれない
◆(モグラ)
違うったら。
◆(フワフワさん)
じゃあ質問を変えましょう
あなたのお名前は?
◆(モグラ)
ただのモグラさ……。
◆(フワフワさん)
茶化さないで
◆(モグラ)
茶化してないよ……本当のことさ。
◆(フワフワさん)
それも何かのコピペ?
◆(モグラ)
しつこいな。違うったら。
◆(フワフワさん)
ね、お願い
どこにあったか教えて
フワフワさんは文章の出所について、更に何度もモグラに問いかける。モグラからの返事は、無かった。
このあとフワフワさんが調べた限り、モグラの長文に元ネタは見つからなかった。つまり、モグラのオリジナルだ。
そうするとフワフワさんは今度は、このモグラと名乗る人物に興味を覚えるようになった。匿名掲示板の無数の名無しの中から、モグラらしきものを抽出することはさほど困難ではない。モグラはあまりにも突然に長文を書き込むからだ。モグラのレスは悪目立ちする。