9:空想学園 バレンタイン祭に訪れた庭園学院の執行部
せっかく生徒会の役割が一段落したにも関わらず、朱里は校門の前でビラ配りをしていた。朱里の在籍する学級が催しているココア喫茶の宣伝である。生徒会の役割から解放されて、一息つくためにココアを求めて教室に顔を出したのが失敗だった。
級友は朱里を見つけると、すぐに客引きのための宣伝に借り出した。これまで学級の企画に参加する時間がなく、朱里が学級に対して心苦しい気持ちになっていたのは事実だ。級友はそんな朱里のために、せめて当日だけでも学級の結束に馴染めるようにと配慮してくれたのだろう。
たしかに校門前で級友と一緒になって訪れた人々に声をかけるひとときは楽しい。生徒会とは違う弾けた雰囲気がある。自分を気遣ってくれる友人の気持ちも嬉しかった。
けれど。
朱里は時計を見てぎょっとする。楽しんでいる間に、瞬く間に時間が過ぎ去っていたのだ。時刻はもうすぐ三時になろうとしている。
(く、黒沢先輩と過ごせるかもしれない、貴重な時間が……)
朱里は我に返ったが、手にしたビラを放り出して単独行動に向かうのもどうだろうかと逡巡する。どうにかさりげなく立ち去れないものかと考えていると、「朱里」と明るい声に呼ばれた。
「朝子、来てくれたんだ」
朱里は見知った顔を見つけて顔を綻ばせる。校門前にやって来たのは、兄弟校である庭園学院に通う結城朝子だった。他校の生徒は放課後からの参加になってしまうので、校内はこれくらいの時刻からますます人の出入りが激しくなる。
朱里は訪れた朝子の隣に、先日の彼氏がいることに気付いた。「ようこそ」と声をかけると彼はまた屈託なく笑ってくれる。他校の生徒が訪れたに過ぎないのに、校門の前には彼らに注目する人だかりが出来つつあった。
「お兄ちゃん、主催している生徒会に挨拶しに行くんでしょ」
朝子が声をかける背後の人影を見て、朱里は咄嗟に身動きを忘れてしまう。
ぞっとするほど端正な容姿で、一人の男子生徒が立っていた。大人っぽい仕草から上級生であることは間違いない。どこか魔的で妖しいほど整った顔貌。圧倒されて言葉を失った朱里に彼が「はじめまして」と挨拶した。
「あ、はじめまして。ようこそ」
衝撃を隠しきれずに会釈する。顔を上げるとさらに新しい人影が登場した。
「はじめまして、こんにちは。あの、あたし達は庭園学院の執行部を務めている者ですが、こちらの生徒会の方にお会いすることはできますか」
朱里は一体この人たちは何なのだろうと反応が遅れる。素性を明かされているにも関わらず、即座に対応できない自分を他人ごとのように感じていた。
「あの、ただご挨拶をと思って」
朱里の沈黙を誤解したらしく、新たに登場した女生徒が遠慮がちにそう付け加えた。ためらいがちな仕草、ただそれだけなのに動きが優美で人の目を惹く。羨ましくなる位、綺麗な人だった。周りで成り行きを見守っていた級友が、絶句している朱里に声をかける。
「生徒会だったら、朱里が案内してあげれば? ちょうどいいじゃん。私達も教室でやってる喫茶の手伝いに戻るし」
「あ、うん。ありがとう」
朱里が我に返ると、級友が教室で催している喫茶からココアを調達してきてくれた。生徒会と訪問した庭園学院の執行部へ差し入れらしい。トレイの上に整列したたくさんの紙コップから、ほかほかと湯気が立ち昇っている。
朱里はそれを庭園学院の執行部に振る舞いながら、そのまま生徒会室へと案内した。
遥の処へいく絶好の機会と口実。
湯気を巻き上げる紙コップを眺めながら、朱里はようやくぼんやりとそんなことを考えた。