5:庭園学院 執行部の顧問教師は英国紳士
「待って、ちょっと待って。晶、これ以上は……」
彼の色香に呑まれてしまい、まどかはいつのまにか書庫の暗がりに押し倒されていた。床の硬さを背中で感じながら彼の胸を押し返す。さすがにこれ以上は許すことが出来ない。囚われていた理性を取り戻して、まどかは力の限り抵抗を試みる。
「はなして、誰か来たらどうするの?」
身を捩って逃れようとしても、晶にとってはか弱い抵抗にしかすぎないのだろう。まどかの細い手首を掴んで、彼はいとも簡単に力を封じる。単にまどかをからかっているのか、本気なのかが良く判らない。まどかが状況を計りかねていると、するりとブラウスの襟元が開かれる。
びくりと息を呑んでから、このままではまずいと慌てて言い募る。
「こんなところ、人に見られたら……」
「見られたら、その時に言い訳を考える。卒業前にいろんな思い出を作っておくのもいいだろう。こんなふうに校内でおまえを抱くのも悪くない」
「そんなこと――、っ」
彼の指先がつっと首筋をなぞる。そのまま露になった鎖骨に触れた。彼の意図を理解してまどかが顔色をなくす。付き合う前の彼の行いを考えれば、この成り行きは当たり前だ。校内だからと言って、いまさら彼が臆する筈がない。まどかは覚悟を決めようと努めるが、校内であるという禁忌がどうしても拭いきれない。心が追いつかないのだ。
ふっと彼の黒髪が頬に落ちかかり、首筋に吐息が触れた。はなしてと叫びたいのに、喉が竦んでしまい何も言葉にならない。かたかたと無意識のうちに掴まれた手が震え出す。
「あき――」
競りあがった恐れに占められて、呟きがかすれてしまう。目頭に熱が込み上げてジワリと視界がぼやけた。
同時に。
コンコンと開け放したままの書庫の扉を叩く音が響いた。
「晶、あなたがどこで何をしようと私は気にしませんが、女性に無理強いするのは立派な犯罪ですよ」
「――博士、また邪魔をするつもりですか」
がっくりと晶の力が緩むのを感じて、まどかがするりと半身を起こす。起き上がった反動でほろりと一筋涙が零れ落ちた。書庫の扉の前で、白衣を着た執行部顧問が微笑んでいる。目が合うと、まどかはあたふたと涙を拭って乱れた襟元を直した。
現れた執行部の顧問教師であるアルバート・スペンサー=ケントは、晶を見下ろしたまま呆れたような吐息をつく。
「ミス早川の気持ちを踏みにじろうとするあなたを、そのまま見過ごしたほうが良いわけですか」
美しい白金髪に澄明な蒼い瞳。英国出身のアルバートには紳士という形容が似合い、白衣さえも気高く感じる。常に学校の保健医らしくない優雅さが漂っていた。晶がいまいましそうに舌打ちをして身を起こす。すでに起き上がっていたまどかと目が合うと、彼はぎょっとしたように動きを止めた。
「おまえ、泣いて……」
彼がどうしてと言いたげにこちらを見つめている。まどかは居たたまれない思いがして、そっと俯いた。
「彼女を傷つけてしまえば、あなたが落ち込むのを判りきっていますからね」
追い討ちのようにアルバートが続ける。晶は大きく息を吐き出すと、まるで慰めるようにまどかの頭を撫でた。
「冗談だよ、悪かった」
それだけで、まどかは何かがどっと込み上げてくるのを感じた。止めようとしても、それは溢れ出してしまう。
「……だって、こんなところで、――」
最後まで言葉にならず、まどかはしくしくと泣いた。
「女性を泣かせてしまうとは信じられない光景ですね。あなたのやり方は童貞よりもずっとタチが悪いですよ。それで良く今まで生きてこられましたね。宜しければ私が罰を与えてあげましょうか。ちょうど新薬の実験体を探していたところです」
「タチの悪さでは博士には適わないと思っていますが。それにまだ博士の悪趣味に付き合うほど、人生を投げ捨ててはいません。遠慮しておきます」
「そうですか、それは残念です」
まどかが泣き続けている傍らで、二人の不毛な皮肉のぶつけ合いが続く。あまりにも無意味で可笑しい。心の底から悪態をつきあっているのに、二人の仲が決して険悪ではなく、むしろ信頼し合っているのだと判る。涙を拭いながら、まどかはクスクスと笑いだしてしまった。
「さて、ではミス早川も落ち着いたようですし、本題に戻らせていただきましょう。二人とも執行部室に戻ってください」
まどかが立ち上がろうとすると、晶がこちらを振り返って手を差し伸べてくれる。
「あの、晶。さっきは、ごめんなさい。その、人が来るかもしれないって思うと……」
ごにょごにょと呟くと、判っているというように頭を小突かれる。彼が再び悪戯めいた美事な笑みを浮かべた。
「心配しなくても、きっちりと学院での思い出は作らせてもらう。鍵をかければ問題ないだろ?」
まどかはかっと頬を染めたが、再び差し出された大きな手にためらうことなく掌を重ねた。