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バレンタイン狂想曲〜媚薬で彼の理性は完全に吹き飛んだのか?〜  作者: 長月京子


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16:空想学園 欲望と激情とすれ違い

 朱里あかり固唾かたずを呑んではるかが中庭に現れるのを持っていた。既に日が暮れてしまい、西の空がわずかに茜に焼けていた名残を見せている。校舎が夕闇に沈んでも、中庭は大型スクリーンが光源となって辺りを照らし出していた。多額の予算を費やした機材は、期待を裏切ることなく最後までイベントのかなめとして役割を果たしてくれる。


 朱里は緊張を隠せないまま、ぎこちなく腕時計を見た。バレンタイン祭の終了時刻が迫っている。

 心臓の音がうるさくて、朱里には周りのざわめきが遠く感じられた。緊張しすぎて落ち着かない。はぁっと大きく息を吐き出すと、校舎から出てくる見慣れた人影が視界に入った。夕闇に紛れていても間違えるはずがない。朱里はどきりと鼓動を高鳴らせて、息を呑んでしまう。


(……黒沢くろさわ先輩)


 ようやく見つけたのに、朱里の足は地面に縫い付けられたように動かなかった。鼓動だけが激しくなっていく。石のように固まったまま一点を見つめていると、朱里の不自然な仕草から遥の登場を知った奏がそっと背中を押してくれた。動かすことの出来なかった足が、魔法を解かれたように前へ出る。奏は朱里をうながすと、自然に遥へ向かって歩み寄った。朱里も小走りになりながら慌てて後をついていく。


 遥は歩み寄ってくる人影に気付いたのか、ぴたりと足を止めた。中庭と校舎を隔てる花壇の向こう側から朱里を見つけると、何かに耐えるように眼差しを伏せた。朱里は彼の拒絶を目の当たりにして、心をえぐられたように息が詰まる。この場から走って逃げ出したかったが、このままではいけないと踏みとどまった。


 こんなふうに気まずい思いのままで彼の卒業を見送るのだけは耐えられない。彼と過ごした思い出の全てを、こんなことで台無しにしてしまうのは嫌だった。


 奏が花壇を回りこむように進む。賑やかな中庭とは違い花壇にはスクリーンの光源がほのかに届くだけで、ひっそりとしていて人気がない。


「遥、終わりの挨拶は私が代わります」


 立ち止まったままの遥に、奏が自然にそう告げた。遥は意味が判らないと言いたげに首を振る。夕闇を照らす仄かな光で辛うじて表情が読み取れた。


「朱里がどうしても話しておきたいことがあるそうです」

「……それなら、後で聞く」


 低く遥が答えた。朱里はじっとしていることが出来ず、遥の前へ駆け寄った。


「黒沢先輩、私、あの……」


 勢いに任せて口を開いてみたものの、どんなふうに伝えれば良いのかわからない。どう言葉にすれば、遥を困らせることなく気持ちだけを伝えられるのか。口ごもってしまうと、背後で奏の声がした。


「では、私はバレンタイン祭のフィナーレを飾ってきます」


 そう言い置いて、奏が花壇から立ち去っていく。彼の足音が遠ざかると、中庭のかすかな喧騒だけが残った。朱里は大きく深呼吸して遥を仰ぐ。

 彼は身動きせず苦しげに目を逸らした。朱里は向き合うことをさけようとする態度に挫けそうになったが、後悔したくないと言いきかせて踏みとどまった。


 きっとどんなに言葉を尽くしても困らせることには変わりがない。それならばシンプルに気持ちを伝えて、それだけで良い、何も望んでいないのだと伝えるしかないのだ。

 朱里が覚悟を決めると、遥が遮るように口を開いた。


「朱里、話なら後で聞く。今は――駄目だ」


 搾り出すような声だった。朱里は想いを決して口にするなと言われた気がした。

 遥は気付かなかったことにしたいのだ。朱里の気持ちを知らないと。

 決して伝えることを許してくれない。気持ちを打ち明けることすらできない。


 朱里はわかりましたと言おうとしたが、言葉が詰まって何も言えない。懸命にこらえたが、涙が溢れ出て止めることが出来なかった。

 声を殺そうとしても、嗚咽が漏れてしまう。


 同時に中庭のざわめきをかき消すように、校内にバレンタイン祭終了の挨拶が響いた。マイクは校内のスピーカーに通じているらしく、どこにいても聞くことが出来る。

 奏の柔らかな声がまるで演説のように何かを語っている。朱里は嗚咽と鼓動の向こう側で、おぼろげに音声を捉えただけだった。


 涙を止めることが出来ない。

 泣いてしまうとますます遥を困らせると判っているのに、込み上げてきた感情を抑えられないのだ。遥を困らせる自分が情けなくて、悔しくて、哀しい。


 そして。

 どうしても、このまま気まずい思いでさよならをするのは嫌だった。


「だけど、どうしても、……聞いてほしい、です。このまま――」


 言葉は途中で掻き消えた。突然強い力で体ごと引き寄せられ、朱里は遥の大きな手で強引に口元を塞がれた。唇と頬に彼の掌の熱が重なる。まるで抱きしめられたように体が触れ合っていた。


「君は想いが叶ったとでも言いたいのだろう? そして応援した私にありがとうとでも言うつもりか?」


 朱里は言葉を封じられたまま、遥の叩きつけるような声を聞いた。遥が何かを誤解していることだけが伝わってくる。けれど、それが何を示しているのかが判らない。

 掌の熱さと同じくらいに、今まで見たこともない激しさを伴って彼の声が熱を帯びていた。


「残念ながら私には祝福できない。なぜ君を生徒会に巻き込んだのか知っているか。私はここに君を縛るために権利を利用した。朱里がずっと私の傍に在るように。私は生徒会という見えない檻で君を手に入れるために罠を張っていたんだ」


 朱里は愕然として遥の言葉を聞いていた。俄かには受け入れられない。何もかもが信じられない。朱里を傍に置くために、遥は生徒会を利用した。


――朱里がずっと私の傍にあるように。


 声が心に刻まれる。朱里は身動きすることができないまま、彼の告白を聞いていた。


「そんな私が、君の想いを祝福できると思うか。君を手に入れようとしていた私が……」


 何もかもが唐突で、朱里の知っている日常とはかけ離れている。

 彼が自分を想っていてくれたことも、こんなふうに激情をぶつけられることも。

 繰り広げられている光景に心が追いつかない。何の反応も示せずにいると、ふいに口元を覆っていた掌が動いた。朱里は封じられていた言葉を取り戻す。


「先輩――っ」


 混乱したまま何かを伝えようとしたが、それは再び、すぐに塞がれた。朱里には何が起きたのか判らない。遥の柔らかな前髪が頬に落ちかかっている。唇に触れた熱が深さを増した。ようやく状況を理解して朱里は固く目を閉じた。戸惑いのあまり彼を突き飛ばしてしまう。


「ご、ごめんなさい。でも、先輩、わたしは」


 うろたえたまま、それでも朱里は気持ちを伝えなければならないと必死に言葉を探す。


「わたしも、先輩のこと――」


 けれど一瞬早く遥が踵を返した。少しだけ見えた横顔が絶望したかのように暗い。「すまない」と呟いて、彼はそのまま逃亡する罪人のように中庭へ姿をくらませようとする。朱里は慌てて後を追いかけた。


「違うんです。待ってください、先輩。私は――」


 朱里は彼を追いかけて生徒達が集う明るい中庭へ出た。中庭で何事かとこちらに向けられる視線にも気づかないほど、心が遥との誤解を解くことだけで占められている。中庭の壇上で語られる奏の言葉も、生徒達のざわめきも何も届かない。

 遥の背中を見つけた途端、朱里は力の限り叫んでいた。


「待ってください、黒沢先輩っ」


 絶叫のような声に驚いたのか、遥が立ち止まってこちらを振り返った。朱里は想いを伝えること以外何も考えられず、叫んだ。


「私も黒沢先輩のことが好きですっ。ずっと先輩を困らせると思って言えなかったけれど、本当です。――大好きですっ」

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