15:空想学園 欲望に追い詰められた生徒会長
気力を搾り取られるような苦痛に喘ぎながら校内をさまよい、遥はいつのまにか校舎の屋上にたどり着いていた。重い足取りで屋上へ出ると、転落防止の為に施されている金網に背中を預けた。ガシャリと衝撃が音になる。
屋上はごうごうと風が強く、校内や地上よりも格段に冷え込んでいた。制服だけで凌ぐには厳しい寒さだが、その凍りつきそうなほどの冷気が遥の正気を繋ぎとめる助けにもなった。
彼は空の色を隠すまでには至らない薄雲に覆われた空を仰いだ。空の果てから少しずつ日が暮れつつある。時間の経過を感じ、遥は良くここまで気力が続いたと思った。
一体自分の身に何が起きているのか判らない。
どうかすると醜い欲望に呑まれそうになる自分を、ギリギリのところでこちら側に保っているのだ。気が狂いそうな衝動に眩暈を覚える。掌にじっとりと冷や汗を握っていた。
ぐるぐると朱里を手に入れたいと叫び散らす自分が在る。今にも狂気に足首を掴まれて暗闇へと引きずりこまれそうだった。
(――もし、この心が折れたらどうなる?)
朱里を傷つけて、取り返しのつかない悲劇が起きてしまう。遥はぞくりと心を震わせて唇を噛んだ。足元に迫った暗い穴から顔を背けるように、気持ちを正気へと奮い立たせる。
(朱里を傷つけるくらいなら、死んだほうがましだ)
ふと金網ごしに地上を振り返る。中庭の賑やかなざわめきが、風の泣き声にかき消されてかすかにしか聞こえない。
身を切りそうな冷たい風と朱里の不在が、辛うじて遥の理性を繋ぎとめる。目の前に朱里がいなければ、持ちこたえられる。
遥はかすかに希望を抱きながら腕時計を見た。時刻は午後五時半。
(あと、少し)
結城晶が告げた意味不明な助言は、嫌と言うほど理解させられていた。彼らが自分に何を仕掛けたのか、何が目的であるのかは判らないが、晶の助言を信じるならこの拷問は三時間で終わるはずなのだ。
朱里から離れて、ひたすら三時間が経過するまで耐える。
既に二時間以上耐えて見せたのだ。折り返し地点はとうに過ぎている。
このままなら、きっと耐えられる。
このままなら。
遥は喘ぐように深く息を吐き出して、気掛かりを払拭しようとした。
(バレンタイン祭の終幕は六時。そろそろ終わりの挨拶か。――どちらが早いだろう)
苦痛が去るのが先か、朱里に出会うのが先か。
遥は金網越しに中庭で賑わう生徒達の小さな形を眺めた。
ごうっと風が鳴る。
苦痛が去るのが先か、朱里に出会うのが先か。
もし最悪の事態を招いてしまったら。
(今、ここから飛び降りたほうが良かったと思うのかもしれない)
遥は金網を掴んで指先が白くなるほど強く握り締めた。ぎりぎりと金網の軋む音が風に重なる。
眼下に広がる小さな世界。箱庭のように見える中庭が遠い。
(――ここから、飛び降りたほうが)
苦痛から解放され、朱里を傷つけることのない未来が続いていく。深い沼に足を踏み入れて沈んでいくように、その考えは遥の疲弊した気力を捕らえる。
朱里を奪おうとする心と守ろうとする想いが、交錯して心の形を歪ませていく。
がしゃり。
遥は再び金網を掴んだ音でハッと我に返った。
(何を考えているんだ、私は。――馬鹿馬鹿しい)
遥は気力を振り絞って、暗い欲望から目を逸らすために現実的なことに考えを集中させた。
まだ生徒会長としての役割が残っている。
バレンタイン祭の終わり告げなければならない。
侵される心の中に浮かぶ、使命感という小さな舟。遥はそれにつかまって、押し寄せる濁流に耐える決意をした。
(そろそろ中庭へ行かなければ……)
屋上から中庭へと下りる為、重い一歩を踏み出す。
果たすべき役目があるという立場が、遥の行動を辛うじて凶行から遠ざけてくれる。
(――苦痛が去るのが先か、朱里に出会うのが先か)
遥にはすでに胸の内を確かめることもままならない。自分の気持ちを振り返ってはいけない。毒薬に侵された自身の望みと向き合えば、間違いなく自分を見失ってしまうだろう。取り替えしのつかない境地へ至ってしまう。
背後に音もなく迫っている醜い闇。
自分を引き込もうとする欲望の渦が、うっとりと激しさを増して、全てを呑みこもうとしている。
全て。
慈しむ想いも、守ろうとする気持ちも。
決して失ってはいけない正義も、全てが一つの想いに繋がっているために。
ひとつの想い。
胸を焦がす愛しさ。
誰よりも愛しい彼女。
この想いが在る限り欲望が尽きることはない。闇は暗い炎となり、いつまでも遥の心を焦がし続ける。




