1:空想学園 きまじめな生徒会長とかわいい後輩
天宮朱里は電卓を叩いていた手を止めて頬杖をつく。がっくりと頭を垂れて、はぁっと大きな溜息をついた。放課後の校庭からは賑やかな喧騒が聞こえてくる。朱里の在籍する私立空想学園は、毎年この時期が一年を通して一、二を争うほど慌しくなる。
二月十四日。
暦にもバレンタインデーと謳われている日。
朱里のいる生徒会室のカレンダーにも目立つように印がしてあった。
学園の慣例であり、恒例のバレンタイン祭が開催される日。生徒達は絶対に学園祭や体育祭よりも、このイベントに情熱を注いでいるに違いない。全校生徒が異様な活気を以って、その来たる日の為に催しを計画したり学園を飾り立てたりするのだ。
今も校庭はイベントを彩るためのオブジェや、巨大なパネルの運搬、飾り付けで活気づいているのだろう。生徒会室まで楽しげなざわめきが聞こえてくるのだから間違いない。
朱里は頬杖をやめて、うんざりしながらも再び机の上の電卓を叩く。
行事に関わる業者との交渉や、費用の管理、予算の振り分けなど、空想学園では生徒会が全ての運営を担うことになっていた。朱里は入学してまもなく生徒会の一員となり、以来会計を任されている。
バレンタイン祭の企画準備が始まってからは、ずっと生徒会室で電卓を叩いて、予算や費用の帳尻を合わせる日々が続いていた。いい加減数字とにらめっこすることに飽きていたが、だからといって役割を放棄することも出来ない。
朱里が気を取り直して帳簿と電卓の相手をしていると、何の前触れもなく生徒会室の扉が開いた。朱里は入ってきた人影を見て、驚いたように声をかけた。
「どうしたんですか、黒沢先輩」
現れたのは、生徒会長を勤める黒沢遥だった。彼こそが朱里を生徒会に巻き込んだ張本人である。空想学園の生徒会は例外なく指名制で決定され、指名権は生徒会長と生徒会顧問の教師にしか与えられていない。朱里は今でもどうして遥が自分を指名したのかが判らない。何の取り柄もない平凡な新入生でしかなかったのだ。
「えっと、会長と副会長はモニターの設置に立ち会っていた筈ですよね」
朱里は生徒会の面子に振り分けられた役割を思い出しながら問いかける。会長である遥には、分刻みのスケジュールが組まれている場合もあった。
「何か問題でもあったんですか」
これまでの行いから、遥の責任感の強さは折り紙付きである。彼が自身の役割を放棄することは考えられない。朱里が剣呑な顔をすると、遥は「そうじゃない」と笑う。
「やはり中庭の通路が殺風景すぎて気になるんだ。今からでも手配が間に合うなら何とかしてみたい」
「何とかって言っても。中庭は映画鑑賞を可能にする大型モニターの導入で予算がぎりぎりです。業者との交渉も費用が折り合わなくて諦めた筈だし」
「そう。だから業者は通さない。自分達の手で何とかする。そもそもイベントは生徒達の手で作り上げていくものだから、手作りのほうが盛り上がるだろう。園芸部が育てている花を提供してくれるそうだ」
朱里は唖然として遥を見上げた。これ以上彼の負担が増えれば、イベント当日には過労で倒れてしまうのではないだろうか。
「モニターの設置は奏が進行してくれるらしい。その間に私は中庭の樹を飾る電飾を手配することになった。付近の店舗を回れば、よくクリスマスに使用される家庭用の安価なものが手に入る筈だ」
朱里はその瞬間、クリスマス時期に行われた学園イベントを走馬灯のように思い出してしまった。当時の忙殺された日々を思い出してどっと疲れてしまう。空想学園のイベント好きには呆れてしまうほどだ。校長はよほどお祭り好きなのだろうか。それに嬉々として付き合う生徒達もどうかしていると思うが、遥の前でそんな不満をさらけ出すことはできない。彼は生徒達の歓びとなる企画に労力を惜しまない人なのだ。
朱里は蘇った悪夢のような日々から気持ちを取り戻して遥を見た。
「先輩、イベントの為にそんなに駆けずり回って、いつか倒れたりしないで下さいね」
そもそも高等部の三年に在籍している人間が、こんなふうに卒業を一ヶ月後に控えた時期に生徒会を努めているだろうか。生徒会長の遥と副会長を努めている白川奏が、教師が一目置くほどの秀才であることは知っている。結果として二人が早い段階で受験を終えるのは当然の成り行きだ。生徒会顧問の教師もそういう事情を踏まえて二人を任命したのかもしれない。それでも卒業する間際まで生徒会から開放されないのは可哀想な気がした。
朱里が複雑な思いに駆られていると、遥は屈託のない微笑みを浮かべる。
「私は楽しんでいるから大丈夫」
迷いのないよく通る声だった。彼は朱里と目が合うと、ゆっくりと微笑みを苦笑に変えた。
「ただ、朱里には申し訳ないが、今から電飾の買出しに付き合ってくれないか」
「え?」
朱里は思いがけない依頼に思わず顔を輝かせてしまう。ここのところ遥と顔を合わせる機会が少ないことに対しても、実は密かにふて腐れていたのだ。ただでさえ遥はもうすぐ卒業なのだ。こんなふうに傍にいられなくなる日も近い。高等部で共に過ごせる時間は限られている。彼を見ていられる瞬間が、今の朱里にとっては何よりも貴重だった。
けれど、空想学園は男女交際が禁じられているので、想いは胸の中に秘めておかなければならない。もちろん学園内ではばれないようにうまく付き合っている生徒達もいるが、朱里の場合は絶望的だった。責任感が強く生真面目な遥が、学園の風紀を破ることなど絶対にありえない。遥に告白する女生徒は少なくないが、彼の校則を遵守する態度が覆った例はなかった。きっと生徒会長である限り、自身が模範的な存在でなければならないという使命感があるのだろう。彼を困らせるだけだと判っていて告白することなど、朱里に出来る筈がない。生徒会の一員として傍にいられるだけでも自分は恵まれているのだ。そんなふうに思っていた。
「あの、私で良かったら黒沢先輩のお供をさせて頂きます」
朱里が答えると、遥は申し訳なさそうに視線を伏せた。
「すまない、朱里。私が生徒会に指名してから、君には多くの負担をかけている」
「そんな、先輩の力になれるなら、私は嬉しいです」
思わず本音を訴えてしまい、朱里は頬を染めた。遥は朱里の台詞を単なる気遣いだと受け止めたようで、動じることもなく頷く。
「ありがとう」
心地の良い呟きが聞こえた。それだけで胸の内に温かなものが宿る。絶対にバレンタイン祭を成功させようという意気込みが強くなるのを、朱里は感じていた。