人妻に溺れる
コートの下に隠れていたのは、ひざ下まである紺色のワンピースだった。
身体にフィットするようなタイトなニット素材は、さくらさんのスタイルの良さをより一層、際立たせていた。
「綺麗だ」
思ったままの言葉が口から零れた。同時に、さくらさんを引き寄せて抱き締めた。湿り気を帯びた熱っぽい吐息が首にかかり、僕の情欲を刺激する。Ⅴ字に開かれたニットの首元から覗く鎖骨に、思わず生唾を飲み込んだ。
「あっ、くすぐったい、んっ」
欲望に負けて首筋へと唇を付けた僕を誘うように、上へと向いた形の良いさくらさん顎。剥き出しになった色白の喉へと唇を這わせる。このまま吸い付いて、僕の痕跡を残したい。吸いかけて我に返った。強い欲求をどうにか抑え込み、ゆっくりと顔を上げる。
至近距離から見つめ合う僕達は、どちらからともなくおでこを合わせた。目の前には潤んだ瞳のさくらさん。少しでも気を抜けば、魂さえも吸い込まれてしまいそうな程に、魅惑的だ。
少しずつ近づいていく互いの唇。その途中でわざと鼻を当てて、僕達は小さく笑い合った。
抱きしめ合い、キスをする。
ただそれだけの事を、勿体付けて焦らし合う。その過程が楽しくて、幸せで、さくらさんに対する愛しさが積もり積もっていく。それと同時に感じるのは、どうしようもない程の罪悪感。
抱き締め合った身体から、重ね合った唇から、僕の心にあるそれが、さくらさんに伝わってしまうような気がして怖かった。これを知られてしまった瞬間に僕達の関係は終わりを迎えるだろう。そうなってしまったら僕は……。
始まる前から終わりが決まっている僕達の関係。出来る事なら、少しでも長く……。
僕達の出会いは仕組まれたモノだった。
他でもない僕の手によって。
きっかけは三か月前に遡る。僕が経営する探偵事務所に、とある依頼が舞い込んできたのだ。
「妻を寝取って欲しい」
そう言って頭を下げたのは、有名企業の御曹司だった。
「確かに何でも屋みたいなもんだけど、そういう使い方は勘弁してください」
明らかに嫌そうな顔で言ってやったら、相手は慌てたように首を振った。
「違うんだ。妻の不倫をでっちあげて、離婚の理由にしたいんだ」
随分と酷い依頼だと感じつつも、話だけは聞く事にした。それがそもそもの間違いだったのかもしれない。
彼らの結婚は互いの両親によって決められたモノだった。両者共に有名企業の経営者を親に持っており、企業間の結びつきを強める為に結婚を強要されたという事だ。
「今時そんな話……」
「信じられないかもしれないが、本当なんだ」
彼は脱力したように項垂れていた。
どうやら彼には学生時代から付き合っていた彼女がいたらしい。しかし先程の理由により、彼女と別れる事を強いられたのだと言う。
「駆け落ちでもすれば良かったじゃないですか?」
「そのつもりだったんだ。でも……」
――従わなければ、潰す。
それは明確な脅しだったそうだ。実際、彼の親にはそれだけの力があった。ターゲットとなったのは彼女の家族だった。
「それは……」
「最低だろ? まぁ、そういう訳で従う以外に方法がなかったんだ。だがまぁ、それも後少しの辛抱だ」
疲れを振り払うように、彼は胸を張って笑顔を作った。
どうやら彼らの結婚はそれなりの成果を生み、状況も安定したらしい。その間に様々な手を尽くし、周りも固めた。今ならば安全に離婚でき、元鞘に戻る事ができるのだと言う。
「事情は分かりました。でも奥さんも被害者な訳ですよね? どうして追い詰める様な方法をとるんですか?」
確かに彼らは気の毒だ。だからと言って、こんな依頼を持って来る理由が分からなかった。じっと見つめていると、彼は諦めたように溜息を吐き出した。
「どうせすぐにバレる事か」
彼はそう言うと、スーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。
写真に写っていたのは高校生くらいの可愛らしい女の子だった。
「この写真がなにか?」
「やっぱり覚えていないか……。実は、妻が高校生の頃に藤堂さんに会った事があるらしいんだ」
「私にですか?」
再度写真へと視線を戻すが、どうにも思い出せない。
「予想はしていたが、なかなか上手くはいかないもんだな。実は、当時妻が飼っていた猫が逃げ出した際、藤堂さんに依頼して探し出して貰ったらしいんだが、どうやらその時に随分と優しくされた思い出があるらしい」
「どういう事ですか?」
「夫の私が言うのも変な話だが、それが妻の初恋だったらしい。だからここに依頼を持って来たんだ。このまま離婚すれば、独り身に戻った妻はきっとまた親に利用されるだろう。そうなる前に、例え仮初だとしても、一度で良いから恋愛を経験させてあげたいんだ」
「最初に、奥さんの不倫をでっちあげて離婚の理由にしたいと言っていませんでしたか?」
「あれは嘘だ。そう言った方が気楽に依頼を受けて貰えると思ったんだが……。どうやら私の思い違いだったようだ。思った以上に藤堂さんは人が良いようだったから、作戦を変えて本音を語らせて貰ったんだ。申し訳ない」
そう言って彼は頭を下げた。
その姿に嘘は感じられなかった。長年こういった仕事をしていると、感覚で嘘を見抜けるようになってくる。受ける依頼を選ぶ上で、僕はその感覚を非常に大切にしていた。そしてその勘が、依頼を受けろと言っているような気がしたのだ。
今思えば、それはある意味で正しく、ある意味で間違っていた。
僕はあろうことか、ターゲットであるさくらさん相手に、本気で恋をしてしまったのだ。
今の状況は、さくらさんを奪い取るには最高の状況で、でもプロとしては最低の状況だと言わざるを得なかった。
もし。
もし、この状況が依頼されての行動だと、さくらさんにバレてしまった時、一体どうなってしまうのだろうか。
想像して、血の気が引いた。
重なる唇、絡める舌、獣のように貪り合う僕達は、時間を忘れてキスをし続ける。複雑な事情も、常識や罪悪感さえもいつの間にか溶けて消えていく。ただ目の前の快楽に身を任せ、溢れ出る幸福感に浸っていた。
立ったまま抱き合っていたはずが、いつの間にかベッドの上にいた。少しでもお互いを近くに感じていたくて、キスだけじゃ足りない僕達は、強く抱きしめ、身体を押し付け合い、脚を絡める。どれだけ密着していても、まだ足りない。もっともっとと互いに求め合う。口内で蠢くそれが、もはやどちらの舌なのかすら定かではなかった。だと言うのに、さくらさんの動きが、吐息が、喘ぎ声が、その全てがはっきりと僕には分かるような気がしていた。麻痺しているのか、それとも研ぎ澄まされているのか。
分かっているのは一つだけ、今僕は、さくらさんに溺れている。
服の上からブラジャーのホックを外しながら、鎖骨へと舌を這わせる。同時にさくらさんの脚の間へと僕の膝が入り込み、ワンピースの裾を徐々に上へとたくし上げていく。耳元で聞こえる甘い吐息に気分が高揚する。顔を上げ、再び唇を重ね合い、舌を絡ませる。遅々として進まない僕らの行為。それは今日のこれが最後になるかもしれないと、互いに気付いているからかもしれない。
依頼人である彼に告げられた期限が迫っていたのだ。
一週間後に彼は、さくらさんと離婚する。その為の準備は、ほとんど終わっていた。僅かに残されたこの期間は彼の善意によるものか、それとも別の理由からなのかは分からない。しかし僕にとっては、さくらさんとの今後を考える上で、とても大切な時間となっている事は間違えようない事実だった。
生まれたままの姿となった、さくらさん。
僕は後ろから抱きしめるようにして、その背中へと舌を這わせる。唾液に濡れた僕の舌がさくらさんの背骨に沿って腰へと向かって進んで行く。時折ビクリと痙攣したように、弓なりに反る美しい背中。その度に僕の舌は蛇行して、寄り道とばかりに強く吸い付き、白い背中に赤い痕を残していく。まるで自分のモノだと主張するかのように。
腰まで辿り着いた僕は、横へと進み今度は脇腹を通って上へと上がっていく。くすぐったさは鳴りを潜め、今は快楽がさくらさんを支配しているようだった。その証拠にその口から零れる声は、あまりにも艶っぽい。
僕はさくらさんの事を、必死になって記憶に焼き付けようとしていた。
優し気な目に、小さな鼻、ふっくらとした唇に、形の良いシャープな顎。笑った時に出来る特徴的な目尻の皺、片側にだけ出来るえくぼに、口から覗く可愛らしい八重歯。ほとんどを室内で過ごすせいか、肌は白くて美しい。かと言って不健康な訳ではなく、ほど良く引き締められた身体のラインは、多くの男を一瞬で虜にするだけの魅力を備えている。身体だけじゃない。少しだけ高めの声は、僕の耳に優しく響き、心を落ち着かせてくれる。さくらさんの穏やかで優しい性格を表しているようだった。
こうして挙げ出せばキリがない。さくらさんを構成するその全てを、僕は愛してしまっていた。何一つ忘れたくはなかった。
一時だけの仮初の恋愛のつもりだった。にも拘らず、僕は魅力的なさくらさんを前に、簡単に溺れてしまったのだ。
近づけば近づくだけ、その魅力を知ってしまった。
知れば知る程、好きになってしまった。
好きになればなる程、罪悪感が募っていく。
どれだけ、自分を律したのか分からない。それでも気持ちを抑える事は出来なかった。気付けば好きというだけでは生温い、愛していると断言できるほどに、気持ちは大きくなってしまっていた。
これまで様々な恋愛を経験してきたつもりだった。本気で人を好きになった事だってあったはずだった。
なのに……。
こんな気持ちは初めてだった。
自分で自分の感情がコントロール出来ないのだ。どれだけブレーキをかけようとしても、まるで壊れているかのように一切止まる気配はなかった。これ以上アクセルを踏まないように気を付けていたはずなのに、気持ちは加速するばかり。
大きくなり過ぎてしまったこの気持ちを、僕はどうしていいか分からなくて、ただただ目の前の愛しい人に向ける事しか出来なかった。さくらさんは、そんな僕の想いを優しく受け入れてくれた。
「お願い、んっ、キス、して」
息も絶え絶えに懇願するさくらさん。僕が頷いて唇を重ねれば、すぐに向こうから舌が侵入してきた。これまで何度もしたはずなのに、その時のキスは今までで一番甘くて、幸せで、それでいて、どうしようもない程に切なく感じた。
身体全体で感じるさくらさんの温もりが愛しくて、僕は抱き締める力を更に強くする。それに合わせて、僕の背中に回されたさくらさんの手に力が入るのが分かった。背中に爪痕が出来ているかもしれない。その事が、何だか嬉しかった。
そうやって僕らは一晩中愛し合っていた。それでも、どれだけ身体を重ねても足りなかったし、どれだけ愛を囁き合っても満たされなかった。張り裂けそうな胸の痛みと、焦燥感ばかりが増していくだけだった。
カーテン越しに差し込む柔らかな朝日が顔に当たる。眩しくて切なくて温かくて、それでいて怖かった。さくらさんも同じ気持ちだったのだろうか。日の光から逃げるように、僕の胸へと顔を埋めていた。
「ねぇ」
「嫌! 聞きたくない!」
子供のように駄々を捏ねるさくらさんの頭をそっと撫でる。僕の態度から何かを感じ取ったのだろう。別れの言葉を恐れているのかもしれない。
でも、僕が伝えようとしているのは違う事だった。それは、僕が隠していた真実。知られるのが怖くて、ずっと言い出せなかったその事を、僕の口から正直に伝える事に決めたのだ。
「ちゃんと聞いて」
嫌だ、嫌だと言うように、無言で首を振るその姿に申し訳なさを感じつつも、僕は言葉を続けた。全てをさくらさんに伝える為に。
「本当は知ってたの」
真実を話し終えた時、さくらさんはそう言って僕の方を見た。
「いつから?」
「ごめんなさい。初めから全部知っていたの。ううん、違う。今回の事を計画したのは私なの」
「えっ!? それって、どういう……」
予想外の事実に思考が停止した。
「藤堂さんは私の初恋だった。始めはただの憧れだったのかもしれない。でも、ムリやり結婚させられて、夫も私の事を何とも思っていなくて、本当に辛かったし、寂しかった。だから現実から逃げるように、あの時の初恋の気持ちに縋って生きて来たの。私にとっての支えだった。だから夫から離婚の話が出た時に、藤堂さんに会いたいって思ったの。それで……。重くて気持ち悪いよね……」
何かを堪えるように、さくらさんは下唇を噛み締めていた。
ゆっくりと回り出した頭で、現状を必死に理解しようとしている自分がいた。目の前にいるさくらさんを見つめながら、僕は素直な言葉を口に出した。
*****
綺麗に晴れ上がった青空の下、僕は高速を車で走っていた。後部座席を見れば、ぎっしりと詰め込まれた荷物がある。
もう、あの街に戻る事はないだろう。
あの後、さくらと共に依頼主である彼の下へと訪れ、全てを告げた。
「なんだ、結局全部話しちゃったのか」
やれやれと首を振りつつも、その顔はどこか嬉し気だったように思う。結局僕は、二人の掌の上で、踊らされていたのかもしれない。
「これで良かったんですか?」
僕の問いかけに彼は満足そうに頷いた。
「もちろんだよ。私もさくらも好きな相手と一緒になれるんだから」
「それはそうですけど、ご両親や会社は本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないだろうね」
「は?」
「でも安心してくれ。今度はあいつらに手を出させない。それだけの備えはしてあるつもりだ。まぁ藤堂さんには念の為に、この街から離れて貰う事になっちゃうけどね」
そう言って彼は快活に笑った。
「笑い事じゃないんですけど……」
「いや、すまんすまん。今回の事はあいつらへの復讐の意味もあったんだ。結婚によって向上した企業イメージを、ダブル不倫という形で地に落とし、同時に結婚についての真実を世に公表してやるつもりなんだ」
「そんな事したら……」
「大問題になるさ。でもさくらや藤堂さんの顔や所在は、絶対に公にしないと約束する。マスコミの方にもしっかりと餌を撒いてあるし、裏からも手を回している。私を敵に回すような愚かな真似が出来るはずがない」
「そうですか……」
スケールの大きさに、却って冷静になってしまう。
「そうそう、今回の報酬は期待しておいてくれたまえ」
本当に嬉しそうに笑うその姿を見て、色々と考える事がバカらしくなったのだった。
これまでの出来事を振り返っていると、聞き慣れた可愛らしい声によって現実に引き戻された。
「本当に良かったの?」
「何が?」
「故郷を捨てる事になって……」
「構わないよ」
「本当に?」
ちらりと助手席へと視線を向ければ、不安そうな表情のさくらがこちらを見ていた。
故郷と言っても、正直言ってそこまで思い入れは強くはない。早くに両親を亡くしたせいで、親戚の家を転々としながら育ってきた僕には、本当の意味で故郷と呼べる場所はない。
まぁ、だからと言って何も思わないわけでもない。なんだかんだで長い年月を過ごして来た場所である事には違いないのだから。それなりに思い出だってあるし、友達もいる。
でもそれ以上に僕には大切なモノが出来てしまった。
「本当だよ。でも……」
「でも、なに?」
フロントガラス越しに見上げた空には、雲一つ見当たらない。どこまでも続く青い空の下、僕はアクセルを踏み込んだ。
「さくらとの思い出の場所に行けないのが残念だなって思っただけ」
「あっ、うん。それは私も……」
「だから、これから二人で、たくさん思い出を作っていこう」
この気持ちを抑える必要は、もうどこにもない。