「悪手、ただし妙手」
*
盛大なくしゃみ。こんなものが出るとは風邪だろうか。ハンカチを取り出して飛び出た鼻水を乱暴に拭うと、既に秋を通り越して冬の気配すら漂う外気に身震いする。背広以外に何かを羽織ってくるべきだったかもしれない。しかしいまさらどうこう言っても仕方がないと腹を括って、徹夜明けでぼんやりする頭を掻く。
ここ数日、六道清二が覚えている限りの被害者のリストを作成し、そこから夜通しで裏を取る作業をしていた。結果、あのくたびれた警部補の捜査は堅実で文句のつけようがないほどしっかりしたものだったことがわかった。十件ほどまわり、全ての家庭における事故に見舞われた機械人形の所有者が年収が二千万を超え、なおかつ重要な役職に就く人間であることを確認した。さらに当人たちに問うたところ、少なからず恨まれているであろう人間に心当たりがあるという返答が返ってきた。その人間が所属しているのは被害者と競合関係にある団体、企業であった。
堤祐介も例外ではなかった。西新宿市民消費者組合が杤原惣介に依頼してある金融業者の不正取引暴露の情報を集めたことにより、競合相手の失脚を狙ったとどこかで知った輩がいるのではと思い、思い切って尋ねてみたのだ。無論、堤香苗など他の人間には話さなかった。あくまで内密に彼以外の人間への事実の波及を避けるためである。これに対して堤祐介は意外にも度量の大きなところを見せた。彼の部下や上司に連絡を取り、どうやら失脚した企業の人間が不穏な動きをしているという噂の存在を杤原に報せたのだ。その際に、彼はこんなことを口走っていた。
「杤原さん、私はあなたを見誤っていたようだ。リリィのことは憤りを感じますが、あれはあなたの責任ではないことも、私も香苗も今では理解しています。あの場では感情に流されてあなたを謂れの無い誹謗中傷に晒しました。御無礼をお許しいただきたい」
最後に、リリィの件を詳らかに調べ上げてはくれまいかと頼み、杤原惣介は快諾した。今さら同じようなことをいくつも抱え込んでも変わらないだろうと思ったし、汚名返上はできる時にしておくべきだと思ったからだ。
それにしても、堤祐介の一件は驚いた。彼があそこまで潔い謝罪をするなど、杤原惣介にとって想像の外にあった。世の中わからぬこともあるものだ。驚きながら、自販機で買い付けた栄養ドリンクを一気に飲み干す。若い頃ならまだしも、この歳で何夜もぶっ続けで仕事をするのは堪える。出来る限り休息を取りながら済ませたいところだが、生憎とこちらには時間が無い。前島冴子が携帯端末にかけてきた電話を受けてから既に一日以上が経過しているので、秋津清隆が事務所に復帰するのはだいたい一日と半分後。それまでにこの件についてはある程度のカタを付けておきたかった。
新宿駅東口にほど近い、高架を潜った先にある雑居ビル群の只中を歩いていく。線路を挟んだ西と東で、新宿は大きくその様相を変える。西新宿は拡大企業のビルが立ち並ぶ区画整理された経済区。東側は多くの居酒屋や飲食店などが立ち並ぶ歌舞伎町に代表される一大繁華街。ふたつの新宿の中間的な場所に位置している事務所までぶらりと歩いていく。
既に暦の上では十月に入ろうとしている。疲れた顔のスーツを着た男女が行き交う中、ひとり悠然とした足取りで古くも新しくも無いありきたりなビルへと足を踏み入れる。そのまま階段を上って四階まで上がると、目の前に現れた緑色のドアを引いた。
「あら、お帰りなさい。今日は帰ってこないかと思っていたけれど」
そんな声が彼を迎える。思わず苦笑いしながら疲れた顔を擦り、午後少し前の事務所で暇そうに椅子を傾けて遊んでいる前島冴子を無視し、自分のデスクへ向かった。今日は火曜日。彼女も通常出勤である。
「仕事熱心だな。一昨日は私を待っていて疲れていたろうに、今日も朝から出勤か。来てもすることは無いぞ。事務所は臨時休業状態なんだし、秋津君もまだ来ない。君が無理をすることも無いから遅出でいいと伝えたはずだが」
前島冴子は何か言いかけたが、薄くグロスを塗った唇をすぼめて黙り込む。始まるかと思われた舌戦に肩透かしを食らい、杤原惣介は物足りない気分でどっかりとデスクチェアに腰を下ろした。体の節々から疲労が滲み出てくる。油断すればそのまま眠り込んでしまいそうだ。
「今日は静かだな、冴子らしくない。何かあったのか?」
「別になんでもないわ。コーヒーでも飲む?」
「いただこう」
立ち上がって給湯室へと消えていくと、ほどなくしてマグカップを二つ運んできた。ありがたく頂戴して口を付けると、徹夜明けには嬉しい強烈な苦みとコクが口の中に広がり、食道を燃やして胃に落ち込んでいく。それがいつもの味とは違う事に気が付くまで、杤原の寝ぼけた頭では一分ほどかかった。目を瞬きながら澄ました顔でソファに座って茶を啜っている前島冴子は、彼の視線には気づかないふりをしている。
これはどういうことだろうか。味の良いコーヒーもこの状況で出されては毒でも入っているのかと疑いたくもなる。彼女らしい気遣いだとは思うが、いったい何を拗ねているのか。仕事のことで脳味噌のスタックは埋まっているが、とにもかくにもコンソールの電源を入れながら声をかけてみる。
「冴子、本当に何もないのか? 怒っているように見えるが」
「私が怒っているですって?」
蛇のように冷たい目に、思わず背筋に寒気が走る。これは何か、地雷を踏んでしまったのだろうか。そんなことを考えているうちに前島冴子は立ち上がり、つかつかとパンプスの音を響かせながら勢いよく杤原のデスクに両手をつく。そのまま前に体を倒してコンソールの上から顔を覗き込んでくるものだから、思わず椅子を引いて後ずさってしまう。
前島冴子の顔は今までに見たことも無いほどひきつっている。激しい怒りを覚えているようだが、その理由にどうしても思い当たらない。しかし彼女が怒っているということは誰かが何かをしでかしたわけで、まさか秋津清隆や涼子に怒りを覚えているはずでもないかぎり消去法で杤原惣介にお鉢が回ってきたことになる。そこまでわかってはいても、自分の何を彼女が気に入らないのかがてんでわからない。
複雑な顔で佇んでいる事務所長に、会計士は怒りの矛先を向けた。
「もちろん、怒っていますとも。秋津清隆は家で涼子の面倒を見て、あなたはそんな二人に負い目を感じて事務所から出ていく。私はここで残って仕事ってわけよ。そんな私の気持ちがわかる? 何にもできず、ここでこうして座ってコーヒーを淹れるしか能が無いのよ、私には」
「それは……私に怒っているのか。それとも、君自身に怒っているのか」
「私が私に怒っているのよ!」
思わず謝りそうになる杤原惣介だった。そこではたと我に返ったのか、前島冴子は乱れたショートカットを手櫛で整えてから姿勢を正す。そのままバツが悪そうに自分の座席へ戻り、あとはコンソールへ向かって一心不乱にキーボードをたたき続けた。
どうやら怒りは自分に対してではないらしい。心の底から安心しながら、ふと、杤原は思った疑問を口に出していた。
「冴子。君、結婚はしないのか」
ぴたりと、彼女の動きが止まる。時間そのものが宇宙空間から消え失せたのではと思われるほど静かな何秒かが過ぎ、やがて何も聞こえていなかったかのように彼女は再び指を動かし始めた。それに構わず、杤原惣介は同じようにコンソールをいじりながら語を継いだ。別に徹夜明けで頭が鈍っているわけではない。
「私が言っても迷惑なだけだろうが、君は器量もいいし美人だし、何より優秀だ。付き合う男はよほど幸せだと思ったんだがな」
「それで?」
反応らしき反応が返ってくる事に満足して、杤原惣介はブラウザの検索欄に現在の日本の政治家一覧を検索する。サーバーからのレスポンスは意外に早く、そこから厚生労働省、反機械主義と入力して絞り込んでいく。
「それだけの話だ。いや、どうも話題選びを間違えたな。こういう疲れた時は君と話すのが一番なんだが、どうも調子が悪すぎる。気にしないでくれ」
むりやり会話を切り上げたその時、コンソールの画面上に一人の政治家がプロフィールやホームページアドレスと共に表示された。そこから受話器を手に取った時、前島冴子が立ち上がる。
その時、不覚にも杤原惣介は自分の心臓が打つ鼓動が早まったのを感じていた。
前島冴子は物悲しい表情を浮かべ、長く細い黒のパンツに包まれた脚で杤原の背中越しにある一面のガラス壁まで歩み寄ると、シャツの襟を正しながら外の景色を眺めていた。その、夏とはまた別の強さを持つ冬の陽射しを浴びた素肌は健康的な肌色で、年相応の美貌を備えた彼女の鋭利で整った顔立ちとほっそりとした体つき、漂ってくる香水の香りまでを全身で感じながら、杤原惣介はその光景にしばし見とれていた。
「涼子ちゃんは」
突然、彼女は口を開いた。薄い唇が、艶めかしく言葉を繋ぐ。
「どうなるのかしらね。無事にこの一件が終わると思う? またこの事務所に来てくれるかしら」
「どうだかな。秋津君が自分本位で五日という期間を考えたとは思えない。彼のことだ、涼子ちゃんの意見を尊重しただろう。彼女本人の判断がどうであるかは、機械人形の三命題のうち、第三条に触れる重要事項だ。何しろ自らの崩壊へとつながる一大事だからな」
それが結果として彼を傷つける事になると気付いていない彼女でもあるまい。そこに当たり前のようにあった日常が既に消え失せ、自分という人格や本心すらも不安定な状態となっている機械人形と、何の変哲もないがどこかに特別性を抱いた人間の関係は、危うい。彼は彼女を癒すためにはなりふり構わないだろうが、果たしてその先に存在するのはどんな結末か、杤原惣介には想像もつかなかった。そもそも機械人形については専門外であるし、機械であれ人間であれ、人の恋路に口を出せば馬に蹴られても文句はいえまい。涼子は確かに電子部品と情報工学、さらには人類の生み出したあらゆる学問を下地とする非生命であることには変わりなく、それは誰がどの角度から見た所で同じだが、だからといって他の機械と混同していいものではない。きっと、それは人間の破滅を招く。
六道清二が言っていた通りだ、機械人形は発端を別とすれば、既に別の何かへと変貌しつつある。彼らとの付き合い方をお互いに模索する時期なのだと。そこで、杤原は目を見張る事実に思い当たった。機械人形以前に、人間は、自分は相手を尊重しながら互いの関係を築けているのだろうか。
突然、自分が漂流している事に気が付いた船乗りの気分で、杤原惣介は苦いコーヒーを口に運ぶ。それはきっと孤独な考えから生まれるものではないのだ。互いが互いを理解しようとし、自分の体や相手の心、それらの境界を超越した先にある境地。そんな状態を指し示す最適な言葉を知ってはいるが、どうにも青臭いものだから思わず口をへの字に曲げてしまう。こんなことを人前で言葉にする日が来たとしたら自分も終わりだろう。屈辱とも恥辱とも取れぬ未熟さが心を踏みしだくに違いない。
椅子をくるりと回して、彼は前島冴子と共に物言わぬまま窓の外の景色を眺める。天高くそびえる建造物とその足下に群がる中層建築は、一見すれば現代の神殿に思えなくもない。上に登りつめるほどに足場は狭く、心許なくなる。その頂点を極めた人間を見上げながら、探偵という職業に就く自分を蔑んでいるはずの成功者達に対して自分でも不思議に思えるほど後ろ暗い感情を持っていない自分がいる。
「いい景色だなぁ。今日まで探偵をやってきてよかった」
突然の独白に、前島冴子は驚いて彼を振り返った。
「なによ急に。酒を飲むたびに愚痴をこぼす人がどうしたの? 今も閑古鳥が鳴いている経営状態なのに、何に満足したのか教えてほしいものだわ」
「君と秋津君だよ。うん、涼子ちゃんも入るに違いない。俺が道を逸れて探偵の世界に入った時、両親からは絶縁状を叩きつけられてな。世にあまねく広がっている職業という選択肢の中で、他人の家を覗き見るような仕事にだけは就くなと言われて育ったのだから当然の反応だろう。学校での勉強は努力すれば必ず結果がついてくるし、就職でも困ることなんて無かった。選択肢は本当にたくさんあったんだよ、冴子。私も進路を考えた時に、警察官という職業を仮にでも選んでいたのは、一重に理想が高いものがいいと思ったからだ」
「あなたが警察官になりたがってたなんて初耳ね。まあ向いてたと思うけど。そんなに夢見て探偵になったなんておかしな人ね」
「自分でもそう思わないでもない。だが、自分がいちばん満足できる選択が探偵だったんだから、有無を言わせないというやつだ」
「でも、そんなのは夢物語でしょ。今の大人は誰だって現実と向き合って生きている。最初の一歩が、自分の夢が現実に比していかに貧弱かを思い知るところじゃない」
「確かに君の言う通り、夢や理想といったものは現実には敵わない。どんなに大きな夢でも、現実問題としてそれだけでは食っていけないんだ。でも、警察官ならそれでも理想を掲げ続ける事ができると思っていた。実に青臭い発想だろう? 思わず失笑してしまいそうなほど幼稚で短絡的な動機だが、いざ警察官という職業の内情を探った時はやはり絶望したね。とにかく癒着と理不尽。時には正義という純粋な動機はその意味を歪曲されて暴力へと変貌する」
「だから探偵になったのね。世間に嫌気がさしたから、あなたは逃げ出したんだわ。社会が嫌で逃げ出すなんて、大人になりたくないと嘆く中学生となんら変わりはないわよ」
「否定はしない。俺は根本的な部分では幼い人間だと理解してる。だが頭には自信があった。世の中に夢と現実を両立させることができないのなら、せめてそれを探したいと思った。だから探偵になったんだよ。色んな人間の素性を探れば、見たことも無い何かが見れるだろうと思った」
「じゃあ、見つかったのね。満足したっていうのはそういうことでしょ」
杤原惣介は立ち上がって、少しだけ高くなった視点からガラス壁から覗く事務所前の八百屋を見つめた。杤原惣介が生まれる以前からあの場所で営業を続けてきた店主が、白髪の混じった髪に帽子をかぶせて威勢のいい声を上げている。買い物にやってきた主婦や通りすがりのサラリーマンが、今夜の食材を求めて色とりどりの野菜を物色していた。
高度情報化社会だのハイテク文明だの呼ばれても、人間は未だにこうしたアナログな生活を続けている。続けざるを得ないのだ。デジタルでは表現できない実感があるから。
自分のこの達成感もその類のものだ。杤原は両手を背広のポケットに突っ込んだ。
「たった今、な。冴子、あの二人はまるで夢の中に生きているみたいだと思ったことは無いか?」
唐突な質問だったのだが、彼女は案外あっさりと答えた。
「実はあるのよ。涼子ちゃんも秋津君も、私でさえ羨ましいと思うくらいに真摯な付き合いを重ねているじゃない? 私達と同じ世界で暮らしているのに、どういうわけかまるで違う生活を送っているように見えるの。現実離れしているってことは、つまり夢と同じってことでしょう。あんな風に、誰か素敵な殿方と平凡な毎日を暮してみたいと思っていた時期が私にもあったわ。今は無いけどね」
「それが自分にできると思ったか?」
「無理ね。あんな風に純粋な言葉を口から出すには、私は歳を重ねすぎたと思う。かといって、秋津君も年齢としてはギリギリでしょう。これから社会の様々な部分で自分を削らなければならない場面が出てくる。涼子ちゃんに対して何か行動を起こすとしたら、今しかないでしょうね」
杤原は頷き、自分のデスクの机上に腰を下ろすと、行儀悪く両足を椅子の上に置いた。
陽の光が照らすその顔を、前島冴子はさりげなく見やる。先ほどまで疲れ切った男の顔は、疲労とは別の何かで満たされていた。くたびれた背広に不釣り合いな姿勢の良さで太陽をふり仰ぎ、杤原惣介はもういちど頷く。瞳は眩しそうに細い。
「あの二人が俺の探していたものだったんだ。俺はあんな風に一生懸命に誰かのために仕事をすることも無かったし、これからもないだろう。今までの人生は全て自分のためだった。他の人間だって他人のために奉仕することこそあれど、自分本位であることを覆さなかった」
だが、秋津清隆は違った。彼が仕事を黙々と処理するのは、給料のためでも自分の好奇心のためでもない。全てがある一体の機械人形のためだったのだ。
そんな生き方ができたらと何人の人間が、何度願っただろうか?
「なんにせよだ。そろそろ大詰めだよ。黒幕は突き止めた。あとは直談判するだけだが、その前にまだ確認することがある」
「また出かけるの?」
「まあな。冴子、お前は今日は帰れ。それか秋津家にでもお邪魔してきたらどうだ。杤原探偵事務所はそろそろ店じまいかもしれん」
どういうことか。その質問に答える事もせず、杤原惣介は席を立った。
彼自身が探していたものは見つかったが、まだけじめを付けねばならないことが多々あった。
「探偵さんがこんな場所に何の用です? 私共は知られては困ることは何もありませんが」
踏ん反り返った組合長に向かって、杤原惣介はその慇懃な態度にもまるで無表情を崩さず、ズボンのポケットに両手を突っ込んで組んだ両足をわずかに動かした。
ここは目黒にある日本労働者組合東京支部。八階建ての今時では高くも無い古びた建物の中で様々な事務処理をこなしていく組合の人間がテーブルの上に茶を置いて下がる。一メートル四方のテーブルは使い古されており、この建物の中にある全てが歳を取り、くたびれているように見えた。この組合長もその影響を受け、たるんだ腹に禿げあがった頭、油でてらてらと光った度の強い眼鏡を芋虫のような丸っこい指でかけなおし、再び口を開いた。
「杤原惣介。ここでもたまに名前を聞きますよ。西新宿に居を構える名探偵、依頼遂行率、満足度、どちらも最高だと。現代の名探偵との呼び声もありますな」
「そりゃどうも。おたくは東京都から始まり、日本の全ての都道府県に支部を置く日本労働者組合の東京支部組合長という御身分でよろしいですか?」
ぶっきらぼうな返事に、男はわずかに眉を潜める。横暴な態度に無礼な言葉はある計算があってのものだが、少し疲れているために半ば本気でこんな姿勢である。演技する必要もないだけに、楽といえば楽であるが。
「ええ、まあね。他にも、海外にも支部を置く話が進んでおりますが、それは統合組合のほうでの話です。私はあくまで、ここ東京の労働者を代表する存在ですよ」
杤原惣介の狙いは、ここで労働組合と機械人形連続自殺事件を操っているであろう反機械主義団体との関係を探る事だ。六道清二の談と彼の独自調査により、厚生労働省の上位に位置する役人と労働組合、そして海外に根を持つ反機械主義団体の三位一体となった機械人形排斥運動が見つけ出した機械人形の欠陥、自らの機能を停止に追い込む破壊的手段。それらを知りうる第三者によって利用された加害事件が今回の機械人形連続自殺事件の全容であることはもはや疑いようのない確信が杤原の中にはある。機械人形は人間の作りうる物の中で最も美しい芸術だと評されてはいるが、芸術品とて完璧ではありえないのだろう。美しさとは時に不完全性を発端とする。むしろ完璧なものを作りだすことが困難だし、完璧とは何かという定義にも波及する問題であるから哲学の領域にも触手を伸ばさなければならない。
機械人形の欠陥を見つけた時点で労働組合がその存在の脆弱性を社会に直接には訴えず、なぜ怨恨を晴らすための道具として誰かに手段として用いられる以上に活用しないのかは謎だ。もしかしたら彼らはそれを知らないのかもしれないし、これとはまったく別の問題であるのかもしれないが、六道清二から聞いた限りは労働組合は間違いなく今回の一件に深い部分まで関与している。
なんにしても、まずは話さなければ。杤原は重たい口を開いた。
「いま仰った統合組合というのは、私の記憶によると全国に散らばる日本労働組合支部を束ねる本部であるのですが、こういった認識でよろしいですか」
「概ね合っております。労働組合というのは、時には数を力にして企業の不当な労働者の扱いに抗議せねばなりません。労働者とはいつの時代も、数でしか対抗することが出来ないのです。何しろたったひとりがストライキを起こしたところで大企業などは見向きもしませんからな。質で勝負するとなるとそれなりに企業内で階級が上の人間が有力候補に上がりますが、今度は企業の息がかかった人間である可能性が大きくなる。結局、私共に頼れるのは自分達しかいないのです」
「なるほど。そういえば何週間か前に何度目かの機械人形と労働者の処遇に対する直訴状が提出されましたが、あれは日本労働組合以外にも複数の団体の署名が含まれていましたね。やはり組合関係のものですか?」
「私共は非営利組織として、多くの方から理念に賛同をいただいております。このたび裁判所へ直訴状を提出するにあたり声をかけましたところ、みなさん快く引き受けてくださったので」
杤原は顔をしかめそうになるのを堪えた。よくものうのうと言い切れるものだ。事前の調べで、労働組合側から不自然な金の流れがあることはわかっている。高級車何台かを送れば、それは快諾する気にもなるだろう。その他にも複数の企業から逆に贈賄と思われる物品がこの労働組合へ送られている事も輸送履歴から判明している。今の時代は全ての情報が残るから調べるにも楽だ。然るべき相手に少し金を掴ませればスムーズに事が運ぶ。ここで六道清二に労働組合へ踏み込む大義名分を与えても良いのだが、そもそも彼は情報犯罪課というサイバー犯罪専門の部署に所属しているので、ここまでやってくるのはお門違いである。捜査二課あたりに知り合いがいるのならば話は別だが、彼の素性を洗っている暇もないし、彼を信用すると決めたのは自分自身。ならば後顧の憂いは無い事にして物事を進めるほかない。
「先日の直訴状提出に当たっては、我が支部が主にまとめ役を引き受けさせていただきました。いやはや、かなりの数の署名が集まりまして、政府にこの労働者たちの困窮の声が届くことを祈るばかりです」
とにもかくにも、この男は余計なことまでべらべらとよく喋る。好都合だ。ここは一気に確信を突くべきか。しかし自分が彼の上に居座る人物となるならば重要な情報は決して教えはしない。仮に話さなくてはならないことがあったとしても、そういったことに探りを入れられたらすぐに連絡を入れるように厳命するだろう。こうした自分より低い身分の人間に対して横柄な態度をとる輩にありがちなことだが、自分の頭の上から降ってくる言葉は全てが神のご託宣にも等しい。外堀から徐々に埋めていくべきか。
「時に組合長、労働組合の基本的な活動についてお教えいただけませんか。たとえば、この事務所の業務について」
「ええ、ええ、もちろんですとも」
小太りの組合長は、べろりと舌を出して厚ぼったい唇を舐めた。事務所の中は暖房が効いて乾燥している。
「労働組合の設立理念は、そもそも十八世紀イギリスに端を発します。当時は産業革命の名のもとに、多数の労働者が劣悪な賃金と環境で大量に働かされている状態でした。歴史的背景から見てもイギリスという国は、自分達とその他大勢という分け方をしていました。日本も完全に例外とはいえませんが、彼らの場合は自国民以外を植民地から連れてきた奴隷程度にしか思っていませんでした。社会科の教科書でよく見るでしょう。子供が鞭打たれながら紡錘器の前で働いている姿です。子供だけでなく、もちろん大人までもがあのような扱いを受けていました。特に移民などは酷かった。他にも独立後のアメリカや、日本でも労働者の待遇は悪化していたのです。そんな中で、労働者全員が団結してせめて労働環境だけでも改善しようと結束したことが労働組合の始まりでした。この事務所でもその理念に沿った活動を行っています。我が組合は労働組合の中でも特に多い組合員を獲得しており、それら企業支部から都道府県支部まで寄せられる各企業における労働者の扱いや賃金未払い、増加しつつあるサービス残業など、あらゆる労働環境の情報を集約して適切なルートで企業側へ抗議します」
「そうすることで労働者の労働環境改善を目指す、と。しかしそれほどまでに劣悪な環境である企業が現代にありますかね? 特に最近は景気の上向きによって賃金値上げをする企業も増えていると聞きます。私は一介の探偵にすぎませんのでよく存じ上げませんが」
「いやはや、これが多いのですよ杤原さん。景気の悪い時期にはどの企業も生き残りをかけて必死になるものです。無理な人員削減や経費のカットなどでね。そしてそうした突き詰めた企業戦略は腫瘍として残され、景気が良くなっても伝統や慣習として続くことになるケースはそう少なくはない。ましてや、機械人形の台頭で大きく業績を悪化させている企業もありますからね。利益を享受する人間がいるのならば不利益を被る人間も存在するのです。機械人形の普及で職を失ったり、ね」
聞き逃すことのできないキーワードだ。組んでいた足をばたりと落とし、僅かに身を乗り出す。
「機械人形の普及は、特に労働組合としての意味が強い福祉関係で大きな改善をもたらしたはずでは? 業績が悪化している企業とは、いったいどんな?」
組合長は遠慮なく訝しげな目で杤原惣介を眺めたが、そのよく回る舌が動きを止めることは無かった。
「企業というか、まあ、有体に言えば業界ですな。接客やらなにやら、アルバイトでやるような仕事ですよ。特にツアーガイドなどの観光業をはじめとする人と人がコミュニケーションを取る職場です。機械人形なら人件費を考えずに度に同伴させることもできますし、道を間違える事も無い。そうした細々とした場所で、機械人形に職を奪われている人間は大勢いるんです。下手をすれば、労働者ほとんどが機械人形になる日もそう遠くはないでしょう」
「なるほど。それが今回の直訴状提出にもつながったわけですね。未来のことを見越して今のうちに対策を取る」
「ええ。それにしても、探偵さんがなぜこんなことを? こういった粗探しはマスコミの仕事だと思っていたんですがね」
「純粋な好奇心ってやつですよ、あんまり気にしないでください」
組合長は後退した生え際までハンカチでぬぐいながら顔をしかめた。期待外れの返答に落胆するが、気を取り直して矛先を変えてみることにする。
「少し気がかりなんですが、労働組合という枠組みの中で過激な手段に出ている人間はいますか?」
「と、いいますと」
途端に口数の少なくなる男の隙はどうやらここらしい。警戒している彼の触れられたくない部分がどこなのか、ようやく見えてきた。
「たとえば平和的なデモや直訴状提出とは違う強硬手段です。厚生労働省は機械人形をめぐる社会改革にどこか惰性的で、労働者の終身雇用なども視野に入れた新たな社会基盤の創設を声高に叫んではいますが、現実としては既に大量の解雇者が出ている模様。これらに強い反発心を持つ人間が組合の中にいないとも限りますまい」
「いえ、そんなことはありません。我が労働組合は極めて民主的な方法に基づく活動を行っておりますし、その理念を損なうような行動は厳に慎むよう組合員には徹底してあります」
そこで組合長は口を噤んだ。杤原惣介は確かな手ごたえを感じながら、これから何を話すべきかを素早く考える。
この男は怒らなかった。こういった几帳面で組織の理念に盲目的に従う様な性格は、上からの命令には呻き声一つ上げずに従うこともままある。つまり、自分の中でしっかりとした考えを持っていない。だからこそ組織の掲げる目標に心酔するわけで、その仕草から見てかなり神経質な忠誠心を持っている事は想像に難くない。そんな男ならば杤原惣介の慇懃無礼な質問には激怒して然るべきなのだが、この男はあらかじめ用意されていたような解答を口からつらつらといった。明らかに準備された解答は、今回のケースでは第一級の注意事項だ。この男を使う上の奴らもかなり気が滅入っているだろうと容易に想像がつく。つまり、彼の今の言葉は嘘であり、労働組合による強硬手段、機械人形を所有する大企業の中枢に位置する個人への攻撃は確実なものとなった。物的証拠がないために法的には何とも言えないグレーゾーンではあるが、それはこれからなんとかすればいい話だろう。
そのために、杤原惣介は種を捲くことにした。恐らくは今夜中に芽を出す早育ちの種を。
「ですが、そんなことも無いようですな」
「なんですって?」
怪訝な顔で表情を引きつらせる組合長に、杤原は立ち上がりざまに言った。
「政治家と裏でごちゃごちゃやるのは正道じゃないと言ったんだ。自分達に正当な大義があるのならば大人しく世論が傾くのを待っているべきでしたな。ダムもいつかは決壊するもの、水がたまるのを待てばよかった。組合長、そのきっかけを政治にからめて自分の手で引き起こしちゃ、まったく民主的な活動は言えないのではないかね」
青ざめた顔の組合長をその場に残し、杤原惣介は足早に日本労働組合事務所を後にした。
薄汚れた雑居ビルの間にある建造物を見上げながら、背広のポケットに突っ込んだ両手を抜く。これからはまた一段と厳しい展開になりそうだが、何回かは通った道だ。これも仕事と割り切るしかあるまい。
陽が落ちてから、独りで飲みに行くことにした。
新宿の夜は煩雑だ。どれだけ区画整理をして街並みを整えようが、物理的な感性を無視して人々は己の欲望に基づいて行動する。そうしたこの街の気質は新参者に伝染し、いつの時代になってもネオンの光と道端に捨てられるゴミの数は変わる事が無かった。
杤原惣介は下戸ではないがそれほど酒が好きというわけでもなかった。体質としてはかなり強い部類なのだが、だからといって好きかどうかはまた別の話だと思うし、アルコールの力にまかせて紛らわせたい閉塞感や後悔には出会ったことさえあれど頼ろうと思ったこともなかった。焦燥感はいつだってあったものの、今日の昼に前島冴子と話したことでそれも解消された。久々に清々しい心持で歌舞伎町からひとつ外れた街道の居酒屋で焼酎二杯と枝豆、鳥の軟骨揚げを平らげた後、事務所へ戻ろうと青梅街道へ足を向けた時、後ろから近づく気配を感じてそのまま西新宿の墓地がある方面へと踵を返した。
少し肩を振り回して準備運動をする。尾行してくるのは結構だが、あまりにも素人だ。これは当たりかなと杤原惣介はネクタイを緩めながら思う。人気のない墓地の塀沿いにあるひっそりとした路地に踏み込むと、後ろから追いかけてくる足音は待ってましたと言わんばかりに歩調を速めた。どうやらいつもの帰路ではない方向へと対象が歩いていくことにも疑問は感じないらしい。呆れ返る杤原惣介の前には夜だというのにサングラスをかけた黒いスーツ姿の男が二人おり、くたびれた背広姿を見つけると悠然とした足取りで向かってきた。
三対一か。少し分が悪い。三人揃えば文殊の知恵だが、知恵が必要なのは一人である彼のほうだった。
のぞむところだ。こちらはむしろ知恵しかない。不敵な笑みをこぼすと、杤原惣介は振り回していた腕を止め、そのまま両手をだらりと下げて目の前の二人と相対した。男たちは素早く杤原の両脇に滑り込むと、突如として拳を振り上げてくる。
とりあえず、三発は受けることにした。瞼の裏で火花が炸裂し、思わずよろめく。気づけばもう一人が背後からつかみかかってきた。もう一度、最初の男が頬を張って背中から蹴りを入れられる。呼吸ができなくなって地面に倒れ伏しそうになるが、何とか転がって三人の包囲網から離脱する。
転がりざまに何とか起き上がると、切れた唇の血を手の甲で拭いながら、杤原は悲鳴を上げる身体に鞭を入れる。もう、容赦する必要は無いだろう。ここからは気兼ねなくやれる。
まず、先頭の男に回し蹴りを入れる。突如として見違える動きになった彼に驚いたのか、先頭を走って来ていた小柄な男が首をあらぬ方向へ向けて右側へ流れていき、そのまま個人経営の居酒屋が出しているゴミ箱の山へと突っ込んでいった。残りの二人は左右に別れて杤原を挟み撃ちにかかる。見え透いた動きに、まずは中肉中背の男に向かって正確な正拳突きを放った。
一撃、二撃。何とか腕で防御していた男の顔に最後の一発が当たる。そこから体勢を崩した男の右手と襟を掴んで一本背負い。残った一人の体に思い切り投げつけると、彼はそのまま真後ろにあった電柱に頭をぶつける。
だがさすがに体格がいいからか、それとも白目をむいている仲間を見捨てられないからか、つるりと剃った頭から流れる血を乱暴に手で拭うと、最期の大男が拳を握りしめて構えを取る。反対に、杤原は無防備に両手をだらりと下げると、口の端で意地悪く笑った。薄く尾を引いている血の跡が生々しい。
「空手と柔道をな、小学生から高校までやっていたんだよ。警察学校で手ほどきを受けても身にはつかん。武道は継続してなんぼだ。まだやるってんなら――」
「そこまでだ」
声に振り返ると、そこには警察手帳を示しながら近づいてくるスーツを着た男がいた。疲れた顔のその男は、これ見よがしに手帳と手錠をゆらゆらと振っている。ようやくかと胸をなで下ろしながら、いつの間にか爆発的に鼓動を再開した心臓が貪欲に酸素を求めて暴れまわった。
「警視庁情報犯罪課の六道清二だ。二人とも神妙にしろ。両者、及びそこにのびている二人を暴行罪で現行犯逮捕する。西新宿署まで同行願おうか」
大柄な男が踵を返す。路地は袋小路ではないのだ。しかし、反対側からもう一人の背広姿の男が現れ、大男の行く手を遮る。勢いよく立ち止まり、しばし六道と新しく現れた彼を見比べた後、観念したように肩を落とした。
「失礼します」
六道清二が杤原惣介の両手に手錠をかける。冷たい感触が骨に伝わった。
「お見事」
六道清二からの賞賛に片手で応えながら、杤原惣介は手錠で擦れて赤くなった手首をさすった。この人生で手錠をかけることこそ夢見た時期はあったが、まさか自分の両手にかけられる時が来るとは。感慨深げに六道が玩んでいる鉄の輪と鎖の加工物を眺めていると、彼はその視線を辿って表情を曇らせた。
「手錠をかけられるのは初めてでしたか。すみません、無神経なことを言って」
「いや、別に構いやしませんよ。今は自分のわがままを押し通す場面じゃない。そのくらいの判断はできているつもりです」
彼のデスク、情報犯罪課とプラスティックの表札がつけられたドアの先にある静かな捜査官たちのオフィスで見覚えのある男がマグカップをいくつか持って来て、それらを机上に置いた。あの路地で六道と共に現れたあの男だ。彼と六道清二は旧知の仲であるらしい。というのも、疲れた顔をしているのはこの二人以外に署内にはいなかったからだ。恐らく一緒に捜査しているのだろう、なんとなく想像がつく。
どういうわけか緑茶の揺蕩うマグカップは和洋折衷を通り越して傍若無人な組み合わせだった。目を丸くしながらもやけに冷え冷えとしたオフィス内ではありがたい温かさを両手で包み込みながら、杤原はさりげなく聞いた。
「どうもお構いなく。それで、そちらさんは?」
「警視庁捜査二課の田邊明彦といいます。この六道清二のお目付け役とでも思っていただければ。何しろ警視庁にこいつが入ってからの付き合いでね、今回も話を聞いて駆けつけた次第ですよ」
勘は正しかったようだ。茶を啜りながら頷き返す。
「なるほど。先ほどはありがとうございました。まさかこんな無茶に付き合っていただけるとは」
田邊明彦は笑った。どこか含みのあるものではあったが。上司に世話を焼かれたのでは、六道清二がこれほど真っ直ぐな警察官に育つのも当然か。
不意に、杤原惣介は気恥ずかしい何かを感じた。それはおそらく罪悪感か。自らが理想なしと決めつけた世界でも、不器用ながら抵抗を続けている人間は、確かにいたのだ。まだまだである。自嘲的な笑みをこぼしながら、熱くて渋い緑茶に再び口を付けた。
「私も警察官の端くれですからね。それにしても腕が立ちますなぁ。何か嗜んでいましたので?」
「ええ、まあ。高校まで空手と柔道をね。中学を卒業してからは月に一回程度ですが、若い頃の運動不足は深刻でしたから自主的に色々と手を出していました。どうしようもない我流ですが、護身術程度にはと」
「それにしたって、まさか暴漢三人を相手取って勝つとはね。ありゃあ俺達が出る幕も無いでしょうに」
六道の言に、杤原は肩を竦めた。まだ口の端からは赤い汚れが薄らとこびりついている。痛々しい化粧だが、その顔はけろりとしていた。
「この件については、警察官が介入する必要があったんですよ。と、田邊さんは知っているので?」
「大丈夫ですよ、この人も物好きですから話しても大丈夫ですよ」
上司からの一瞥にも気づかないふりをしている六道に笑いかけてから、杤原は続けた。
「ま、単純な構図ですよ。私は探偵だ。六道さんから話を聞いた限りでは、どれだけこちらでお膳立てしようが、警察に任せては黙殺されるのが落ちでしょう。どうしたって警察とは世間の目から隔離された組織だ。適材適所はこうした弊害を孕み、時には利用する輩もいる。今回の件も苦労して全貌を暴いて見せたとしても法を司る警察組織、ましてや厚生労働省あたりの役人も絡んでいるとなれば、呑気な事は言っていられない」
そこで切り札として杤原が切ったカードが、自らの職種だった。探偵とは、現代では知られたくも無い事実を暴き出して他人へと伝える下衆な職業だと知れ渡っている。その悪名こそが、今回の事件に関する唯一の突破口となった。労働組合の組合長を挑発すれば、あの小心者のことである、口封じに何か手を出してくることは容易に想像できた。相手が探偵ともなればどこへリークされるかも知れないし、そうなった場合、彼が責任を持っている東京支部が火種となって労働組合に対する大幅なイメージダウンは、どう言い逃れしたところで避けられないだろう。
そこで、杤原惣介が囮となって労働組合から差し向けられた刺客を六道が逮捕する。何故なら、襲ってくる人間は言うなれば動く物証となるからである。
「これで逮捕した三人のうち誰かが口を割っても、上の人間は何とかもみ消そうとするでしょうが、探偵である自分がこの件に関わった時点でそういった不正はかなりのブレーキをかけざるをえないはず。何しろ相手は探偵だ、頭の周りを飛ぶ蠅くらいには五月蝿いでしょうね。内部の不正は外部へは見せるわけにはいきませんからね」
説明を終えて涼しい顔のまま茶を啜る彼を中心に沈黙が流れる。効いているのかどうかもわからない古びたエアコンの空調音がブーンとくぐもった音を立てる中で、ようやく六道が口を開く。
「杤原さん、どうやら俺はあんたを誤解していたようだ。とんだ切れ者ですよ。あなたのような人間が、この警察にいてくれればよかったのに」
「それは、なんともね」
苦笑いしか返せない。まんざらでもなく、探偵よりも警察を選んでおけばよかったのかもしれないと毛の先ほど思ってしまったからには。それも、たらればの話にしかならない些細な感傷だ。警察官になっていたら、秋津清隆や涼子、そして前島冴子とも知り合う機会はなかっただろう。あのビルの四階にある探偵事務所は居酒屋にでもなっていたのかもしれない。そんな未来には興味が無い。
常に移り変わっている新宿という街では、立ち止まれば流されるだけ。大勢の人間が無意識のうちに進める改革は飽きる事を知らず、短時間で目に見えるほどの変化は起きないものの決して留まることはない。気付けば変わっている。それが時代の流れだ。そんな中、自分が探し求めていた何かを見つけた今日というこの日、あのビル群を一望する事務所の存在は、きっと職員の三人のうち誰が欠けていても存在はできなかっただろう。
杤原は首を振って幻想を振り払った。もしもの話をしても意味はない。自分がこうしている意味、理由は数えきれないほどある。今は過去に適切な選択をしたのだと自分を信じ、そして感謝する以外にない。
「それで、これからどうします?」
田邊の言葉に、彼はほぼ自動的に答えていた。
「お二人に任せます。何かわかれば連絡をください。私は、明日の朝から迎えなければならない人間がいるもので」
ここまでくれば、あとは取調室で三人のうち誰かが参るのを待つだけだ。あれだけ痛めつけたので、大男以外はまだ気絶したままなので、彼以外は必然的に除外されるが。だが労働組合が機械人形連続自殺事件に関わっていることをあの三人から聞き出したところで、肝心の機械人形を自殺させた方法を明らかにしない限りは立件のしようがない。そのあたりもどうにかせねば。考えながら、押し寄せてきた疲労の波に流されつつある体を引きずってオフィスの入り口を潜る。
ここまでやっても事の半分も済んではいなかった。改めて感じる目の前の壁の数を数えれば、肩にのしかかる見えない重圧は増すばかりだった。
*
大学の研究室をラップトップ片手に出ると、既に二徹した頭がずきりと痛んだ。後頭部のほうが痛むから、視覚野が悲鳴を上げているのだろう。はやい話が目の疲れ。眼精疲労ならば脳味噌の思考に使う部分は何も問題は無いはずだ。そう意味深長な納得をすると、気を取り直して教授のオフィスへと急ぐ。
ガラス張りの廊下を歩くと、いつの間にか陽が落ちていた事に気が付いた。思い出したように白衣のポケットに滑り込ませている携帯端末を見れば時刻は既に午前二時。今日も徹夜だろうか。そんな憂鬱になる考えを振り払って歩調を早め、パンプスの踵が床を叩いてくぐもった足音を立てる。
秋津清隆に頼まれて、彼の家で涼子の診断をしてから既に二日が過ぎようとしている。ラップトップの記憶領域に保存してあるオート・マタニティの独自形式ファイルをフーリエ変換し、あらゆる分析ソフトにかけて波形抽出、それらの見解を引っ張り出してきた教科書と見比べ、それが機械心理学の見地から見てどのような兆候を示すものかを検分していく。この情報は既にあらゆる周波数帯に成分を含んだものとして加工してあるから膨大な情報量を内包していることになる。これらを自分の勘と経験だけで手探りの分析を行っている。
そこでどうしても滞る部分が出てきた。風呂にも入らず、ぼさぼさになった髪の毛を片手で掻きむしりながら、鳴海遥はすっかり化粧の落ちた顔をさする。
周波数ごとに膨大な量のデータが抽出され、どうしてもそれらの住み分けができない部分が出てきたのだ。こうなると、師である教授に頼むしかない。この大学に入ってから最初に機械心理学の講義を取った時からの付き合いであるかの男性は、今も彼女の良き後見人であり、教師である。本人も豊富な実績と理論を頭の中に叩き込んだ日本における機械心理学界でも指折りの権威として知られている。今では人形の制作はしていないが、彼に教鞭を取ってもらうことがいかに素晴らしいことかを骨身の髄まで染み込ませている彼女は、自分の力量ではどうしようもない壁にぶつかると一頻り努力した後で研究室から彼のオフィスへ駆け込むことにしている。
研究棟のエレベーターに乗り、誰もいない深夜の建造物を五階まで上がっていく。扉が開けば先ほどと同じような通路が目の前に広がるが、並ぶドアから見える部屋は研究室の雑多な空間ではなくきちんと整理整頓が行き届いたオフィスだ。ここは教授たちが居を構えるオフィスフロアで、学生も頻繁に出入りする場所でもある。しかし深夜ともなればその装いは一変し、非常電源以外に明かりはなく、ただひとつの部屋からまだ光が漏れだしているのが目についた。やはり今日も自分の部屋で寝泊まりしているらしい。自分も同じ穴の狢である事は理解しているが、女の身である分もう少し気を使うべきなのだろう。そんな事も言っていられない事態ではあるのだが。
ようやく辿り着いたドアを細い指が悲鳴を上げるほど強くノックすると、部屋の奥から足音が聞こえてきた。じれったいほどゆっくりとした歩調に鳴海遥は苛々と足を鳴らす。おおよそ助けを求めている側とは思えない。やがて鍵が開いてスライド式のドアはゆっくりとその身を横に引いた。
「やはり君か。何とも酷い様子だな、何日寝ていないのかね」
「まだ二日です、床山教授」
いかにも眠り足らないと言いたげな顔で目を擦りながら出てきたのは初老の男で、ひょろりと背は高く茶色い毛糸のセーターとそれよりも濃い茶色のスラックス、そしてスニーカーという出で立ちだった。灰色の髪と口元で伸ばしてある髭は長くも短くもない長さに切り揃えられており、真っ黒なフレームの大きな眼鏡をこれ見よがしに人差し指で押し上げた。目は不機嫌だからか細くなっている。
彼女は一応、礼儀としてぺこりとおざなりなお辞儀をすると、見下ろしてくる男の視線と真っ向から対峙する。
「床山教授、少し助力を願いたい部分がありまして。夜分遅くに失礼とは思いましたけれど、それ以上に時間が無いんです」
「失礼と思ったのなら引き返すべきなのだがね、本来は。今は何時かな」
「午前二時十七分ですが、何か?」
「何かって、本当なら私のように寝ている時間だろうに。それにさっきも言ったが、君、風呂に入った方がいいぞ。顔色も悪いし、何を焦っているのか知らんが明日にしなさい」
そう言い残し、床山は欠伸をかみ殺しながら扉を閉めようとドアの取っ手へと手を伸ばしたが、それよりも先に鳴海遥の腕がドアを抑えていた。露骨に顔をしかめながら、男はじろりと教え子を見下ろす。
「待ってください。これは私だけの問題ではないんです。私の大切な友人からの頼みでもありますし、私自身も誰かがこれを調べる必要があると確信しています。そのためには、教授の助けがどうしても必要なんです」
「鳴海君、君の情熱はわかるが限度というものがありはしないかね? いくら努力したところでいかんともしがたい結果もある。今回がそれでないと言い切れるか? 言い切れないだろう。ならば早く帰りなさい。こんな夜中に、正直に言って迷惑だ」
鳴海遥は、徹夜続きで呆けていた全身の細胞に突如としてエネルギーが流れ込むのを感じた。これ以上ないくらいの反骨心を剥き出しにして、自分でもどうかと思う暴論を恩師に吹っ掛けようとしている事に気が付くのは、すっかりすべてを言い終えた後だった。
「そんなのわかってるわよ! 私だってこんなことに首を突っ込む必要なんか、この髪の毛の毛先のさらに先にくっついた埃ほども無いって言うのに、どういうわけかあいつは私を頼ってくるし、私は断れないしで、いちばん困ってるのは私なんだから――――」
やってしまった。そう思った時にはもう遅い。一息に言い終わって息を整えている彼女を、床山は唖然とした表情で見つめていた。彼にこれだけの暴言を吐いたのは自分が初めてだろう。前例のない事だ、恐らくはクビか。そんな事を頭の中でぐるぐると巡らせている内に、床山はあんぐりと開けていた口を閉じると、一転して面白い玩具を見つけた子供のように笑みを浮かべた。
「まさか、君がそこまで感情的な言葉を口走るとはな。いやはや、こんなに珍しいものを視れるとは、今日も泊まりこんでよかった」
憮然とした顔で佇んでいる彼女の前から体を避けて、部屋の中へと招き寄せる。
「入りたまえ。喜んで協力させてもらおう」
「ありがとう……ございます」
ラップトップを胸に抱え、鳴海遥は部屋の中に滑り込んだ。床山は一カ所しか付けていなかった証明を全て点けて、自分のコンソールを起動する。モニター二つを同時接続したもので、接続端子もハブにつながれて様々な機器と連結されている。デスクの上にはメモ帳やボールペンが申し訳程度に置かれており、きっちりと整理された書類の山は彼の几帳面な性格を表していた。部屋の反対側を見れば生徒対応用のプラスティック板と金属脚を組み合わせた広いテーブルと四脚の同じ素材でできた椅子が置かれており、彼は手近なひとつを引っ張ってきて指さした。
「かけて。それと、そうだな。茶でも淹れよう」
ファイルキャビネットの片隅に置かれている給湯ポットと急須を取り出し慣れた手つきで茶葉をアルミ缶から放り込んでいく。湯呑もしっかり洗った状態で置かれていて、先ほどの剣呑とした様子から一転して歓待の空気になっていることに、鳴海遥は安堵を覚えた。どういう理由かはわからないが、床山は彼女を受け入れてくれた。なら、ここからはさらにごねるべきだ。図々しい事は承知の上であるが、そんなことも気にはしていられない。
「教授。先ほどお話ししたとおり、見てもらいたいものがあるのですが」
「まあ、そう焦ることはない。君のことだ、明日までという期限でもないんだろう?」
「それはそうですが」
「なら少しは心を休めなさい。僕も君と話したいことができたからね。ああ、もちろん眠くなったら言ってくれ。仮眠室のリザーブ、僕が取っておいた分を譲渡しよう」
「いえ、大丈夫です」
すっかり混乱した頭で、目の前に置かれる湯気の立った湯呑を見つめる。茶色くごつごつしたそれを手に取ると、秋の終わりを告げる冷たい空気に浸った手に熱が伝わってきて、じんじんと脈を打ち始める。驚いた、自分の手はこんなに冷たかったのか。その冷たさは涼子の手を思い出させた。生気を失った白い指を見下ろせば、この手と彼女の手の違いはどこにあるのだろうかと考え込んでしまいそうになる。
ほのかに赤みを取り戻してきた手をさすっていると、自分の湯呑を手にデスクへ腰かけた床山がいった。
「では、まずは君の要件を済ませてしまおう。そのラップトップかね?」
「はい。これはある機械人形から抽出した感情曲線なのですが、周波数帯分離がどうにも思うようにいかないもので。目覚めたままのサンプリングでしたから、何か不確定要素が混入している可能性も無きにしも非ずですが」
卓上で画面を彼に向けて説明すると、彼は真剣な面差しで眼鏡をかけなおし、画面を見つめた。各周波数帯に別れたタブには機械人形、涼子の感情成分が様々な波形として表示されている。しばらく曲線の先を目で追った後で、床山は低く唸った。
「確かに、少し妙な信号が混入しているようだね。論理集積回路のことを考えると何かしらのハッキングを受けているわけでもないだろうし」
「そうなんです。ちょうど高周波から低周波とある特定の間隔を持っているわけでもなく、所々で不可思議な波が出ているんです。副次的なものを除いて六つある神経のうち、別の一種があるのかもしれないとも考えましたが、どうも彼女の型式を見る限りは標準的な機械人形なんです」
「フム。見たところ、かなり動揺しているようだが波形そのものに違和感はないな。逆離散は試してみたかね?」
「試しましたが、ほとんど同じ結果です。私の目から見て何か別の信号が混入することに違いはありませんでした」
「話を聞く限りだと、この周波数帯分離の時点で煮詰まってしまったようだな。しかしこの状態でも機械人形の動向は確認できるに足るものだと思うのだが? 別段、手の付けられないノイズが混入しているのでもないし、物理的なノイズである可能性もある」
「今回はその可能性はかなり低いとみています。が、私もそのまま分析してみましたが、どこまでいっても違和感を感じざるを得ないのです。なんというか、分析を進めた先にとっかかりがあるのではなく、この違和感の原因が鍵なのではないかと。私が知りたいもの、その正体が、どうもそこにあるらしいのですが」
床山はしばらく波形を見つめてから、湯呑の茶を啜った。そのままラップトップから目を離さずに全体周波数分布まで画面をスクロールした時、その瞳に微かな驚きがひらめくのを、鳴海遥は見逃さなかった。日本でも指折りの機械心理学者が驚くような変化が何かあったのだろうか。自分の見落としに焦りながら、鳴海遥も椅子を動かして画面を食い入るように見つめる。しかし、そこに目を見張る様な何かは無く、すっかり網膜に焼き付いた波形が山と谷をいくつも作っているだけだった。
「まさかな。鳴海君、君がこれを持ってくるとは」
意味深長な呟きを残すと、床山は寂寥感で打ちひしがれた表情になった。その瞳は虚ろで、どこを見ているのかすらもわからない。ただ、眼鏡のレンズがラップトップの明かりを反射して白く光っている。
「教授?」
「この波形、ノイズを除去してみなさい。あてる周波数はこれらの定常波だ、わかるね? そこから、ノイズがこの機械人形に対してどのような影響を及ぼしているのかを探るんだ。君にならできる」
「あの、そうではなくて。この現象を知っているんですか?」
ほんの一瞬の躊躇の末、床山は首を振った。否定の意味ではなく、言うことはできないという意味だ。
「知っているといえば知らないし、知らないといえば知っている。遅かれ早かれこの現象には至るだろうとは思ってはいた。私にはこの問題について語る資格もないし、知識もまた然りだよ。もうすでに老人の時代ではないということだ」
首を傾げながら、鳴海遥は彼の押しやったラップトップを閉じた。研究室のラベルが貼られているそれを指でつつきながら、この初老の男が何を言おうとしているのかを探ってみたが、その思考も次の彼の言葉で遮られた。
「鳴海君。君は今、想い人でもいるのかな」